覚えていない王子
照合室の空気が止まった。
イツキはすぐには答えられなかった。
彼に先に伝えるべきだった。
その一文が余白から浮いた瞬間、頭に浮かんだ顔は一つしかない。けれど、それを口に出した途端、推理ではなく告発になる気がした。証拠はまだ薄い。薄いまま人の名を置けば、その名のほうが先に傷つく。
「分かりません」
ようやくそれだけを返すと、ソナの目が鋭く沈んだ。
「いま、迷ったな」
「迷いました。でも、断言はできません」
「おまえはさっき、回廊で殿下を見ていた」
逃げ道のない言い方だった。
イツキはうなずくしかなかった。隠し通せる段階はもう過ぎている。なら、嘘よりは足りない事実を積むしかない。
「処刑対象の名前が、アルト殿下だったからです」
ソナの指先がぴくりと止まる。
「その紙を見つけた時点で、確かめたくなりました。殿下が今どうしているのか。何か異変に巻き込まれていないか」
最後の一言は、言ってから遅かったと思った。
ソナの声が、一段低くなる。
「異変があると、なぜ言える」
イツキは唇を噛んだ。
見たからだ。回廊で、執行庭の案内板を見た瞬間の、あの半歩の乱れを。
だが、それは紙の証拠ではない。
「……執行庭の案内板を見たときだけ、殿下の様子が変わりました」
「それだけで殿下と文書を結びつけるな」
叱責というより、刃の平で押し返されるような声音だった。
ソナは処刑命令書を机へ伏せた。余白の傷が隠れる。
「この件は私が預かる」
「待ってください」
イツキは一歩踏み出していた。自分でも驚くほど早かった。
「その一文が本当なら、誰かに伝わるのが遅れて何かが起きたんです。なら今回は、放置しないほうがいい」
言い終える前に、扉の外で足音が止まった。
二人とも同時に口を閉ざす。
「ヴァレル卿」
扉越しの声は、若い近衛のものだった。
「第三王子殿下が、記録棟で昨夜の受理目録を確認したいと」
ソナの視線がイツキへ戻る。その一瞬で、考えが切り替わるのが分かった。
「ここへ来るのか」
「はい。局長室前は人が多く、静かな部屋を、と」
イツキの喉がひどく鳴った。
記録棟へ来る。
あまりに早すぎる。紙の中でしか重なっていなかった名前が、扉一枚向こうまで来ている。
ソナは短く答えた。
「この部屋は使えない。隣の閲覧室へご案内しろ。私もすぐ行く」
「はっ」
足音が遠ざかる。
それを聞き届けてから、ソナはイツキを見た。
「ここを動くな」
「殿下に会わせてください」
ソナの眉がわずかに寄る。
「正気か」
「正気じゃないかもしれません。でも、この紙に殿下の名前がある以上、見ているだけでは駄目です」
「おまえは何を言うつもりだ」
問いは真っ直ぐだった。
イツキは答えに詰まる。
処刑命令書があります。
あなたは明日死にます。
前に一度、死んだことがあるかもしれません。
どれも最悪だった。言われた側が信じるはずもないし、信じたとしても壊れる。
それでも、執行庭の木札を見たアルトの指先は、もう一度頭に浮かんでしまう。
「執行庭のことを聞きます」
イツキは乾いた喉のまま続けた。
「執行庭、と」
ソナの目がはっきりと険しくなった。
「ふざけているのか」
「違います。回廊で、殿下はその案内板を見た瞬間だけ足が乱れました。あの文書と関係があるなら、執行庭という場所に心当たりがあるかもしれない」
照合室に、しばし沈黙が満ちた。
ソナは怒ると思った。
だが彼女はすぐには否定しなかった。短く息を吐き、考えるように目を細める。
「ただし、おまえを殿下の前へ野放しにはしない」
そう言って閂を上げ、扉を開ける。
連れ出される形で廊下へ出ると、記録棟の空気は先ほどより張っていた。下役たちが遠巻きに頭を下げ、閲覧室の前だけが不自然に静かだ。
ソナはイツキを半歩後ろへ下げたまま、その扉を叩いた。
「ソナ・ヴァレルです」
中から返答がある。
「入れ」
その声を、イツキは回廊でも聞いていた。
扉が開く。
閲覧室の窓辺に、アルトが立っていた。長机の上には昨夜の受理目録が広げられている。護衛を外したわけではないだろうが、部屋の中には近衛が一人もいない。王子自身が静かな場所を選んだのだと分かる。
アルトはまずソナを見て、その後ろにいるイツキへ目を止めた。
「記録官か」
声は落ち着いている。だが視線は柔らかくない。人を見るというより、何を持ち込んだかを測る目だった。
「下級記録官イツキ・カナメです」
イツキが礼を取ると、アルトは目録から手を離した。
「ソナ、なぜここに」
「朝の通路で殿下を不自然に見ていたため、身元を確認しました」
簡潔すぎる説明だった。だが嘘はない。
アルトの視線が再びイツキへ戻る。
「私に何か用か」
問われた瞬間、用意していたはずの言葉が全部ばらばらになった。
紙の話をすれば終わる。終わるが、たぶんそれだけで閉ざされる。
イツキは手のひらに爪を立てた。
証拠ではなく、反応を見る。
それしかない。
「殿下」
声が少し掠れた。
「執行庭という場所に、何か心当たりはありますか」
言った途端、空気が変わった。
アルトの表情は変わらない。
変わらないまま、右肩だけがほんのわずかに強張る。
次に、左手が無意識に右の手首を掴んだ。回廊で見たのと同じ動きだった。今度は近い。爪が布越しに食い込み、白い指先から血の気が引くのが見える。
アルト自身も、その動きを不審に思ったらしい。掴んだ手をすぐに離したが、呼吸の乱れだけは隠しきれなかった。
「……いや」
答えは短い。
短いのに、その一音が喉に引っかかっていた。
アルトは眉を寄せる。
「なぜ、その場所の名を出す」
イツキは息を呑む。
少なくとも、本人の口ぶりからは事情を知っているようには見えない。
けれど、その名前を嫌がっているのだけは分かった。
言葉にならない確信が胸へ迫ったとき、ソナが一歩前へ出た。鎧の鳴る音は小さいのに、それだけで視界が塞がれる。
「そこまでです、殿下」
ソナは振り返らずに言った。
「この者への聞き取りは、まだ終わっていません。文書の件も未確認です」
アルトはソナ越しにイツキを見た。
「聴取」
「不審な文書を所持している疑いがあります」
ソナの言葉に、イツキの背中が冷えた。
だが彼女の声音は、王子へ危険を知らせるためのものでもあった。これ以上近づけさせないという線引きが、はっきり引かれる。
アルトは数息ぶん黙ったあと、視線を細めた。
「その者は何を知っている」
「まだ断定できる段階ではありません」
「なら、確かめるまで私から遠ざけるつもりか」
ソナは即答しなかった。
代わりに腰の剣へ手をやるでもなく、ただ半歩だけ立ち位置を変える。イツキとアルトの間に、完全に身体を入れる位置だった。
「はい」
短い返答だった。
それで十分だった。
アルトの目に、かすかな苛立ちと、それより深い疲労がよぎる。だがそれも一瞬で沈む。王子は感情を表へ出さない訓練を受けてきた人間の顔へ戻った。
「……分かった」
そう言った声の奥にだけ、まだ拭えない硬さが残っていた。
執行庭という名だけが、まだその場に残っているみたいに。
ソナは頭を下げ、扉の脇へ退くふりをした。
そのまま振り返り、イツキの腕を掴む。
指の力は強いが、骨を折るほどではない。逃がさないために必要なだけの強さだった。
「来い」
低く命じられ、イツキは一歩よろめく。
背後で扉が閉まりかける寸前、アルトの声がもう一度だけ届いた。
「イツキ・カナメ」
呼ばれて、反射的に振り向きかける。
だがその前に、ソナの手がさらに強くなる。
「見るな」
囁きに近い命令だった。
次の瞬間、閲覧室の扉は閉ざされた。
廊下へ残ったのは、掴まれた腕の痛みと、名の意味をうまく掴めないまま強張った王子の呼吸だけだった。
イツキは首を振った。
「まだ分かりません」
「王子か」
「そう決めつけるには早いです。でも、個人に向けた言葉です。正式文書の余白に残るには、不自然なくらい」
ソナの指先が、文書の端をつまむ。握り潰さないぎりぎりの力だ。
「先に伝える、か」
それは独り言に近かった。
イツキは、その声がほんの少しだけ掠れていることに気づいた。
この人も、理由の分からない何かに怯えているのだろうか。
問いは喉まで来たが、出せなかった。今ここで人の傷へ踏み込めるほど、イツキは強くない。
代わりに、紙を指した。
「この命令書は、処刑そのものだけじゃない。たぶん、その前に失敗した伝達の記録でもあります」
ソナはしばらく返事をしなかった。
やがて閂のほうへ視線をやり、扉の向こうの気配を確かめる。
「この部屋で見たことは、まだ誰にも話すな」
命令だった。
だが、その中に先ほどまでの尋問の硬さはなかった。
「特に、確かでない話を殿下の前でするな」
イツキははっとして顔を上げたが、ソナはもうこちらを見ていなかった。文書の余白に残る傷だけを見つめている。
次の瞬間、廊下の向こうで重い足音が止まった。
扉越しに、男の声が落ちる。
「ソナ殿。第三王子殿下がお呼びだ」
照合室の空気が、ぴたりと固まった。
ソナの指先の下で、余白の傷が朝の光を細く返す。
まるで、消された一文だけが、今さら遅いと知りながら、なおこちらへ訴えているみたいだった。




