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死に戻る王子を、記録官だけが覚えている 〜本人も忘れた失敗を、僕だけは知っている〜  作者: セルヴォア


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余白の傷

ソナに促されて歩き出してからも、イツキの意識は腕の中の控え帳に貼りついたままだった。


記録棟の回廊を外れ、階段をひとつ下りる。案内されたのは騎士詰所ではなく、記録棟の端にある小さな照合室だった。普段は破損文書の補修前検分に使われる部屋で、壁際に細長い机が二台、中央に燭台台、窓は東向きにひとつだけある。


怒鳴るための部屋ではない、とイツキは思った。

紙を見るための部屋だ。


ソナは扉を閉めると、内側から閂を落とした。音は軽いのに、背中へかかる圧は重かった。


「出せ」


余計な前置きはなかった。


イツキは控え帳を胸に抱えたまま、喉を鳴らした。


「王子殿下に危害を加えるつもりはありません」


「それを決めるのはおまえじゃない」


「ですが」


「なら、なおさら中身を見せろ」


ソナは机の端に片手を置いた。鎧手袋はつけていない。素手だった。抜剣する気配はない。代わりに、逃がさない姿勢だけが静かに整っている。


イツキはその手を見た。節の固い指先に、細かな紙傷がいくつか走っている。騎士の手にしては妙だった。文書を触ることの多い手だ。


「あなたは」


口が勝手に動いた。


「あなたは、こういう命令書を見慣れていますか」


ソナの目が止まる。


その沈黙で、余計なことを言ったと分かった。


「……なぜそう思う」


「普通の護衛なら、まず僕の体を見ます。でもあなたは最初から控え帳を見ていた。僕が紙を隠していると分かっていた」


ソナは否定しなかった。


「記録官は、皆そんなふうに人の手元を見るのか」


「見る側が慣れていると、隠す側は油断します」


言ってから、自分でも嫌な答え方だと思った。怯えているくせに、言葉だけは棘を選んでしまう。


だがソナは気分を害した顔をしなかった。ただ、少しだけ視線を下げた。


「その中身が殿下に関わるなら、私は確認する」


イツキは観念して控え帳を開いた。挟んでいた一枚を、机の上へ置く。


ソナは紙を手に取らない。まず上から見下ろし、件名を読み、発行欄へ視線を移した。そこまでは動きがなかった。


署名欄に達した瞬間、彼女の呼吸だけが浅くなった。


「……明日の日付だな」


「はい」


「そして、おまえの署名がある」


「はい」


「偽造ではない、と」


イツキは即答できなかった。


偽造ではない。そう言い切りたい気持ちはある。だが証明しきれているわけではない。断定の速さは、記録官にとって最初の失敗だ。


「少なくとも、雑な偽造ではありません。紙も書式も印章の位置も、筆跡も筆圧も、どれも本物に近すぎます」


ソナはようやく一枚を指先で押さえた。押さえたのは件名でも署名でもなく、余白だった。


「なら、どこを見ていた」


イツキは息を止めた。


「回廊で、ですか」


「違う」


ソナの爪先が、文書の左下を示す。


「さっきからおまえは、そこばかり見ている」


イツキは視線を落とした。


署名欄の外、法務局の追記欄よりさらに下。通常なら紙質のゆらぎしかない場所に、細い引っかき傷が三本、斜めに走っている。光が真上から当たれば見えない。窓際の斜光を受けたときだけ、かすかに白く浮く傷だ。


さっきから気づいていた。気づいていて、口に出すのをためらっていた。


「これは」


言葉を選ぶあいだに、ソナが窓の鎧戸を半分だけ開けた。朝の光が角度を変えて落ちる。


紙の余白に、傷が浮いた。


引っかいただけではない。上から削って、消した跡だ。


イツキの背筋に、机へ向かった朝と同じ冷えが落ちた。


「読めるのか」


ソナの問いは、低かった。


できる、と言ってしまえば楽になる気がした。


だが実際は、そんなに都合がよくない。


「全部は無理です」


イツキは首を振った。


「読めても、一部だけです」


「どういう意味だ」


「正式文書は、署名や印で形が固まるぶん、消した痕も残りやすいんです。でも残るのは文字そのものじゃない。筆圧や、削った向きや、急いだ跡です」


言いながら、自分でも曖昧さに苛立つ。


記録は人間みたいに親切じゃない。


残るのは、書かれた言葉そのものより、消されたときの形だった。


イツキは机の横へ回り、光を受ける角度を探した。照合室の中央燭台を少しずらし、銀皿の反射を紙へ返す。普段なら補修係の仕事だ。下級記録官が勝手に器具の位置を動かせば叱責ものだが、今は誰も止めない。


余白の傷が、わずかに深さを変えた。


一本目は浅い。二本目が深い。三本目は途中で止まり、紙端へ逃げている。


「三度、消そうとしています」


「同じ文をか」


「たぶん」


イツキは身をかがめた。鼻先に古紙の乾いた匂い。そこへ、封蝋に残った油の重い匂いが混じる。


最初の削りは慎重だ。文字の上だけを狙っている。二度目は深い。急いで力を入れたせいで、紙繊維が寝ずに立っている。三度目は雑だ。止めきれず、欄外まで傷を引いている。


消した人間は、途中で焦っている。


「誰かに見られる前に、急いで消したんだと思います」


考えがそのまま声になった。


ソナがすぐに反応する。


「誰に」


「誰に見られたくなかったかまでは分かりません。でも、落ち着いて消した跡ではないです。最初は丁寧で、途中から急に雑になっている。隠すためというより、時間がなくなって焦った削り方です」


ソナは腕を組まなかった。代わりに、机へ置いた手の指先だけがわずかに曲がる。


「続けろ」


イツキは喉を湿らせた。


誰かの命に関わる紙を前にすると、自分の声まで他人のものに聞こえることがある。


「追記欄の位置から見て、これは正式な条項ではありません。発行後の覚え書きか、伝達用の短い追記です。しかも上役向けではない。短くて、個人に向けた言い方です」


「なぜ分かる」


「正式な補足なら、件名か執行番号を入れます。でもこれは短い。長くても一文です」


ソナは黙ったまま、紙から目を離さない。


イツキはその横顔を見た。


強い人間は、もっと早く否定するものだと思っていた。こんな得体の知れない話、ふつうは一笑に付す。なのに彼女は笑わない。


笑えない理由が、どこかにあるのかもしれない。


「水を」


自分でも意外なことを口にしていた。


「え」


「薄くでいい。濡らした布か、息でも」


ソナは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに隅の手洗鉢から布を取って戻ってきた。差し出された白布は、きっちり絞られている。


「紙を傷めるな」


「傷めません」


イツキは布に触れず、そこへ顔を近づけた。湿り気を含んだ冷気だけを紙へ流す。乾ききった繊維は、わずかな水気で反り方を変える。削られた部分は特に敏感だ。


待つ。


数息。


余白の傷の内側に、ほとんど見えない段差が浮いた。


文字そのものではない。筆先が沈んだ軌道だ。


イツキは視線を細める。


最初の字は、払いが短い。次は縦画が深い。その次は、横へ逃げる細い線。


「……ひ」


無意識に声が漏れた。


ソナが顔を上げる。


「何か読めたのか」


「一文字目だけです。たぶん」


「たぶん、は要らない」


「要ります」


思わず強く返してしまった。


ソナの目が止まる。


イツキはすぐに息を呑んだが、今さら引っ込めても遅い。


「読み違えたら、記録で人が死にます。だから必要です」


部屋の空気が、しばらく動かなかった。


先に視線を外したのはソナだった。


「……なら、読めるところだけ言え」


許された気はしなかった。ただ、続けるしかなくなった。


イツキはもう一度、余白へ向き直る。


ひ。


そのあとに続くのは、細い縦の入り。線の間隔。言葉の長さ。


彼。


そう読める気がした瞬間、胸の奥で何かが強く打った。


「彼」


ソナが低く繰り返した。


イツキはうなずきかけて、止めた。


まだ早い。


けれど、そこから先は逆に見え始める。文字を読んだというより、削り方の焦りが言葉の形を押し上げてくる。


短い助詞。縦に流れる二字。払いの長い終わり。


「彼に」


声が掠れた。


それは命令書の下に書かれるには、妙に私的な言い方だった。


王子殿下でもない。処刑対象でもない。第三王子でもない。

ただの「彼」だ。


ソナが無意識に半歩寄った。


「続きは」


イツキは首を振った。だが目は紙から外せない。


紙端へ逃げた三本目の傷は、その先の言葉が急いで消されたことを示している。伝える。先に。そんな形の線だ。


断定するな。けれど、見える。


「先に」


ソナの息が、今度こそ乱れた。


「……誰に何を」


その問いはイツキに向けられていたが、実際には紙へ向けたものだった。


イツキは最後の傷を追った。文末は長くない。謝罪でも報告でもない。もっと切迫している。行動が先に来る文だ。


伝えるべきだった。


そう読んだ途端、頭の奥で、回廊の木札を見たアルトの半歩の乱れが重なった。


けれど、それだけで結びつけるのは早い。


この「彼」が誰なのかも、何を伝えるべきだったのかも、まだ何ひとつ確定していない。


イツキは紙から身を離した。膝が少し震えている。


「全部は読めません。でも、言いたい形は見えてきます」


ソナは何も言わない。


イツキは唇の乾きを舌で湿らせた。


「『彼に先に伝えるべきだった』」


照合室の窓から入った光が、その一文のない余白を白く照らしている。


書かれていない。


それなのに、そこにある。


ソナがゆっくりと顔を上げた。いつも動かないはずの表情の底で、何かがひび割れかけているのが分かった。


「彼、とは誰だ」

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