処刑対象は第三王子
回廊に出ると、朝の冷気は紙のにおいを薄め、代わりに磨かれた石床の冷たさを際立たせた。
記録棟の三階は、他の棟へつながる渡り廊下に面している。普段は使い走りや局付きの役人ばかりが行き交う場所だが、王族が通るときだけ空気が変わる。話し声が消え、足音の数が減り、そこにいないはずの目線が壁に張りつく。
イツキは控え帳を脇に抱え、柱の陰に立った。
甲高い先触れの鐘がもう一度鳴る。
ほどなくして、近衛を先頭にした一団が見えた。数は多くない。大仰な行幸ではなく、王宮内の移動に必要な最小限の列だ。だが、その中央を歩く青年だけは、遠目にもすぐ分かった。
第三王子アルト・レヴェイン。
長身で、背筋がまっすぐだった。歩幅は大きくないが、一歩ごとに迷いがない。濃い色の上着は装飾を抑えているのに、布の質だけで地位が見える。剣を帯びてはいるが、飾りではない位置に収まっていた。実際に抜く人間の腰だと分かる。
いちばん先に目に入ったのは顔立ちではなく、視線だった。
アルトは進行方向だけを見ていない。廊下の角、窓の反射、立哨の位置、階下へ落ちる吹き抜けの縁。無意識に逃げ道と危険を測っている人間の目だった。
王族だからではない。
守られる側ではなく、追われる側の目だとイツキは思った。
一団が近づくにつれ、記録棟の下役たちが壁際へ寄って頭を下げる。イツキも遅れて同じようにした。だが伏せた視界の端で、アルトの足が一瞬だけ止まりかけたのが見えた。
渡り廊下の先、裁定棟へ下りる階段の踊り場に、小さな案内板がある。普段は誰も気に留めない木札だ。そこに刻まれているのは、裁定棟、留置区画、執行庭の三つ。
執行庭。
王宮内の者なら、処刑場と言い換えなくても伝わる名だ。
アルトの歩みは、その木札を視界に入れた瞬間にほんのわずか乱れた。
それだけだった。
半歩、靴裏が石に引っかかる。
すぐに立て直す。
側近も近衛も気づかない程度の乱れ。だが、見ていたイツキには十分だった。乱れたのは歩幅ではなく、呼吸だ。喉が一度だけ詰まり、肩の線がわずかに固くなる。
病だろうか。
いや、違う。
あれは、理由の分からない痛みを先に思い出した身体の反応に見えた。
イツキは思わず顔を上げた。アルトの横顔が見える。整った面差しは動揺を外へ漏らしていない。だが目元だけが、何か見えないものを避けるように狭まっていた。
執行庭の名を見ただけで、どうして。
その瞬間、列の後方にいた女が、こちらを見た。
黒に近い濃紺の騎士服。胸当ては磨かれているのに光りすぎない。腰の剣は飾りではなく、柄に擦れが残っている。髪は後ろで低く束ねられ、表情はほとんど動かない。
彼女だけが、王子ではなく周囲を見ていた。
護衛。
だが同時に、もっと別のものにも見えた。
イツキは自分でも理由が分からないまま、肩の奥が冷えるのを感じた。彼女の視線は鋭いわけではない。ただ、見つけたものを決して忘れない目をしていた。
イツキと目が合う。
ほんの一瞬だったのに、隠した控え帳の中身まで見透かされた気がした。
女は歩を緩めない。アルトの半歩後ろにつき、列と同じ速度で進む。ただその視線だけが、柱際にいる下級記録官を正確に拾っていた。
近衛の一人が何かを報告し、アルトが短く返す。声は低く、よく通る。だが内容まではここから聞こえない。
列が通り過ぎる。
そのとき、執行庭の案内板の前で、アルトの右手が無意識に左の手首を掴んだ。
自分を押さえるような動きだった。
戦場帰りの兵が古傷の疼く場所を押さえるのに似ている。けれど、そこに傷は見えない。長袖の下、白い手首の上に残るものは何もないはずなのに、彼の指だけがそこへ触れた。
イツキの背中に、説明しにくい違和感が走った。
この人は、執行庭という名前にだけ妙な反応をした。
だが、それが何を意味するのかは分からない。
一団が渡り廊下を抜け、曲がり角の向こうへ消えていく。
そこで初めて、イツキは自分が息を止めていたことに気づいた。肺が痛い。控え帳の端を握る指先も白くなっていた。
「おい」
低い声が、すぐ横から落ちた。
イツキは跳ねるように振り向いた。
先ほど列の後方にいた女が、いつの間にか戻ってきていた。
足音をまるで聞かなかった。
近くで見ると、年はイツキより少し上に見える。目元は冷えているのに、頬にだけ昨夜の寝不足の薄い影が残っていた。剣の鞘尻には、磨耗した傷がいくつも走っている。
「いま、何を見ていた」
問いは短く、飾りがなかった。
イツキはとっさに礼を取った。遅い。遅いと分かってから、さらに背筋が冷える。
「記録局の下級記録官です。通行の妨げをするつもりは」
「質問に答えろ」
声は大きくない。それなのに、石床に落ちた瞬間、ほかの音を全部削る。
イツキは喉の奥で言葉を選んだ。
見ていたのは王子の反応だ。だがそう答えれば、なぜ下級記録官がそんなものを観察していたのかまで問われる。
「……殿下のご通行を見ていました」
女の目がわずかに細くなった。
「それだけなら、そんな顔にはならない」
言われて初めて、自分の顔がどうなっていたかを知った。青ざめていたのかもしれない。あるいは、机の上の紙をまだ見ているような目をしていたのか。
女は一歩だけ近づいた。
「名は」
「イツキ・カナメ」
答えた瞬間、彼女の視線が控え帳へ落ちた。抱えていた腕に力が入る。隠すような動きは、隠し事を認めるのと同じだ。
「下級記録官が、朝から王子の通路へ何の用だ」
「……確認したいことがありました」
「誰に命じられた」
「誰にも」
沈黙。
遠くでまた鐘が鳴る。今度は業務開始の鐘だ。記録局の扉がいくつか開き、人の気配が増え始める。
女は周囲を一瞥したあと、イツキへ視線を戻した。
「私はソナ・ヴァレル。王宮騎士だ」
名乗りは簡潔だった。
「その確認したいことを、場所を変えて説明しろ」
命令口調なのに、声量は変わらない。逆らえば刃になる種類の静けさだった。
イツキは答えられないまま立ち尽くした。
控え帳の中では、明日の日付の処刑命令書が、紙一枚ぶんの重さで腕に食い込んでいる。
ソナはその沈黙を拒否とも受け取らなかった。
「来ないなら、こちらで中身を確かめる」
目が、控え帳を示した。
そこで初めて、イツキはこの女が何を見ていたのか理解した。
王子ではない。
ずっとこちらを見ていたのだ。




