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死に戻る王子を、記録官だけが覚えている 〜本人も忘れた失敗を、僕だけは知っている〜  作者: セルヴォア


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3/6

処刑対象は第三王子

回廊に出ると、朝の冷気は紙のにおいを薄め、代わりに磨かれた石床の冷たさを際立たせた。


記録棟の三階は、他の棟へつながる渡り廊下に面している。普段は使い走りや局付きの役人ばかりが行き交う場所だが、王族が通るときだけ空気が変わる。話し声が消え、足音の数が減り、そこにいないはずの目線が壁に張りつく。


イツキは控え帳を脇に抱え、柱の陰に立った。


甲高い先触れの鐘がもう一度鳴る。


ほどなくして、近衛を先頭にした一団が見えた。数は多くない。大仰な行幸ではなく、王宮内の移動に必要な最小限の列だ。だが、その中央を歩く青年だけは、遠目にもすぐ分かった。


第三王子アルト・レヴェイン。


長身で、背筋がまっすぐだった。歩幅は大きくないが、一歩ごとに迷いがない。濃い色の上着は装飾を抑えているのに、布の質だけで地位が見える。剣を帯びてはいるが、飾りではない位置に収まっていた。実際に抜く人間の腰だと分かる。


いちばん先に目に入ったのは顔立ちではなく、視線だった。


アルトは進行方向だけを見ていない。廊下の角、窓の反射、立哨の位置、階下へ落ちる吹き抜けの縁。無意識に逃げ道と危険を測っている人間の目だった。


王族だからではない。


守られる側ではなく、追われる側の目だとイツキは思った。


一団が近づくにつれ、記録棟の下役たちが壁際へ寄って頭を下げる。イツキも遅れて同じようにした。だが伏せた視界の端で、アルトの足が一瞬だけ止まりかけたのが見えた。


渡り廊下の先、裁定棟へ下りる階段の踊り場に、小さな案内板がある。普段は誰も気に留めない木札だ。そこに刻まれているのは、裁定棟、留置区画、執行庭の三つ。


執行庭。


王宮内の者なら、処刑場と言い換えなくても伝わる名だ。


アルトの歩みは、その木札を視界に入れた瞬間にほんのわずか乱れた。


それだけだった。


半歩、靴裏が石に引っかかる。


すぐに立て直す。


側近も近衛も気づかない程度の乱れ。だが、見ていたイツキには十分だった。乱れたのは歩幅ではなく、呼吸だ。喉が一度だけ詰まり、肩の線がわずかに固くなる。


病だろうか。


いや、違う。


あれは、理由の分からない痛みを先に思い出した身体の反応に見えた。


イツキは思わず顔を上げた。アルトの横顔が見える。整った面差しは動揺を外へ漏らしていない。だが目元だけが、何か見えないものを避けるように狭まっていた。


執行庭の名を見ただけで、どうして。


その瞬間、列の後方にいた女が、こちらを見た。


黒に近い濃紺の騎士服。胸当ては磨かれているのに光りすぎない。腰の剣は飾りではなく、柄に擦れが残っている。髪は後ろで低く束ねられ、表情はほとんど動かない。


彼女だけが、王子ではなく周囲を見ていた。


護衛。


だが同時に、もっと別のものにも見えた。


イツキは自分でも理由が分からないまま、肩の奥が冷えるのを感じた。彼女の視線は鋭いわけではない。ただ、見つけたものを決して忘れない目をしていた。


イツキと目が合う。


ほんの一瞬だったのに、隠した控え帳の中身まで見透かされた気がした。


女は歩を緩めない。アルトの半歩後ろにつき、列と同じ速度で進む。ただその視線だけが、柱際にいる下級記録官を正確に拾っていた。


近衛の一人が何かを報告し、アルトが短く返す。声は低く、よく通る。だが内容まではここから聞こえない。


列が通り過ぎる。


そのとき、執行庭の案内板の前で、アルトの右手が無意識に左の手首を掴んだ。


自分を押さえるような動きだった。


戦場帰りの兵が古傷の疼く場所を押さえるのに似ている。けれど、そこに傷は見えない。長袖の下、白い手首の上に残るものは何もないはずなのに、彼の指だけがそこへ触れた。


イツキの背中に、説明しにくい違和感が走った。


この人は、執行庭という名前にだけ妙な反応をした。

だが、それが何を意味するのかは分からない。


一団が渡り廊下を抜け、曲がり角の向こうへ消えていく。


そこで初めて、イツキは自分が息を止めていたことに気づいた。肺が痛い。控え帳の端を握る指先も白くなっていた。


「おい」


低い声が、すぐ横から落ちた。


イツキは跳ねるように振り向いた。


先ほど列の後方にいた女が、いつの間にか戻ってきていた。


足音をまるで聞かなかった。


近くで見ると、年はイツキより少し上に見える。目元は冷えているのに、頬にだけ昨夜の寝不足の薄い影が残っていた。剣の鞘尻には、磨耗した傷がいくつも走っている。


「いま、何を見ていた」


問いは短く、飾りがなかった。


イツキはとっさに礼を取った。遅い。遅いと分かってから、さらに背筋が冷える。


「記録局の下級記録官です。通行の妨げをするつもりは」


「質問に答えろ」


声は大きくない。それなのに、石床に落ちた瞬間、ほかの音を全部削る。


イツキは喉の奥で言葉を選んだ。


見ていたのは王子の反応だ。だがそう答えれば、なぜ下級記録官がそんなものを観察していたのかまで問われる。


「……殿下のご通行を見ていました」


女の目がわずかに細くなった。


「それだけなら、そんな顔にはならない」


言われて初めて、自分の顔がどうなっていたかを知った。青ざめていたのかもしれない。あるいは、机の上の紙をまだ見ているような目をしていたのか。


女は一歩だけ近づいた。


「名は」


「イツキ・カナメ」


答えた瞬間、彼女の視線が控え帳へ落ちた。抱えていた腕に力が入る。隠すような動きは、隠し事を認めるのと同じだ。


「下級記録官が、朝から王子の通路へ何の用だ」


「……確認したいことがありました」


「誰に命じられた」


「誰にも」


沈黙。


遠くでまた鐘が鳴る。今度は業務開始の鐘だ。記録局の扉がいくつか開き、人の気配が増え始める。


女は周囲を一瞥したあと、イツキへ視線を戻した。


「私はソナ・ヴァレル。王宮騎士だ」


名乗りは簡潔だった。


「その確認したいことを、場所を変えて説明しろ」


命令口調なのに、声量は変わらない。逆らえば刃になる種類の静けさだった。


イツキは答えられないまま立ち尽くした。


控え帳の中では、明日の日付の処刑命令書が、紙一枚ぶんの重さで腕に食い込んでいる。


ソナはその沈黙を拒否とも受け取らなかった。


「来ないなら、こちらで中身を確かめる」


目が、控え帳を示した。


そこで初めて、イツキはこの女が何を見ていたのか理解した。


王子ではない。


ずっとこちらを見ていたのだ。

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