僕の署名
似ている、ではなかった。
僕の字だ。
そう思った途端、イツキはようやく椅子へ沈み込んだ。逃げるならまだ間に合う。局長室へ持ち込む。夜番を叩き起こす。あるいは誰にも見つからないうちに火盆へ落とす。
どれも選べない。
燃やした紙は消える。だが、なぜ燃やしたのかまでは残らない。残るのは、焼失と処分の記録だけだ。そうやって肝心な理由が消えた台帳を、イツキは何度も見てきた。
まず筆跡を確かめる。
引き出しから控え帳を抜き、昨夜までの受領署名をめくった。毎日何十回と書く自分の名前だ。線の入り、止め、払い、筆圧の癖くらい、自分がいちばん知っている。
命令書の署名と並べる。
一画目の沈み込み。カナメの「ナ」で少しだけ跳ね上がる払い。最後の止めで癖のように力が入るところまで同じだった。
真似ではない。
自分が書いた字だ。
その事実だけが、机の上で動かなかった。記憶はない。だが筆跡は否定しない。喉の奥に鉄の味が広がった。
イツキは文書全体へ視線を戻した。件名。発行欄。執行予定時刻。承認欄。証人欄。
承認印はまだない。証人欄も空白だ。正式発効前の文書なのだろう。だが、だからこそ署名欄の異様さが際立つ。受理係でも複写係でもない。下級記録官の名がここに先に入る理由がない。
これは事務処理の署名ではない。
承認した名にも見えない。
だが、何の名なのかもまだ分からない。
イツキは紙を斜光へ透かした。上質紙は筆圧を隠せない。表から読めない迷いが、裏から浮く。
署名の最初の一画が深い。そのあと線が少しぶれ、途中で止まりかけ、無理に続いている。普段の自分なら、こんな字は書かない。疲れている朝でも、もっと速く、もっと迷いがない。
これは疲労の字ではない。
怖れている字だった。
誰が、ではない。
なぜだ。
なぜ自分の署名がここにある。
なぜ自分は覚えていない。
なぜこんな文書に、自分の名が必要だった。
扉が開き、イツキは反射的に文書へ手を被せた。
入ってきたのはミナトだった。見習い雑務係の少年で、抱えた箱が鼻先より高い。
「おはようございます、イツキさん。東棟ぶんの控え、先に置きます」
「ああ。そこに」
妙に平坦な声が出た。
ミナトは箱を隣の机へ下ろし、耳を赤くしたまま小声で言う。
「局長室から人が来たら、今日は朝から機嫌が悪いって伝えろって言われました」
「誰に」
「ヨルンさんです」
少年はしまったという顔をし、すぐに笑ってごまかした。記録局では、機嫌も業務連絡のうちに入る。
「分かった。ありがとう」
ミナトはうなずき、イツキの手元を一瞬だけ見た。見習いは、見てはいけない顔を覚えるのが上手い。すぐに視線を外して出ていく。
扉が閉まる。局内のざわめきが少しずつ増え始める。
もう長く机の前に座ってはいられない。
イツキはもう一度、署名欄を見た。最後の止めの脇に、ごく浅いにじみがある。墨だけではない。茶に近い赤が紙目へ沈んでいた。乾いた血の色に似ている。
息を止めて紙端を確かめる。
署名欄の位置も妙だった。承認の欄ではない。完全な差し戻しでもない。正式発効へ回せるように見せながら、どこか中途半端な位置にある。
同意の署名ではないのかもしれない。
保留のためか。
受理のためか。
その場にいた証拠として書かされたのか。
考えれば考えるほど、分からないことだけが増えた。
窓の外で、甲高い二打が響いた。
通常の朝鐘とは違う。王族が回廊を通るときの先触れだ。
イツキは顔を上げた。第三王子。処刑対象。明日の日付。時間を稼ぐための自分の署名。
紙だけを見ていても、答えは増えないと思った。
処刑命令書に名前がある以上、第三王子アルト・レヴェインが今どこで、どんな状態にあるのかは、自分の目で確かめる必要があった。
イツキは文書を畳み、控え帳のあいだへ挟んだ。規律違反だ。それでも机へ残すよりましだった。
本当に行くのか、と心のどこかが問う。
行かなければならない、と答えたのは理屈ではない。
この文書が偽物ではないのなら、どこかで本当に何かが動いている。




