幸福の値段
キッチンに立つ雨宮澪の背中は、あまりにも自然だった。
袖を軽くまくり、冷蔵庫から食材を取り出し、手際よくまな板の上へ並べていく。
エプロンの紐を腰の後ろで結ぶ仕草も、フライパンを火にかける動きも、どれもが「何度も繰り返してきた日常」そのものだった。
榊恒一は、その少し後ろに立ったまま動けずにいた。
見たかったはずの未来だ。
知りたかったはずの続きだ。
それなのに、いざ目の前にすると、嬉しさより先に戸惑いが来る。
近すぎるのだ。
高校時代、教室の窓際で笑っていた彼女。
卒業と同時に人生の遠くへ消えていったはずの存在。
もう会うこともないと思っていた人が、今こうして「夫婦の距離」でそこにいる。
「恒一?」
振り返った澪が、不思議そうに眉を下げた。
「さっきからほんと変だよ。どうしたの?」
「あ……いや」
「いや、じゃなくて。ぼーっとしてるし、顔色も微妙だし」
彼女は包丁を置き、こちらへ半歩だけ近づいてくる。
「会社で何かあった?」
「……何もない」
「それ、何かある人の言い方だけど」
少し笑って、でも本気で心配している顔だった。
恒一は言葉に詰まる。
ある。
何かどころではない。
自分はいま、自分が選ばなかった未来に立っている。
高校の頃、勇気を出して告白した“別の自分”が辿り着いた人生を、他人みたいな立場で見ている。
そんなこと、説明できるわけがない。
「……手伝うよ」
誤魔化すようにそう言うと、澪は一瞬だけじっとこちらを見て、それから小さく息を吐いた。
「じゃあ、玉ねぎ切って」
「うん」
「泣かないでよ?」
「玉ねぎで?」
「そっちじゃなくて」
くすっと笑う。
その軽口に、恒一の胸がぎゅっと締まった。
ああ、そうか。
この二人は、こういう会話を重ねてきたのだ。
気の利いた冗談とか、長い付き合いの中でしか生まれない間とか、いちいち説明しなくても通じる距離感とか。
それら全部が、この未来の榊恒一には当たり前にある。
でも、今ここにいる“観測者の自分”にはない。
包丁を握る手に力が入る。
玉ねぎの皮を剥きながら、恒一は横目で澪を見た。
彼女は鼻歌まじりに鍋へ水を入れている。
その横顔は穏やかで、幸せそうに見えた。
見えた、という表現が正しいのか分からない。
幸せなのだろう。少なくとも、今この瞬間だけを切り取れば。
だが同時に、第二話の最後に浮かんだ文字が頭から離れなかった。
『観測者は介入できません』
『過度な感情同調は、現実側記憶の侵食を招きます』
侵食。
その言葉だけがやけに不吉だった。
視界の隅に、小さく半透明の文字がまだ浮いている。
『観測時間:残り 02:02:19』
刻々と減っていく数字。
まるでこの世界そのものが、自分には期限付きの幻だと告げているようだった。
◇
夕食は肉じゃがだった。
テーブルを挟んで向かい合い、湯気の立つ味噌汁と小鉢まで並んだ光景は、信じられないほど普通だった。
奇跡みたいな非現実の中にいるはずなのに、目の前にあるのはあまりにも平凡な晩ごはんだ。
だが、その平凡さが何より眩しかった。
「いただきます」
澪が手を合わせる。
恒一も反射的に続いた。
「……いただきます」
一口食べる。
甘さ控えめの味付けだった。じゃがいもは少し柔らかめで、牛肉の脂がほどよく回っている。
「どう?」
期待するような目が向けられる。
恒一は少し戸惑ってから答えた。
「うまい」
「ふふ、知ってる」
「自信あるな」
「だって恒一、肉じゃがの時は毎回分かりやすい顔するもん」
そう言って笑う。
まただ。
この未来の自分に積み重なってきた“恒一像”が、彼女の中にはちゃんとある。
好きな味も、疲れた時の顔も、機嫌の良し悪しも、きっと全部。
その事実が、幸福であると同時に残酷だった。
「……ねえ」
澪が箸を止める。
「今日、ほんとに何かあったでしょ」
「……」
「こういう時の恒一、いつもより静かになるから分かるよ」
その言葉に、恒一は顔を上げた。
分かる。
いつもより静かになる。
つまり彼女は、この未来の自分の機微をちゃんと把握しているのだ。
羨ましい、と思った。
そんなふうに誰かに理解される人生を、自分は現実でまだ一度も手に入れていない。
「言いたくないなら無理に聞かないけど」
澪は箸先でごはんを小さくつつきながら言う。
「でも、また一人で抱え込んでるなら、それはやめて」
また。
その一言が小さく引っかかった。
「……また?」
「え?」
「いや……今、“また”って」
澪は一瞬だけ目を瞬かせ、それから「ああ」と小さく笑った。
「前もあったじゃん。仕事で無理してた時」
「……ああ」
反射的に相槌を打ちながら、恒一は内心で冷や汗をかく。
知らない。そんな出来事は知らない。
この未来の自分が経験したことを、自分は何一つ覚えていない。
「忘れたの?」
「いや……ちょっと、曖昧で」
「なにそれ。ほんとに疲れてるのかもね」
澪は心配そうに笑ったが、それ以上追及はしなかった。
助かった。
いや、助かってはいない。
むしろ今のやり取りで、この観測には決定的な限界があることがはっきりした。
ここにいるのは“この未来の自分”ではない。
記憶だけが抜け落ちた偽物みたいなものだ。
だから深く話せば話すほど、齟齬が出る。
介入できないという警告は、そういう意味でもあるのかもしれない。
この世界に感情移入はできても、本当の意味で存在することはできない。
食卓の温度が急に遠く感じられた。
「……恒一」
澪が静かに呼ぶ。
「何?」
「たまにさ」
少し言いづらそうに、彼女は視線を落とした。
「すごく近くにいるのに、急に遠くなる時あるよね」
心臓が止まりそうになった。
「それ、どういう……」
「別に責めてるわけじゃないの。ただ、今みたいに」
彼女は困ったように笑う。
「目の前にいるのに、違う場所を見てるみたいな時がある」
――ああ。
その瞬間、恒一は悟ってしまった。
これは今日だけの違和感じゃない。
この未来の榊恒一は、もともと何かを抱えている。
仕事の疲れ?
夫婦のすれ違い?
過去への未練?
それとも、もっと別の何かか。
少なくとも、“告白して結婚した未来=完全無欠の幸福”ではない。
そんな単純な話ではないのだ。
当然だった。
あの時告白していたら、そこで物語が終わるわけじゃない。
その先にも、生活がある。仕事がある。衝突がある。不安がある。
好きな人と結ばれたって、人間の悩みが消えるわけじゃない。
むしろ、手に入れたからこそ失うのが怖くなるものだってある。
「ごめん」
気づけば、恒一はそう言っていた。
澪は少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑う。
「うん。まあ、今日はそれで許す」
その「今日は」が、妙に重かった。
◇
食後、澪が先に風呂へ入ると言って席を立ったあと、恒一は一人でリビングに残った。
静かな部屋。
時計の秒針の音だけがやけに耳につく。
テーブルの上には、二人分の食器。
ソファの背にはブランケットが雑にかかっていて、棚には写真立てが何枚か並んでいる。
さっきから気になっていた。
立ち上がり、棚へ近づく。
一枚目。
桜の木の下で並んで笑う自分と澪。服装からして、春のどこかへ出かけた時のものだろう。
二枚目。
夜景を背景にしたツーショット。澪が少し酔っているのか、いつもより無邪気な笑い方をしている。
三枚目。
白い服を着た二人が、きちんとした姿勢で並んでいる。
結婚式の写真だった。
息が詰まる。
現実の自分には絶対に存在しない一枚。
選ばなかったから、永遠に手に入らなかったはずの証拠。
写真の中の自分は、今より少しだけ自信のある顔をしていた。
隣の澪は、泣きそうなくらい綺麗に笑っている。
「……やめろよ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
羨ましい。
でも、それ以上に苦しい。
こんなものを見せられて、今の自分が平然と現実へ戻れるわけがない。
その時、写真立ての横に置かれた小さな封筒が目に入った。
白地に病院の名前が印刷されている。
何気なく手に取った瞬間、嫌な予感が走った。
封は開いていた。
中には一枚の検査結果票。
そこに書かれていた文字を見て、恒一の指先が冷たくなる。
『不妊検査結果』
「……え」
目を疑った。
紙面には専門用語や数値が並んでいる。細かい意味まではすぐに分からない。
だが最後の医師コメントだけは、嫌でも読めてしまった。
『自然妊娠の可能性は低く、継続的な治療または別の選択肢の検討が必要』
喉の奥が詰まる。
その瞬間、昼間の澪の言葉が脳裏に蘇る。
――すごく近くにいるのに、急に遠くなる時あるよね。
――また一人で抱え込んでるなら、それはやめて。
これか。
この未来の自分たちは、子どもを望んでいる。
でも、うまくいっていない。
その現実が、この家の空気のどこかに沈んでいたのだ。
幸せそうに見えた食卓。
当たり前に見えた日常。
その下に、こんな痛みが沈んでいた。
恒一はソファに腰を落とした。
胸が、じわじわと痛む。
これは罰なのかもしれない、と思った。
選ばなかった未来を、都合よく美化してきた自分への。
「あの時告白していれば全部うまくいっていた」なんて、どこかで思っていた自分への。
そんなわけがないのだ。
どの未来にも問題がある。
どの人生にも、手に入らないものがある。
告白して結ばれた未来にだって、越えられない壁は存在する。
幸福には、必ず値段がある。
そして人は、何かを得る代わりに、何かを手放して生きていく。
視界の隅に、また文字が浮かぶ。
『観測時間:残り 01:14:03』
まだ一時間以上ある。
でも、その一時間で何を見せられるのかと思うと、息苦しくなった。
その時、脱衣所の方からドアが開く音がした。
澪が戻ってくる。
恒一は慌てて検査結果を封筒へ戻し、元の位置へ置いた。
次の瞬間には、何も知らないふりをしてソファへ座り直していた。
「お待たせ。次どうぞ――って、どうしたの?」
髪をタオルで拭きながら戻ってきた澪が、ぴたりと足を止める。
「顔、真っ青だけど」
「……なんでもない」
「それ、今日何回目?」
冗談めかして言ったあと、彼女はすぐに表情を曇らせた。
「ねえ、やっぱり何かあったんでしょ」
「……」
「仕事?」
違う。
でも違うとも言えない。
本当のことなど言えるはずがない。
澪は数歩近づくと、今度はソファの前にしゃがんだ。
視線の高さが合う。
「恒一」
その呼び方は優しかった。
優しいからこそ、余計に苦しい。
「私、そんなに頼りない?」
「え……?」
「何も言ってくれないと、そう思っちゃうよ」
静かな声だった。
責めるでもなく、泣くでもなく、ただ寂しそうな声。
恒一の胸の奥で、何かがきしんだ。
たぶん、この未来の二人は何度もこういう会話をしてきたのだ。
抱え込む夫と、分かち合いたい妻。
すれ違いと、歩み寄りと、うまくいかないタイミング。
完璧な夫婦なんていない。
好き同士でも、愛し合っていても、全部は分かり合えない。
でも、それでも向き合おうとしている。
それが、この未来の現実だった。
「……頼りないとかじゃない」
自分でも驚くほど、声が掠れていた。
「じゃあ、なに」
答えられない。
あなたたちの未来を、別の自分が勝手に覗いています。
さっき、子どものことを知りました。
そんなこと言えるわけがない。
黙り込んだ恒一に、澪は少しだけ唇を噛んだ。
ああ、この顔。
現実の高校時代には見たことがなかった。
大人になって、期待して、傷ついて、それでも感情を飲み込もうとする人の顔だ。
「……ごめん」
またそれしか言えない。
澪はしばらく何も言わなかった。
やがて、ふっと力の抜けたような笑みを作る。
「謝ってほしいわけじゃないんだけどな」
その一言が、刃みたいに刺さった。
謝罪は便利だ。
とりあえず場を収めるには使える。
でも、それでは届かないものがある。
向き合うことの代わりにはならない。
たぶん現実の自分も、同じことを何度もしてきた。
踏み込む勇気がなくて、言葉を濁して、結局何も変えられないまま。
その弱さは、告白しなかった人生にも、告白した人生にも、ちゃんとついて回るのだ。
選択ひとつで、人間の本質まで変わるわけじゃない。
その事実が、ひどく重かった。
澪は立ち上がると、小さく息を吐いた。
「お風呂、冷める前に入ってきなよ」
「……うん」
「今日はもう、無理に話さなくていいから」
そう言って背を向ける。
けれど、その背中はどこか寂しそうだった。
恒一は何も言えなかった。
選ばなかった未来を知りたいと思った。
でも本当に知りたかったのは、「あの時勇気を出せば全部報われた」という優しい結論だったのかもしれない。
だが現実は違う。
この未来にも、うまくいかないことがある。
この未来にも、どうしようもない夜がある。
この未来にも、言えないことと、届かない気持ちがある。
それでも――。
それでも、この二人は同じ家に帰ってきて、同じ食卓を囲み、同じ痛みを抱えて生きている。
その重みは、決して軽くなかった。
幸福の値段は、高い。
ただ一度の選択で払い終えられるようなものじゃない。
手に入れた後も、払い続けるものなのだ。
視界の端で、残り時間がまた少し減る。
『観測時間:残り 01:02:11』
この世界にいられる時間は、もう半分を切っていた。
残された時間の中で、自分は何を見るのだろう。
この未来の続きを、どこまで知ってしまうのだろう。
そして、その全部を抱えて現実へ帰った時、自分は本当に“元の自分”でいられるのだろうか。
答えはまだ分からない。
けれど一つだけ、はっきりしたことがある。
選ばなかった未来は、救いなんかじゃない。
それはただ、別の痛みを持ったもう一つの現実だ。
榊恒一は、ようやくその入口に立ったばかりだった。




