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A  作者: コンティ
3/11

幸福の値段

 キッチンに立つ雨宮澪の背中は、あまりにも自然だった。


 袖を軽くまくり、冷蔵庫から食材を取り出し、手際よくまな板の上へ並べていく。

 エプロンの紐を腰の後ろで結ぶ仕草も、フライパンを火にかける動きも、どれもが「何度も繰り返してきた日常」そのものだった。


 榊恒一は、その少し後ろに立ったまま動けずにいた。


 見たかったはずの未来だ。

 知りたかったはずの続きだ。

 それなのに、いざ目の前にすると、嬉しさより先に戸惑いが来る。


 近すぎるのだ。


 高校時代、教室の窓際で笑っていた彼女。

 卒業と同時に人生の遠くへ消えていったはずの存在。

 もう会うこともないと思っていた人が、今こうして「夫婦の距離」でそこにいる。


「恒一?」


 振り返った澪が、不思議そうに眉を下げた。


「さっきからほんと変だよ。どうしたの?」


「あ……いや」


「いや、じゃなくて。ぼーっとしてるし、顔色も微妙だし」


 彼女は包丁を置き、こちらへ半歩だけ近づいてくる。


「会社で何かあった?」


「……何もない」


「それ、何かある人の言い方だけど」


 少し笑って、でも本気で心配している顔だった。


 恒一は言葉に詰まる。


 ある。

 何かどころではない。

 自分はいま、自分が選ばなかった未来に立っている。

 高校の頃、勇気を出して告白した“別の自分”が辿り着いた人生を、他人みたいな立場で見ている。


 そんなこと、説明できるわけがない。


「……手伝うよ」


 誤魔化すようにそう言うと、澪は一瞬だけじっとこちらを見て、それから小さく息を吐いた。


「じゃあ、玉ねぎ切って」


「うん」


「泣かないでよ?」


「玉ねぎで?」


「そっちじゃなくて」


 くすっと笑う。


 その軽口に、恒一の胸がぎゅっと締まった。


 ああ、そうか。

 この二人は、こういう会話を重ねてきたのだ。


 気の利いた冗談とか、長い付き合いの中でしか生まれない間とか、いちいち説明しなくても通じる距離感とか。

 それら全部が、この未来の榊恒一には当たり前にある。


 でも、今ここにいる“観測者の自分”にはない。


 包丁を握る手に力が入る。


 玉ねぎの皮を剥きながら、恒一は横目で澪を見た。

 彼女は鼻歌まじりに鍋へ水を入れている。

 その横顔は穏やかで、幸せそうに見えた。


 見えた、という表現が正しいのか分からない。

 幸せなのだろう。少なくとも、今この瞬間だけを切り取れば。


 だが同時に、第二話の最後に浮かんだ文字が頭から離れなかった。


 『観測者は介入できません』

 『過度な感情同調は、現実側記憶の侵食を招きます』


 侵食。

 その言葉だけがやけに不吉だった。


 視界の隅に、小さく半透明の文字がまだ浮いている。


 『観測時間:残り 02:02:19』


 刻々と減っていく数字。

 まるでこの世界そのものが、自分には期限付きの幻だと告げているようだった。


     ◇


 夕食は肉じゃがだった。


 テーブルを挟んで向かい合い、湯気の立つ味噌汁と小鉢まで並んだ光景は、信じられないほど普通だった。

 奇跡みたいな非現実の中にいるはずなのに、目の前にあるのはあまりにも平凡な晩ごはんだ。


 だが、その平凡さが何より眩しかった。


「いただきます」


 澪が手を合わせる。


 恒一も反射的に続いた。


「……いただきます」


 一口食べる。

 甘さ控えめの味付けだった。じゃがいもは少し柔らかめで、牛肉の脂がほどよく回っている。


「どう?」


 期待するような目が向けられる。


 恒一は少し戸惑ってから答えた。


「うまい」


「ふふ、知ってる」


「自信あるな」


「だって恒一、肉じゃがの時は毎回分かりやすい顔するもん」


 そう言って笑う。


 まただ。

 この未来の自分に積み重なってきた“恒一像”が、彼女の中にはちゃんとある。

 好きな味も、疲れた時の顔も、機嫌の良し悪しも、きっと全部。


 その事実が、幸福であると同時に残酷だった。


「……ねえ」


 澪が箸を止める。


「今日、ほんとに何かあったでしょ」


「……」


「こういう時の恒一、いつもより静かになるから分かるよ」


 その言葉に、恒一は顔を上げた。


 分かる。

 いつもより静かになる。

 つまり彼女は、この未来の自分の機微をちゃんと把握しているのだ。


 羨ましい、と思った。


 そんなふうに誰かに理解される人生を、自分は現実でまだ一度も手に入れていない。


「言いたくないなら無理に聞かないけど」


 澪は箸先でごはんを小さくつつきながら言う。


「でも、また一人で抱え込んでるなら、それはやめて」


 また。


 その一言が小さく引っかかった。


「……また?」


「え?」


「いや……今、“また”って」


 澪は一瞬だけ目を瞬かせ、それから「ああ」と小さく笑った。


「前もあったじゃん。仕事で無理してた時」


「……ああ」


 反射的に相槌を打ちながら、恒一は内心で冷や汗をかく。

 知らない。そんな出来事は知らない。

 この未来の自分が経験したことを、自分は何一つ覚えていない。


「忘れたの?」


「いや……ちょっと、曖昧で」


「なにそれ。ほんとに疲れてるのかもね」


 澪は心配そうに笑ったが、それ以上追及はしなかった。


 助かった。

 いや、助かってはいない。

 むしろ今のやり取りで、この観測には決定的な限界があることがはっきりした。


 ここにいるのは“この未来の自分”ではない。

 記憶だけが抜け落ちた偽物みたいなものだ。

 だから深く話せば話すほど、齟齬が出る。


 介入できないという警告は、そういう意味でもあるのかもしれない。


 この世界に感情移入はできても、本当の意味で存在することはできない。


 食卓の温度が急に遠く感じられた。


「……恒一」


 澪が静かに呼ぶ。


「何?」


「たまにさ」


 少し言いづらそうに、彼女は視線を落とした。


「すごく近くにいるのに、急に遠くなる時あるよね」


 心臓が止まりそうになった。


「それ、どういう……」


「別に責めてるわけじゃないの。ただ、今みたいに」

 

 彼女は困ったように笑う。


「目の前にいるのに、違う場所を見てるみたいな時がある」


 ――ああ。


 その瞬間、恒一は悟ってしまった。


 これは今日だけの違和感じゃない。

 この未来の榊恒一は、もともと何かを抱えている。


 仕事の疲れ?

 夫婦のすれ違い?

 過去への未練?

 それとも、もっと別の何かか。


 少なくとも、“告白して結婚した未来=完全無欠の幸福”ではない。

 そんな単純な話ではないのだ。


 当然だった。


 あの時告白していたら、そこで物語が終わるわけじゃない。

 その先にも、生活がある。仕事がある。衝突がある。不安がある。

 好きな人と結ばれたって、人間の悩みが消えるわけじゃない。


 むしろ、手に入れたからこそ失うのが怖くなるものだってある。


「ごめん」


 気づけば、恒一はそう言っていた。


 澪は少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑う。


「うん。まあ、今日はそれで許す」


 その「今日は」が、妙に重かった。


     ◇


 食後、澪が先に風呂へ入ると言って席を立ったあと、恒一は一人でリビングに残った。


 静かな部屋。

 時計の秒針の音だけがやけに耳につく。


 テーブルの上には、二人分の食器。

 ソファの背にはブランケットが雑にかかっていて、棚には写真立てが何枚か並んでいる。


 さっきから気になっていた。


 立ち上がり、棚へ近づく。


 一枚目。

 桜の木の下で並んで笑う自分と澪。服装からして、春のどこかへ出かけた時のものだろう。


 二枚目。

 夜景を背景にしたツーショット。澪が少し酔っているのか、いつもより無邪気な笑い方をしている。


 三枚目。

 白い服を着た二人が、きちんとした姿勢で並んでいる。


 結婚式の写真だった。


 息が詰まる。


 現実の自分には絶対に存在しない一枚。

 選ばなかったから、永遠に手に入らなかったはずの証拠。


 写真の中の自分は、今より少しだけ自信のある顔をしていた。

 隣の澪は、泣きそうなくらい綺麗に笑っている。


「……やめろよ」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


 羨ましい。

 でも、それ以上に苦しい。


 こんなものを見せられて、今の自分が平然と現実へ戻れるわけがない。


 その時、写真立ての横に置かれた小さな封筒が目に入った。


 白地に病院の名前が印刷されている。

 何気なく手に取った瞬間、嫌な予感が走った。


 封は開いていた。

 中には一枚の検査結果票。


 そこに書かれていた文字を見て、恒一の指先が冷たくなる。


 『不妊検査結果』


「……え」


 目を疑った。


 紙面には専門用語や数値が並んでいる。細かい意味まではすぐに分からない。

 だが最後の医師コメントだけは、嫌でも読めてしまった。


 『自然妊娠の可能性は低く、継続的な治療または別の選択肢の検討が必要』


 喉の奥が詰まる。


 その瞬間、昼間の澪の言葉が脳裏に蘇る。


 ――すごく近くにいるのに、急に遠くなる時あるよね。


 ――また一人で抱え込んでるなら、それはやめて。


 これか。


 この未来の自分たちは、子どもを望んでいる。

 でも、うまくいっていない。

 その現実が、この家の空気のどこかに沈んでいたのだ。


 幸せそうに見えた食卓。

 当たり前に見えた日常。

 その下に、こんな痛みが沈んでいた。


 恒一はソファに腰を落とした。


 胸が、じわじわと痛む。


 これは罰なのかもしれない、と思った。


 選ばなかった未来を、都合よく美化してきた自分への。

 「あの時告白していれば全部うまくいっていた」なんて、どこかで思っていた自分への。


 そんなわけがないのだ。


 どの未来にも問題がある。

 どの人生にも、手に入らないものがある。

 告白して結ばれた未来にだって、越えられない壁は存在する。


 幸福には、必ず値段がある。


 そして人は、何かを得る代わりに、何かを手放して生きていく。


 視界の隅に、また文字が浮かぶ。


 『観測時間:残り 01:14:03』


 まだ一時間以上ある。

 でも、その一時間で何を見せられるのかと思うと、息苦しくなった。


 その時、脱衣所の方からドアが開く音がした。


 澪が戻ってくる。


 恒一は慌てて検査結果を封筒へ戻し、元の位置へ置いた。

 次の瞬間には、何も知らないふりをしてソファへ座り直していた。


「お待たせ。次どうぞ――って、どうしたの?」


 髪をタオルで拭きながら戻ってきた澪が、ぴたりと足を止める。


「顔、真っ青だけど」


「……なんでもない」


「それ、今日何回目?」


 冗談めかして言ったあと、彼女はすぐに表情を曇らせた。


「ねえ、やっぱり何かあったんでしょ」


「……」


「仕事?」


 違う。

 でも違うとも言えない。

 本当のことなど言えるはずがない。


 澪は数歩近づくと、今度はソファの前にしゃがんだ。


 視線の高さが合う。


「恒一」


 その呼び方は優しかった。

 優しいからこそ、余計に苦しい。


「私、そんなに頼りない?」


「え……?」


「何も言ってくれないと、そう思っちゃうよ」


 静かな声だった。

 責めるでもなく、泣くでもなく、ただ寂しそうな声。


 恒一の胸の奥で、何かがきしんだ。


 たぶん、この未来の二人は何度もこういう会話をしてきたのだ。

 抱え込む夫と、分かち合いたい妻。

 すれ違いと、歩み寄りと、うまくいかないタイミング。


 完璧な夫婦なんていない。

 好き同士でも、愛し合っていても、全部は分かり合えない。

 でも、それでも向き合おうとしている。


 それが、この未来の現実だった。


「……頼りないとかじゃない」


 自分でも驚くほど、声が掠れていた。


「じゃあ、なに」


 答えられない。


 あなたたちの未来を、別の自分が勝手に覗いています。

 さっき、子どものことを知りました。

 そんなこと言えるわけがない。


 黙り込んだ恒一に、澪は少しだけ唇を噛んだ。


 ああ、この顔。

 現実の高校時代には見たことがなかった。

 大人になって、期待して、傷ついて、それでも感情を飲み込もうとする人の顔だ。


「……ごめん」


 またそれしか言えない。


 澪はしばらく何も言わなかった。

 やがて、ふっと力の抜けたような笑みを作る。


「謝ってほしいわけじゃないんだけどな」


 その一言が、刃みたいに刺さった。


 謝罪は便利だ。

 とりあえず場を収めるには使える。

 でも、それでは届かないものがある。

 向き合うことの代わりにはならない。


 たぶん現実の自分も、同じことを何度もしてきた。

 踏み込む勇気がなくて、言葉を濁して、結局何も変えられないまま。


 その弱さは、告白しなかった人生にも、告白した人生にも、ちゃんとついて回るのだ。


 選択ひとつで、人間の本質まで変わるわけじゃない。


 その事実が、ひどく重かった。


 澪は立ち上がると、小さく息を吐いた。


「お風呂、冷める前に入ってきなよ」


「……うん」


「今日はもう、無理に話さなくていいから」


 そう言って背を向ける。

 けれど、その背中はどこか寂しそうだった。


 恒一は何も言えなかった。


 選ばなかった未来を知りたいと思った。

 でも本当に知りたかったのは、「あの時勇気を出せば全部報われた」という優しい結論だったのかもしれない。


 だが現実は違う。


 この未来にも、うまくいかないことがある。

 この未来にも、どうしようもない夜がある。

 この未来にも、言えないことと、届かない気持ちがある。


 それでも――。


 それでも、この二人は同じ家に帰ってきて、同じ食卓を囲み、同じ痛みを抱えて生きている。


 その重みは、決して軽くなかった。


 幸福の値段は、高い。

 ただ一度の選択で払い終えられるようなものじゃない。

 手に入れた後も、払い続けるものなのだ。


 視界の端で、残り時間がまた少し減る。


 『観測時間:残り 01:02:11』


 この世界にいられる時間は、もう半分を切っていた。


 残された時間の中で、自分は何を見るのだろう。

 この未来の続きを、どこまで知ってしまうのだろう。


 そして、その全部を抱えて現実へ帰った時、自分は本当に“元の自分”でいられるのだろうか。


 答えはまだ分からない。


 けれど一つだけ、はっきりしたことがある。


 選ばなかった未来は、救いなんかじゃない。

 それはただ、別の痛みを持ったもう一つの現実だ。


 榊恒一は、ようやくその入口に立ったばかりだった。

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