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A  作者: コンティ
2/11

零時の観測者

 その日一日、榊恒一はほとんど仕事にならなかった。


 朝からずっと、頭の中に同じものがこびりついて離れない。


 雨宮澪から届いたメッセージ。

 机の上から落ちた文庫本。

 そして、あの紙に書かれていた一文。


 『次の分岐は、今夜零時に開く』


 意味なんて分かるはずがない。

 分からないのに、ただの悪ふざけでは片付けられない妙な現実感があった。


「榊さん、これ先方に共有お願いします」


「あ、はい。すみません」


 隣の席の後輩に声をかけられて、恒一は慌ててモニターへ向き直る。

 社内チャットの未読はたまっているし、メールの返信も遅れていた。普段ならもう少し器用にやれるはずなのに、今日に限っては注意力が完全に散っていた。


 昼休み。

 社員食堂の隅で定食を前にしながら、恒一はスマホの画面を何度も見ていた。


 雨宮とのトーク画面は開いたままになっている。


『高校の時のこと、たまに思い出したりする?』


 その一文に、まだ返せていない。


 思い出す。

 たまにどころじゃない。

 十年以上経った今でも、ふとした瞬間に思い出してしまう。


 でも、それをそのまま返すのは重すぎる気がした。

 かといって、適当に流せば何か大事なものを逃す気もする。


 結局、昼休みの終わり際になってようやく、無難な返事を送った。


『たまに思い出すよ。文化祭とか、受験前とか』

『急にどうしたの?』


 送信してすぐ、後悔した。

 もっと自然にできなかったのか。

 いや、むしろ自然すぎて印象に残らないか。

 そもそも、何を期待しているんだ自分は。


 スマホを伏せて、大して味のしない味噌汁を飲む。


 その時だった。


『ううん、なんか変な夢見ただけ』


 返信はすぐに来た。


 変な夢。

 その言葉だけで、恒一の手が止まる。


『榊が高校の時、私に何か言おうとしてる夢』

『でも途中で目が覚めちゃった』


 箸が、かちゃんと音を立てた。


 周囲の社員たちが雑談を続けている。

 テレビでは昼のニュースが流れている。

 味噌汁はまだ湯気を立てている。


 全部、現実だ。

 なのに、そのメッセージだけがひどく異物だった。


 昨日の夢。

 夢の中の告白。

 そして今、この言葉。


 偶然。

 ただの偶然だ。

 そう思いたいのに、胸の奥が「違う」と囁く。


『そうなんだ』

『なんかすごいタイミングだね』


 それだけ返すのが精一杯だった。


 雨宮からはすぐに既読がついたが、その後の返信はしばらく来なかった。


 仕事に戻っても、心ここにあらずだった。


 書類を確認している時、ふと窓ガラスに映った自分の顔が目に入る。

 二十九歳。

 疲れが抜けきらない目元。

 夢を諦めて、大きな失敗もない代わりに大きな熱もない、どこにでもいる男。


 もしも。


 あの時、告白していたら。

 あの時、別の会社を選んでいたら。

 あの時、書くことを諦めていなかったら。


 そんなことを考えたって仕方がない。

 分かっている。

 分かっているのに、人はどうしても「選ばなかった方」を見てしまう。


     ◇


 定時を少し過ぎて会社を出ると、外はもう薄暗かった。


 三月の終わり。

 春が来るには来たが、夜風はまだ少し冷たい。


 駅前のコンビニでコーヒーを買い、マンションへ戻る。

 いつもと何も変わらない帰り道のはずなのに、今日は街の輪郭がどこか曖昧に見えた。


 部屋に着くと、真っ先に机を見た。

 昨夜の紙は、出勤前に財布の中へしまっておいたはずだ。


 財布を開く。

 ある。

 白い紙は、確かにそこに残っていた。


 夢でも妄想でもない。

 少なくとも、「紙があった」という事実だけは現実だ。


 恒一はそれを机の上に置き、ため息をついた。


「……で、零時に開くってなんだよ」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 もちろん返事はない。

 紙はただの紙のままだ。


 シャワーを浴び、適当に夕飯を済ませても、時間は思ったより進まなかった。

 時計を見るたびに、まだ二十一時、まだ二十二時、と針の遅さに妙に苛立つ。


 結局、落ち着かないままスマホを開き、雨宮とのトーク画面を眺めていた。


 追加のメッセージは来ていない。


 代わりに、彼女のアイコンをぼんやり見てしまう。

 最近撮ったものらしい横顔の写真だった。高校時代の面影はある。でも当然、大人になっている。少しだけ柔らかく、少しだけ遠い顔だ。


 今、何をしているんだろう。

 どこで暮らしているんだろう。

 結婚は。恋人は。仕事は。

 聞きたいことはいくらでもあるのに、聞いていい距離ではない気がした。


 時計が二十三時五十分を示す。


 さすがに自分でも笑えてきた。

 何を期待しているんだ。

 零時になったからって、急に世界が変わるわけがない。

 きっと何も起きない。起きるはずがない。


 それでも、部屋の明かりを落とし、ベッドに腰掛ける。

 机の上には白い紙。

 手元にはスマホ。

 秒針の音は聞こえないはずなのに、時間が過ぎる感覚だけがやけにうるさかった。


 二十三時五十九分。


「……来るなら来いよ」


 半分やけくそだった。


 そして、日付が変わる。


 零時ちょうど。


 その瞬間――部屋の空気が、わずかに歪んだ。


「っ……!?」


 エアコンも止まっていない。窓も閉まっている。なのに、部屋の温度が一気に下がったような感覚が走る。


 机の上の白い紙が、ひとりでにふわりと浮いた。


 ありえない。


 恒一は立ち上がろうとして、しかし足が動かない。

 まるで床に影ごと縫い付けられたみたいに、身体が重かった。


 紙はゆっくりと回転し、そこに新しい文字が滲むように浮かび上がっていく。


 『観測対象:榊 恒一』


 『第一分岐:告白した未来』


 『観測を開始します』


「は……?」


 声にならない。


 次の瞬間、視界が暗転した。


     ◇


 目を開けた時、恒一は見知らぬ部屋にいた。


 いや、正確には「知らないのに知っている」部屋だった。


 白を基調にしたリビング。

 二人掛けのソファ。

 木目のローテーブル。

 観葉植物。

 棚の上に並ぶ写真立て。

 カーテンの色、床に敷かれたラグ、小さな生活音の染みついた空気。


 初めて見るはずなのに、どこか懐かしい。

 夢の中で見たことがあるような、そんな奇妙な既視感が全身を包む。


「……ここ、どこだ」


 立ち上がる。

 すると、自分の服装が昨日までと違うことに気づいた。


 部屋着だ。

 しかも自分が持っていないはずのスウェット上下。


 鏡を探して壁際へ近づくと、そこに映っていたのは確かに自分だった。

 二十九歳の榊恒一。

 でも、髪型が少し違う。表情も、今の自分よりどこか柔らかい。


「なんだよ……これ」


 その時、玄関の方から鍵の開く音がした。


 びくりと肩が跳ねる。


 誰かいる。

 いや、この家の主が帰ってきたのだ。


 それが自分ではないと、なぜか直感で分かった。


 足音が近づく。

 リビングの扉が開く。


「ただいまー。ごめん、思ったより遅くなっ――」


 声が止まった。


 恒一も、息を止めた。


 そこに立っていたのは、雨宮澪だった。


 高校時代の彼女じゃない。

 今の年齢を重ねた、ちゃんと大人の女性としての雨宮。

 髪は肩口で揺れ、少し疲れた顔をしていたけれど、それでも面影は一瞬で分かった。


 彼女は買い物袋を片手に持ったまま、不思議そうに首を傾げる。


「え……どうしたの? そんな顔して」


 知っている声。

 知らない距離感。


 胸が、どくんと鳴る。


 彼女は何の警戒もなく靴を脱ぎ、当たり前みたいに部屋へ入ってくる。

 そして恒一の前まで来ると、少し背伸びをして顔を覗き込んだ。


「もしかして、またぼーっとしてた? 最近多いよ、恒一」


 恒一。


 名前を呼ばれた、その自然さだけで、頭が真っ白になった。


「……雨宮」


「もう、家でまでその呼び方?」

 

 彼女は呆れたように笑った。


「せめて澪って呼んでよ。結婚して三年経つのに」


 世界が止まった。


 今、なんて言った。


「……けっ、こん」


「なにその反応」


 澪はくすっと笑い、買い物袋をテーブルに置いた。


「疲れてるの? 大丈夫? 今日、早く帰れるって言ってたのに返信も遅かったし、ちょっと心配したんだけど」


 結婚して三年。


 その言葉が頭の中で何度も反響する。


 これは夢か?

 いや、夢にしては生々しすぎる。

 空気の温度。足裏の感触。彼女の声の近さ。全部が現実みたいだった。


 観測対象。

 第一分岐。

 告白した未来。


 そこでようやく恒一は理解する。


 ここは――

 あの時、告白した自分の未来だ。


 脚が震えた。


 信じられない。

 でも、目の前の現実が否定を許さない。


 文化祭の日、夢の中の自分は確かに告白した。

 そしてこの未来では、その先へ進んだのだ。

 付き合って、時間を重ねて、別れずに、今も隣にいる。


 選ばなかった人生。

 届かなかったはずの続きを、自分はいま見ている。


「恒一?」


 黙り込んだままの彼を見て、澪が眉をひそめる。


「ほんとに大丈夫? 熱ある?」


 そっと額に手が伸びる。


 その柔らかさに、恒一の心臓は悲鳴を上げた。


 触れられた。


 夢じゃないみたいに温かい。


 もう二度と会えないと思っていた人が、当たり前のように自分を心配している。


 耐えられなかった。


「……っ」


 気づけば、恒一は反射的にその手首を掴んでいた。


「え?」


 澪が目を瞬かせる。


 しまった、と思った時には遅かった。

 だが離せなかった。離したくなかった。


 だって、こんなの。

 こんなの、長年後悔してきた人間に耐えられるわけがない。


「どうしたの、ほんとに」


 彼女の声が少しだけ不安げになる。


 恒一は喉を鳴らした。

 言いたいことはいくらでもあるのに、何一つ言葉にならない。


 会いたかった。

 ずっと好きだった。

 あの時言えなかった。

 今の俺は、お前の夫じゃない。

 ここが夢なのか未来なのか分からない。

 でも、嬉しい。苦しい。怖い。


 全部、ぐちゃぐちゃだった。


 結局、口から出たのはたった一言だけだった。


「……澪」


 彼女は、少し驚いたように目を見開いたあと、ふっと笑った。


「なに、それ。今日は素直だね」


 その笑顔が、あまりにも自然で。

 あまりにも近くて。


 胸の奥に、嬉しさと同じくらいの痛みが走った。


 これは自分の未来じゃない。


 正確には、“自分が選ばなかった先にあったかもしれない未来”だ。

 今の自分はここにいない。

 ここにいるのは、告白して、関係を繋いで、結婚まで辿り着いた別の榊恒一だ。


 つまり、これは奇跡じゃない。

 自分が手に入れられなかった幸福の、見学席だ。


 その事実が遅れて胸に刺さる。


 澪は何も知らず、テーブルの上に夕飯の材料を並べ始めた。


「ごはん、まだでしょ? 今日は簡単なやつでいい?」


「あ……」


「返事遅い。やっぱり変だよ、今日の恒一」


 彼女は笑いながら振り返る。


 その笑顔を見た瞬間、恒一は気づいてしまった。


 この未来は、ただ甘いだけのご褒美なんかじゃない。

 知ってしまったら最後、今の自分の人生には戻れなくなる。


 だって、比べてしまうから。


 何も手に入らなかった今の自分と、

 手を伸ばして、その先まで辿り着いた自分を。


 どちらが正しかったのか、嫌でも考えてしまう。


 それでも目を逸らせなかった。


 知りたかった。

 どうしても知りたかったのだ。

 あの時一歩踏み出していたら、自分はどこまで行けたのかを。


 だから恒一は、震える声で言った。


「……あのさ、澪」


「うん?」


「俺たちって……その……」


「なに、今さら」


 彼女はおかしそうに笑いながら、エプロンをつける。


「まさか、結婚記念日忘れたとか言わないでよ?」


「っ……」


「冗談冗談。まだ先だから」


 軽い調子。

 でも、そのやり取りひとつで、ここに確かな時間の積み重ねがあると分かってしまう。


 その時間を、自分は知らない。


 知らないまま失った。


 恒一は拳を握りしめた。


 この未来を見られる時間がどれだけあるのか分からない。

 夢のようにすぐ終わるかもしれないし、朝まで続くのかもしれない。


 なら、知りたい。


 この未来の自分が何を選び、どう生きてきたのか。

 そして――本当に幸せなのか。


 幸福そうに見える未来ほど、残酷なものはない。

 外から見れば完璧に見えても、中にいる人間しか知らない痛みがあるかもしれないからだ。


 澪がキッチンへ向かう背中を見ながら、恒一は静かに息を吸う。


 その時、視界の端に、またあの白い文字が浮かんだ。


 空中に、半透明の文字列が浮かび上がる。


 『観測時間:残り 02:13:47』


「……は?」


 思わず声が漏れる。


 澪は振り返らない。

 見えていないのか、それともこれ自体が自分にしか見えないのか。


 さらに、その下へ新しい文が現れた。


 『警告:観測者は介入できません』


 『過度な感情同調は、現実側記憶の侵食を招きます』


 冗談じゃない。


 説明が足りなさすぎる。

 でも少なくとも一つだけ、はっきりした。


 自分はここで“体験”はできても、“変える”ことはできない。

 そして、この未来にのめり込むほど危険だということだ。


 恒一は乾いた笑いをこぼした。


「……都合よく幸せだけ見せて終わり、ってわけじゃないのかよ」


 むしろ逆だ。

 これはきっと、後悔に触れさせるための装置だ。

 選ばなかった人生の温度を知ってしまえば、もう以前のようには戻れない。


 それでも。


「恒一、手伝ってくれる?」


 キッチンから澪の声が飛ぶ。


「あ、うん」


 返事をした瞬間、その自然さに自分で驚いた。


 この未来の自分は、きっとこうやって彼女と日常を積み重ねてきたのだろう。

 料理を手伝い、他愛ない会話をして、喧嘩をして、仲直りをして。

 特別じゃない毎日を、特別なものとして生きてきたのだ。


 それが、たまらなく眩しかった。


 そして同時に、怖かった。


 残り時間は、二時間あまり。

 その短さが妙に現実的で、残酷だった。


 もしこの先、この未来の“真実”を知ってしまったら。

 もし幸福の裏にあるものまで見てしまったら。

 今の自分は、それを抱えて現実に戻れるのだろうか。


 答えは分からない。


 分からないまま、恒一はキッチンへ向かう。


 これは、ご褒美じゃない。

 やり直しでもない。


 選ばなかった人生の、その続きに触れる観測だ。


 そしてきっと、この未来にもまた、今の自分が知らない痛みがある。


 榊恒一はまだ知らない。

 告白した先にあったこの幸福が、思っていたよりずっと脆く、そして深く彼を傷つけることを。


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