零時の観測者
その日一日、榊恒一はほとんど仕事にならなかった。
朝からずっと、頭の中に同じものがこびりついて離れない。
雨宮澪から届いたメッセージ。
机の上から落ちた文庫本。
そして、あの紙に書かれていた一文。
『次の分岐は、今夜零時に開く』
意味なんて分かるはずがない。
分からないのに、ただの悪ふざけでは片付けられない妙な現実感があった。
「榊さん、これ先方に共有お願いします」
「あ、はい。すみません」
隣の席の後輩に声をかけられて、恒一は慌ててモニターへ向き直る。
社内チャットの未読はたまっているし、メールの返信も遅れていた。普段ならもう少し器用にやれるはずなのに、今日に限っては注意力が完全に散っていた。
昼休み。
社員食堂の隅で定食を前にしながら、恒一はスマホの画面を何度も見ていた。
雨宮とのトーク画面は開いたままになっている。
『高校の時のこと、たまに思い出したりする?』
その一文に、まだ返せていない。
思い出す。
たまにどころじゃない。
十年以上経った今でも、ふとした瞬間に思い出してしまう。
でも、それをそのまま返すのは重すぎる気がした。
かといって、適当に流せば何か大事なものを逃す気もする。
結局、昼休みの終わり際になってようやく、無難な返事を送った。
『たまに思い出すよ。文化祭とか、受験前とか』
『急にどうしたの?』
送信してすぐ、後悔した。
もっと自然にできなかったのか。
いや、むしろ自然すぎて印象に残らないか。
そもそも、何を期待しているんだ自分は。
スマホを伏せて、大して味のしない味噌汁を飲む。
その時だった。
『ううん、なんか変な夢見ただけ』
返信はすぐに来た。
変な夢。
その言葉だけで、恒一の手が止まる。
『榊が高校の時、私に何か言おうとしてる夢』
『でも途中で目が覚めちゃった』
箸が、かちゃんと音を立てた。
周囲の社員たちが雑談を続けている。
テレビでは昼のニュースが流れている。
味噌汁はまだ湯気を立てている。
全部、現実だ。
なのに、そのメッセージだけがひどく異物だった。
昨日の夢。
夢の中の告白。
そして今、この言葉。
偶然。
ただの偶然だ。
そう思いたいのに、胸の奥が「違う」と囁く。
『そうなんだ』
『なんかすごいタイミングだね』
それだけ返すのが精一杯だった。
雨宮からはすぐに既読がついたが、その後の返信はしばらく来なかった。
仕事に戻っても、心ここにあらずだった。
書類を確認している時、ふと窓ガラスに映った自分の顔が目に入る。
二十九歳。
疲れが抜けきらない目元。
夢を諦めて、大きな失敗もない代わりに大きな熱もない、どこにでもいる男。
もしも。
あの時、告白していたら。
あの時、別の会社を選んでいたら。
あの時、書くことを諦めていなかったら。
そんなことを考えたって仕方がない。
分かっている。
分かっているのに、人はどうしても「選ばなかった方」を見てしまう。
◇
定時を少し過ぎて会社を出ると、外はもう薄暗かった。
三月の終わり。
春が来るには来たが、夜風はまだ少し冷たい。
駅前のコンビニでコーヒーを買い、マンションへ戻る。
いつもと何も変わらない帰り道のはずなのに、今日は街の輪郭がどこか曖昧に見えた。
部屋に着くと、真っ先に机を見た。
昨夜の紙は、出勤前に財布の中へしまっておいたはずだ。
財布を開く。
ある。
白い紙は、確かにそこに残っていた。
夢でも妄想でもない。
少なくとも、「紙があった」という事実だけは現実だ。
恒一はそれを机の上に置き、ため息をついた。
「……で、零時に開くってなんだよ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
もちろん返事はない。
紙はただの紙のままだ。
シャワーを浴び、適当に夕飯を済ませても、時間は思ったより進まなかった。
時計を見るたびに、まだ二十一時、まだ二十二時、と針の遅さに妙に苛立つ。
結局、落ち着かないままスマホを開き、雨宮とのトーク画面を眺めていた。
追加のメッセージは来ていない。
代わりに、彼女のアイコンをぼんやり見てしまう。
最近撮ったものらしい横顔の写真だった。高校時代の面影はある。でも当然、大人になっている。少しだけ柔らかく、少しだけ遠い顔だ。
今、何をしているんだろう。
どこで暮らしているんだろう。
結婚は。恋人は。仕事は。
聞きたいことはいくらでもあるのに、聞いていい距離ではない気がした。
時計が二十三時五十分を示す。
さすがに自分でも笑えてきた。
何を期待しているんだ。
零時になったからって、急に世界が変わるわけがない。
きっと何も起きない。起きるはずがない。
それでも、部屋の明かりを落とし、ベッドに腰掛ける。
机の上には白い紙。
手元にはスマホ。
秒針の音は聞こえないはずなのに、時間が過ぎる感覚だけがやけにうるさかった。
二十三時五十九分。
「……来るなら来いよ」
半分やけくそだった。
そして、日付が変わる。
零時ちょうど。
その瞬間――部屋の空気が、わずかに歪んだ。
「っ……!?」
エアコンも止まっていない。窓も閉まっている。なのに、部屋の温度が一気に下がったような感覚が走る。
机の上の白い紙が、ひとりでにふわりと浮いた。
ありえない。
恒一は立ち上がろうとして、しかし足が動かない。
まるで床に影ごと縫い付けられたみたいに、身体が重かった。
紙はゆっくりと回転し、そこに新しい文字が滲むように浮かび上がっていく。
『観測対象:榊 恒一』
『第一分岐:告白した未来』
『観測を開始します』
「は……?」
声にならない。
次の瞬間、視界が暗転した。
◇
目を開けた時、恒一は見知らぬ部屋にいた。
いや、正確には「知らないのに知っている」部屋だった。
白を基調にしたリビング。
二人掛けのソファ。
木目のローテーブル。
観葉植物。
棚の上に並ぶ写真立て。
カーテンの色、床に敷かれたラグ、小さな生活音の染みついた空気。
初めて見るはずなのに、どこか懐かしい。
夢の中で見たことがあるような、そんな奇妙な既視感が全身を包む。
「……ここ、どこだ」
立ち上がる。
すると、自分の服装が昨日までと違うことに気づいた。
部屋着だ。
しかも自分が持っていないはずのスウェット上下。
鏡を探して壁際へ近づくと、そこに映っていたのは確かに自分だった。
二十九歳の榊恒一。
でも、髪型が少し違う。表情も、今の自分よりどこか柔らかい。
「なんだよ……これ」
その時、玄関の方から鍵の開く音がした。
びくりと肩が跳ねる。
誰かいる。
いや、この家の主が帰ってきたのだ。
それが自分ではないと、なぜか直感で分かった。
足音が近づく。
リビングの扉が開く。
「ただいまー。ごめん、思ったより遅くなっ――」
声が止まった。
恒一も、息を止めた。
そこに立っていたのは、雨宮澪だった。
高校時代の彼女じゃない。
今の年齢を重ねた、ちゃんと大人の女性としての雨宮。
髪は肩口で揺れ、少し疲れた顔をしていたけれど、それでも面影は一瞬で分かった。
彼女は買い物袋を片手に持ったまま、不思議そうに首を傾げる。
「え……どうしたの? そんな顔して」
知っている声。
知らない距離感。
胸が、どくんと鳴る。
彼女は何の警戒もなく靴を脱ぎ、当たり前みたいに部屋へ入ってくる。
そして恒一の前まで来ると、少し背伸びをして顔を覗き込んだ。
「もしかして、またぼーっとしてた? 最近多いよ、恒一」
恒一。
名前を呼ばれた、その自然さだけで、頭が真っ白になった。
「……雨宮」
「もう、家でまでその呼び方?」
彼女は呆れたように笑った。
「せめて澪って呼んでよ。結婚して三年経つのに」
世界が止まった。
今、なんて言った。
「……けっ、こん」
「なにその反応」
澪はくすっと笑い、買い物袋をテーブルに置いた。
「疲れてるの? 大丈夫? 今日、早く帰れるって言ってたのに返信も遅かったし、ちょっと心配したんだけど」
結婚して三年。
その言葉が頭の中で何度も反響する。
これは夢か?
いや、夢にしては生々しすぎる。
空気の温度。足裏の感触。彼女の声の近さ。全部が現実みたいだった。
観測対象。
第一分岐。
告白した未来。
そこでようやく恒一は理解する。
ここは――
あの時、告白した自分の未来だ。
脚が震えた。
信じられない。
でも、目の前の現実が否定を許さない。
文化祭の日、夢の中の自分は確かに告白した。
そしてこの未来では、その先へ進んだのだ。
付き合って、時間を重ねて、別れずに、今も隣にいる。
選ばなかった人生。
届かなかったはずの続きを、自分はいま見ている。
「恒一?」
黙り込んだままの彼を見て、澪が眉をひそめる。
「ほんとに大丈夫? 熱ある?」
そっと額に手が伸びる。
その柔らかさに、恒一の心臓は悲鳴を上げた。
触れられた。
夢じゃないみたいに温かい。
もう二度と会えないと思っていた人が、当たり前のように自分を心配している。
耐えられなかった。
「……っ」
気づけば、恒一は反射的にその手首を掴んでいた。
「え?」
澪が目を瞬かせる。
しまった、と思った時には遅かった。
だが離せなかった。離したくなかった。
だって、こんなの。
こんなの、長年後悔してきた人間に耐えられるわけがない。
「どうしたの、ほんとに」
彼女の声が少しだけ不安げになる。
恒一は喉を鳴らした。
言いたいことはいくらでもあるのに、何一つ言葉にならない。
会いたかった。
ずっと好きだった。
あの時言えなかった。
今の俺は、お前の夫じゃない。
ここが夢なのか未来なのか分からない。
でも、嬉しい。苦しい。怖い。
全部、ぐちゃぐちゃだった。
結局、口から出たのはたった一言だけだった。
「……澪」
彼女は、少し驚いたように目を見開いたあと、ふっと笑った。
「なに、それ。今日は素直だね」
その笑顔が、あまりにも自然で。
あまりにも近くて。
胸の奥に、嬉しさと同じくらいの痛みが走った。
これは自分の未来じゃない。
正確には、“自分が選ばなかった先にあったかもしれない未来”だ。
今の自分はここにいない。
ここにいるのは、告白して、関係を繋いで、結婚まで辿り着いた別の榊恒一だ。
つまり、これは奇跡じゃない。
自分が手に入れられなかった幸福の、見学席だ。
その事実が遅れて胸に刺さる。
澪は何も知らず、テーブルの上に夕飯の材料を並べ始めた。
「ごはん、まだでしょ? 今日は簡単なやつでいい?」
「あ……」
「返事遅い。やっぱり変だよ、今日の恒一」
彼女は笑いながら振り返る。
その笑顔を見た瞬間、恒一は気づいてしまった。
この未来は、ただ甘いだけのご褒美なんかじゃない。
知ってしまったら最後、今の自分の人生には戻れなくなる。
だって、比べてしまうから。
何も手に入らなかった今の自分と、
手を伸ばして、その先まで辿り着いた自分を。
どちらが正しかったのか、嫌でも考えてしまう。
それでも目を逸らせなかった。
知りたかった。
どうしても知りたかったのだ。
あの時一歩踏み出していたら、自分はどこまで行けたのかを。
だから恒一は、震える声で言った。
「……あのさ、澪」
「うん?」
「俺たちって……その……」
「なに、今さら」
彼女はおかしそうに笑いながら、エプロンをつける。
「まさか、結婚記念日忘れたとか言わないでよ?」
「っ……」
「冗談冗談。まだ先だから」
軽い調子。
でも、そのやり取りひとつで、ここに確かな時間の積み重ねがあると分かってしまう。
その時間を、自分は知らない。
知らないまま失った。
恒一は拳を握りしめた。
この未来を見られる時間がどれだけあるのか分からない。
夢のようにすぐ終わるかもしれないし、朝まで続くのかもしれない。
なら、知りたい。
この未来の自分が何を選び、どう生きてきたのか。
そして――本当に幸せなのか。
幸福そうに見える未来ほど、残酷なものはない。
外から見れば完璧に見えても、中にいる人間しか知らない痛みがあるかもしれないからだ。
澪がキッチンへ向かう背中を見ながら、恒一は静かに息を吸う。
その時、視界の端に、またあの白い文字が浮かんだ。
空中に、半透明の文字列が浮かび上がる。
『観測時間:残り 02:13:47』
「……は?」
思わず声が漏れる。
澪は振り返らない。
見えていないのか、それともこれ自体が自分にしか見えないのか。
さらに、その下へ新しい文が現れた。
『警告:観測者は介入できません』
『過度な感情同調は、現実側記憶の侵食を招きます』
冗談じゃない。
説明が足りなさすぎる。
でも少なくとも一つだけ、はっきりした。
自分はここで“体験”はできても、“変える”ことはできない。
そして、この未来にのめり込むほど危険だということだ。
恒一は乾いた笑いをこぼした。
「……都合よく幸せだけ見せて終わり、ってわけじゃないのかよ」
むしろ逆だ。
これはきっと、後悔に触れさせるための装置だ。
選ばなかった人生の温度を知ってしまえば、もう以前のようには戻れない。
それでも。
「恒一、手伝ってくれる?」
キッチンから澪の声が飛ぶ。
「あ、うん」
返事をした瞬間、その自然さに自分で驚いた。
この未来の自分は、きっとこうやって彼女と日常を積み重ねてきたのだろう。
料理を手伝い、他愛ない会話をして、喧嘩をして、仲直りをして。
特別じゃない毎日を、特別なものとして生きてきたのだ。
それが、たまらなく眩しかった。
そして同時に、怖かった。
残り時間は、二時間あまり。
その短さが妙に現実的で、残酷だった。
もしこの先、この未来の“真実”を知ってしまったら。
もし幸福の裏にあるものまで見てしまったら。
今の自分は、それを抱えて現実に戻れるのだろうか。
答えは分からない。
分からないまま、恒一はキッチンへ向かう。
これは、ご褒美じゃない。
やり直しでもない。
選ばなかった人生の、その続きに触れる観測だ。
そしてきっと、この未来にもまた、今の自分が知らない痛みがある。
榊恒一はまだ知らない。
告白した先にあったこの幸福が、思っていたよりずっと脆く、そして深く彼を傷つけることを。




