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A  作者: コンティ
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もしもの続きを、君はまだ知らない

 人生には、分岐点がいくつもある。


 あの時、違う選択をしていれば。

 あの時、諦めなければ。

 あの時、ちゃんと想いを伝えていれば。


 結果がどうなっていたかなんて、誰にも分からない。

 幸せになれた保証もないし、むしろ今よりひどい未来だったかもしれない。


 それでも人は、何度でも思ってしまうのだ。


 ――もし、あの時。


 そういう意味では、榊恒一という男は、あまりにも“普通”だった。


 二十九歳。独身。彼女なし。

 都内の中堅企業で営業事務をしている。給料は悪くない。残業は多すぎず少なすぎず。社内の人間関係も、致命的に悪くはない。

 休日はYouTubeを見て、たまにゲームをして、たまに近所のスーパー銭湯に行く。

 誰かに説明すれば、たぶん「安定していていい人生ですね」と言われる部類の生活だ。


 実際、親にだってそう言われてきた。


『公務員じゃなくても、ちゃんと会社に入って働いてるんだから十分だ』

『無茶しないのが一番だ』

『地に足つけて生きなさい』


 その言葉は正しかったと思う。

 正しくて、まともで、たぶん間違っていない。


 でも――。


「これで、本当に良かったのか……」


 深夜一時。

 仕事帰りに寄ったコンビニの袋を片手に、恒一は自分でも驚くほど小さな声で呟いていた。


 誰に聞かせるでもない独り言だ。

 春先の夜風にさらわれて、街路樹の葉音に紛れて消える。


 駅から十分ほど歩いた先にある、築十五年の賃貸マンション。

 オートロックでもなければ宅配ボックスもない、ごくありふれた建物だ。

 エレベーターに乗り、四階で降りて、自分の部屋の鍵を開ける。

 見慣れた一K。白い壁、安いテーブル、無機質な照明。帰ってきたはずなのに、なぜか「戻ってきてしまった」と感じる部屋だった。


 靴を脱ぎ、ネクタイを外し、コンビニで買ったチキン南蛮弁当をレンジに放り込む。

 温まるまでの一分三十秒。

 その時間すら、最近の恒一には妙に長く感じた。


 スマホを見る。通知は少ない。

 会社のグループチャットに業務連絡が二件。

 ニュースアプリに芸能人の結婚報告。

 動画アプリのおすすめに、学生時代によく見ていたアーティストの新曲。


「……結婚、か」


 別に、羨ましいわけじゃない。

 そう自分に言い聞かせながら、恒一はテーブルに座る。


 温め終わった弁当を開け、割り箸を割って、一口食べる。

 うまい。コンビニの味としては十分だ。

 十分なのに、心が満たされる気はしなかった。


 それはたぶん、弁当のせいじゃない。


 最近、やたらと昔のことを思い出すのだ。


 高校の時、文化祭の帰り道で隣を歩いた女の子のこと。

 大学の時、「書いてみたら?」と友達に背中を押されながら、結局一作も完成させなかった小説のこと。

 就活の時、本当は別の道に進みたかったのに、「安定してるから」という理由で今の会社を選んだこと。

 父親が病室で眠っていたあの日、照れくさくて結局ちゃんと感謝を言えなかったこと。


 小さな後悔。

 誰にでもある、取るに足らない後悔。

 そう言ってしまえばそれまでなのに、なぜだか最近は、その一つ一つが胸の底に沈んだ小石みたいに重かった。


 弁当を食べ終え、風呂に入り、歯を磨いて、ベッドに横になる。


 照明を消した部屋の中で、スマホの画面だけが青白く光る。

 無意識のうちにSNSを開き、知り合いの投稿を流し見する。


 結婚しました。

 子どもが生まれました。

 転職して年収上がりました。

 夢だった仕事に就けました。

 起業しました。

 引っ越しました。

 海外に行きました。


 みんな、自分の人生を進めている。


 もちろん、投稿されているのはキラキラした部分だけだと分かっている。

 苦労も不安も失敗も、画面の向こうには書かれない。

 それでも、今の自分だけがどこにも進めていないような気がしてしまうのは、夜の悪い癖だった。


 恒一はスマホを伏せ、目を閉じる。


 眠る前、最後に脳裏へ浮かんだのは、一人の少女の顔だった。


 雨宮澪。


 高校の同級生。

 特別派手でもなければ、クラスの中心にいるタイプでもなかった。

 でも、静かな教室の窓際が似合うような、そんな子だった。


 よく笑うくせに、どこか寂しそうで。

 人の話を聞く時、少しだけ首を傾げる癖があって。

 文化祭の準備で二人きりになった時、笑いながら「榊って、意外と優しいよね」と言った。


 あの一言を、恒一は十年以上引きずっている。


 好きだった。


 たぶん、あれは恋だった。

 でも告白はできなかった。

 断られるのが怖かったから。

 関係が壊れるのが嫌だったから。

 タイミングがなかったから。

 受験があったから。

 卒業が近かったから。


 言い訳はいくらでも並べられる。

 けれど結局、ただ勇気がなかっただけだ。


 卒業して、それぞれ別の道へ進んで、連絡先もいつの間にか消えた。

 たまに思い出すことはあっても、もう会うこともないだろうと思っていた。


 それなのに、なぜ今さら――。


 そこで、意識が沈んだ。


     ◇


 夢を見た。


 最初は、それが夢だと分からなかった。


 夕暮れだった。

 教室の窓から差し込む西日が、机の表面をオレンジ色に染めている。

 黒板には「文化祭実行委員会」の文字が残り、誰もいない教室に、遠くの吹奏楽部の音だけがかすかに届いていた。


 懐かしい。


 そう思った瞬間、恒一は理解する。

 ここは高校三年の秋だ。文化祭が終わった日の、放課後。


 教室の真ん中に、女子が一人立っている。


 雨宮澪だった。


 制服の袖を少しだけ指先でつまみながら、こちらを見ている。

 高校時代の記憶そのままの顔。少し困ったような笑い方。細い肩。夕日に透ける髪。


 胸が、ひどくうるさい。


 夢の中のはずなのに、体温も息苦しさもやけに生々しかった。


「……雨宮」


 声が出た。


 そしてその声に、恒一は違和感を覚える。

 今の自分の声じゃない。

 もっと若くて、少し高くて、震えている。


 自分の足が勝手に前に進む。


 いや、違う。

 勝手じゃない。これは“自分”だ。

 ただ、今の二十九歳の自分ではなく、高校三年の自分が、確かな意思で前へ出ている。


 夢の中の自分は、雨宮の前で立ち止まった。


「あのさ」


 喉が乾く。

 心臓が暴れる。

 視界の端が熱を持つ。


 それでも、その時の自分は逃げなかった。


「俺、ずっと雨宮のこと好きだった」


 言った。


 言ってしまった。


 現実では一度も口にできなかった言葉を、夢の中の自分は、震えながらも確かに言い切った。


 雨宮は目を丸くした。

 数秒、沈黙が落ちた。


 その沈黙が、永遠みたいに長かった。


 やめろ。

 やっぱり言わなきゃよかった。

 夢の中なのに、そんな情けない感情が込み上げる。


 けれど、次の瞬間。


「……遅いよ、榊」


 雨宮は、泣きそうに笑ってそう言った。


 その表情を、恒一は知らない。


 知らないはずだった。


 現実では存在しなかった答え。

 手に入らなかったはずの続きを、夢の中の自分は受け取っていた。


「私も、ちょっとだけ期待してたのに」


 西日が彼女の頬を照らす。

 その目元が少し潤んで見えた。


 世界が、音もなく反転する。


 嬉しい。

 信じられない。

 苦しい。

 今さら。

 なんで。

 どうして。


 感情がぐちゃぐちゃになって、恒一はその場で立ち尽くした。


 雨宮が一歩近づく。


 制服の袖が、わずかに触れた。


 その瞬間――。


     ◇


「っ……!」


 恒一は、息を呑んで飛び起きた。


 暗い部屋。

 見慣れた天井。

 エアコンの小さな駆動音。

 全身にじっとりと汗をかいている。


「夢……」


 そう呟いた声は、ちゃんと二十九歳の自分のものだった。


 夢にしては、あまりにも鮮明だった。

 教室の匂い。西日の色。制服の擦れる音。雨宮の表情。

 どれも十年以上前の記憶とは思えないほど鮮やかで、生々しい。


 時計を見る。朝六時十二分。


 平日ならまだ少し早いが、二度寝するには中途半端な時間だ。

 頭を抱えながらベッドから降り、水を飲む。


 胸の奥がざわついている。

 ただの夢では済ませられないような、不気味な確信があった。


 夢の中で自分は、告白していた。


 そして、雨宮は――。


「……いや、あるわけないだろ」


 恒一は自嘲気味に笑う。


 そんな都合のいい返事があるものか。

 十年以上も経って、今さら夢に見るなんて、自分はどれだけ未練がましいんだ。


 スマホを手に取る。

 寝る前に伏せたままの画面をつけると、通知が一件増えていた。


 見慣れないSNSのメッセージ通知。


 寝ぼけた頭のまま開いて、恒一は固まった。


 差出人の名前は――


 雨宮 澪


「……は?」


 声が漏れた。


 そんなはずがない。

 だってもう、何年も連絡なんて取っていない。そもそもアカウントが繋がっていたことすら覚えていない。

 指がわずかに震える。


 通知をタップする。


 表示されたメッセージは、たった一文だった。


『ねえ、急にごめん。昨日、なんだか榊の夢を見た』


 その瞬間、恒一の背筋を、冷たいものが走った。


 夢の続きみたいだ、なんて甘い表現じゃ足りない。

 これは偶然じゃない。

 そう思ってしまうくらい、出来すぎていた。


「……なんだよ、これ」


 喉が渇く。

 返事を打とうとして、指が止まる。


 何を返す?

 お久しぶり?

 どうしたの?

 俺も夢見たよ?

 そんなこと、言えるわけがない。


 しばらく画面を見つめた末、恒一は無難な一文だけを送った。


『久しぶり。急でびっくりした。元気?』


 送信。


 送ってから後悔する。

 もっと気の利いた言葉があったんじゃないか。

 いや、そもそも返さない方がよかったのか。

 今さら何を期待してる。

 何も始まるわけがない。


 そう自分に言い聞かせても、胸の鼓動だけはまるで高校生の頃に戻ったみたいに落ち着かなかった。


 その時だった。


 部屋の隅、机の上に置いてあったはずの文庫本が、ぱさりと床に落ちた。


「……え?」


 驚いて振り向く。


 窓は閉まっている。

 風なんて吹いていない。

 そもそも、立てかけてもいなかった本が勝手に落ちるはずがない。


 恐る恐る近づくと、落ちた拍子に本の間から一枚の紙が滑り出ていた。


 そんなものを挟んだ覚えはなかった。


 拾い上げる。


 白いメモ用紙だった。

 印字でも手書きでもない、妙に整いすぎた文字で、短くこう書かれていた。


 『選ばなかった未来を、もう一度見たいですか?』


 恒一は息を止めた。


 ぞくり、と背中が粟立つ。


 意味が分からない。

 誰のいたずらだ。

 どうしてこんなものが部屋の中にある。

 昨夜はなかった。見落とすはずがない。


 紙の裏を返す。


 そこには、もう一行だけ書かれていた。


 『次の分岐は、今夜零時に開く』


 冗談にしては気味が悪すぎた。


 だが同時に、心のどこかが、あまりにも静かに理解してしまっていた。


 あの夢は、ただの夢じゃない。


 もし、本当に。

 本当に、あの時選ばなかった未来を知ることができるのだとしたら。


 告白した先の未来を。

 諦めなかった未来を。

 別の人生を歩いた自分を。


 知ってしまったら、自分はどうなるのだろう。


 怖い。

 気味が悪い。

 関わらない方がいい。

 普通ならそう思う。


 けれど――。


「……知りたいに決まってるだろ」


 その呟きは、独り言にしてはあまりにも正直だった。


 後悔を抱えたことのある人間なら、一度は手を伸ばしてしまう。

 たとえそれが、開けてはいけない扉だとしても。


 スマホが震えた。


 雨宮からの返信だった。


『元気だよ。榊は?』

『ねえ、変なこと聞くかもだけどさ』

『高校の時のこと、たまに思い出したりする?』


 恒一は、画面を見つめたまま動けなかった。


 朝日がカーテンの隙間から差し込んで、部屋の床に細い線を落とす。

 今日もきっと、いつも通り会社へ行って、いつも通り仕事をして、いつも通りの一日が終わるのだろう。


 だけど、もう戻れない気がした。


 選ばなかった未来は、過去の中に眠っているだけじゃない。

 今もなお、こちらを見ている。


 そんな気がしてならなかった。


 そして、その夜。

 榊恒一は、自分がまだ知らない“もう一つの人生”の扉を開くことになる。

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