君のいない選択肢
風呂場の鏡に映った自分の顔は、驚くほどひどかった。
血の気が引いている。
目の奥が落ち着かない。
まるで自分の人生ではない場所へ迷い込んだまま、出口だけ見失った人間の顔だ。
シャワーをひねる。
熱めの湯が肩を打っても、胸の内側の冷たさはまるで消えなかった。
不妊検査結果。
澪の寂しそうな声。
謝ってほしいわけじゃない――その一言。
頭の中で何度も反芻される。
選ばなかった未来を知りたいと思った。
だが、こんな形で知りたかったわけじゃない。
もっと都合のいいものを想像していたのだ。
あの時勇気を出していれば、彼女と結ばれて、何もかも満たされて、後悔なんて消えていた。
どこかでそんな甘い願望を抱いていた。
けれど現実は、違った。
この未来にも苦しみがある。
この未来にも、言葉にできない不安がある。
この未来にも、乗り越えられるか分からない問題がある。
しかも厄介なのは、それでもなお、この未来が“欲しい”と思えてしまうことだった。
痛みがある。
苦しみもある。
でも、その全部を含めても、澪が隣にいる人生は眩しい。
「……最悪だな」
ぽつりと零れた独り言は、湯気の中に溶けた。
こんなものを見てしまったら、現実の自分に戻った時、何を拠り所にすればいいのか分からなくなる。
後悔は消えるどころか、もっと輪郭を増して胸に刺さるだろう。
それでも、自分はまだ知りたかった。
この未来がどこへ向かっているのか。
この二人が、何を失い、何を守ろうとしているのか。
シャワーを止める。
水滴を拭い、脱衣所へ出た時、視界の端に白い文字が浮かんだ。
『観測時間:残り 00:51:28』
もう一時間もない。
短い。
いや、短すぎる。
人の人生の重みを知るには、あまりにも短い。
けれど、その短さこそが残酷だった。
断片だけを見せられて、全部を知れないまま帰される。そんな予感がした。
◇
風呂から出ると、リビングの明かりは少し落とされていた。
澪はソファに座って、膝の上へクッションを抱えていた。
テレビはついているが、音量はかなり小さい。内容を見ているというより、無音が苦しくてつけているような感じだった。
「……あがった」
恒一がそう言うと、澪は顔を上げた。
「うん」
返事は短い。
怒っているわけじゃない。
でも、さっきまでの軽い空気とは違う。
当然だ。
何かを抱えているくせに何も話さず、謝るだけで終わらせようとしたのだから。
恒一は少し迷ってから、ソファの端へ腰を下ろした。
距離は近い。触れようと思えばすぐ触れられるくらい。
なのに、今はその距離が遠かった。
テレビではバラエティ番組の笑い声が流れている。
その明るさが、この部屋にはまるで馴染んでいなかった。
「……ねえ」
先に口を開いたのは澪だった。
「うん」
「今日、病院から電話きてた」
心臓が一瞬で強く跳ねた。
やはり、その話だ。
「来週の予約、少し早められるかもしれないって」
「……そうなんだ」
「うん」
そこから言葉が続かない。
沈黙が落ちる。
テレビの中の笑い声だけがやけに遠い。
「恒一は、どうしたい?」
静かな問いだった。
逃げ道のない問いでもあった。
この未来の自分と澪は、たぶん何度もこの話をしてきたのだろう。
治療を続けるか。
少し休むか。
別の方法を考えるか。
あるいは、子どもを持たない人生も受け入れるのか。
どれも簡単な話ではない。
正解もない。
だが、ここにいる自分は“観測者”だ。
本当の意味で彼女の問いに答える資格がない。
この人生を積み重ねてきたのは、別の自分なのだから。
「……俺は」
言葉が出ない。
答えられるはずがない。
でも黙ってしまえば、また彼女を傷つける。
澪は恒一の沈黙を見て、少しだけ目を伏せた。
「やっぱり、しんどいよね」
「……」
「ごめん。責めたいわけじゃないの」
違う。
謝るのは自分の方だ。
そう思うのに、うまく言葉にならない。
「私だって、正直しんどい」
ぽつりと落ちたその声は、驚くほど弱かった。
恒一は息を呑む。
「期待して、だめで、また期待して。
そのたびに、平気なふりして。
大丈夫って言いながら、全然大丈夫じゃなくて」
澪はクッションを抱く手に少し力を込めた。
「でも、恒一の前ではあんまり泣きたくなくて」
「……なんで」
「だって、そっちだって同じように苦しいの分かるから」
その答えが、胸に重く落ちる。
この未来の彼女は、ただ支えられる側ではない。
自分も傷つきながら、それでも相手の痛みを考えている。
だからこそ余計に、二人とも本音を飲み込みやすくなってしまうのだろう。
優しさが、時に人を遠ざける。
「ねえ、恒一」
澪は顔を上げた。
「もし」
その“もし”に、恒一の全神経が集中する。
「もし、子どもができなくても……私たち、ちゃんとやっていけると思う?」
世界が静まった気がした。
テレビの音も、外の車の走行音も、何もかも遠のく。
それはたぶん、ずっと口にできなかった問いだ。
未来の形を決めてしまうかもしれない、怖い問いだ。
そして同時に、今の自分にとっても残酷な問いだった。
子どもができなくても。
それでも二人で生きるか。
あるいは、その事実が二人を少しずつ壊していくのか。
未来の幸福は、永遠を保証しない。
どれだけ想い合っていても、現実の重みに削られていくことはある。
「……わからない」
気づけば、口からそんな言葉が零れていた。
正解めいた慰めではなかった。
強がりでもなかった。
たぶん、それが今の自分に言える唯一の本音だった。
澪は目を見開いた。
だが怒らなかった。
「……そっか」
そして小さく笑った。
ひどく寂しくて、でもどこか救われたような笑い方だった。
「うん。そうだよね。分かんないよね」
その瞬間、恒一は理解した。
彼女が欲しかったのは、きれいな正解じゃない。
大丈夫だという根拠のない保証でもない。
同じ怖さの前に立ってくれること。たぶん、それだけだったのだ。
現実の自分は、それすらできていなかった。
怖い時ほど黙り込み、無難な言葉でごまかし、相手を余計に孤独にしてしまう。
けれどこの一言は、偶然とはいえ、少しだけ彼女の本音に届いたらしい。
「私もね、分かんない」
澪はそう言って、視線を自分の膝へ落とした。
「子どもが欲しい気持ちはある。すごくある。
でも、それだけのために毎日が苦しくなるのも違う気がして。
それで恒一と一緒にいる時間までつらくなるの、なんか違うって思って……」
声が少し震える。
「でも、諦めるって言葉を使った瞬間、全部終わっちゃう気がして怖い」
その言葉に、恒一は返せなかった。
諦める。
その重みを、自分は知っている。
夢。恋。進路。人生。
人は何度も何かを諦めて生きていく。
だが、諦めた瞬間にしか訪れない静けさと、消えない後悔があることも知っている。
だから、この未来の二人がその言葉を恐れるのはよく分かった。
「……澪」
名前を呼ぶ。
彼女がゆっくり顔を上げる。
「俺……」
何を言う。
自分はこの未来の夫ではない。
責任ある言葉は吐けない。
それでも、今ここで何も言わずに終わるのは違う気がした。
「全部、うまくいくとは言えない」
澪は黙って聞いている。
「でも」
喉が熱い。
「怖いって思ってるの、たぶん俺も同じだ」
その言葉が出た瞬間、胸の奥に妙な痛みが走った。
これは嘘ではない。
この未来の自分の感情を完全に知っているわけではなくても、少なくとも今ここにいる“観測者の自分”は確かにそう思っていた。
何かを失うのが怖い。
手に入らない未来を突きつけられるのが怖い。
それでも隣にいてほしいと思ってしまう。
澪はしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりとソファの背に身体を預け、目を閉じる。
「……そっか」
その声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
「今日の恒一、なんか変だけど」
「うん」
「でも、今の方がちゃんとここにいる感じする」
胸が詰まる。
皮肉だと思った。
この世界の本物の夫ではない自分の方が、今は彼女と向き合えている。
それはたぶん、観測者だからこそ言えた言葉なのだろう。
しがらみも積み重ねた失敗も背負っていない、途中から来た異物だから。
でもそれは同時に、残酷でもあった。
自分はここに居続けられない。
彼女の明日を支えることも、次の通院に付き添うことも、この先の夜を一緒に越えることもできない。
今だけだ。
この瞬間だけの、借り物の言葉だ。
◇
その後、澪は「少しだけ散歩しよう」と言った。
近所を十分ほど歩くだけ。
夜風に当たりたいのだと。
二人は薄手の上着を羽織って、マンションを出た。
夜の街は静かだった。
住宅街の道を、並んで歩く。
車もほとんど通らない。遠くで犬の鳴く声がした。
高校時代にはなかった距離感。
肩が触れそうで触れない、この近さ。
それだけで胸が痛くなる。
「ねえ」
歩きながら、澪がぽつりと言う。
「たまに思うんだ」
「何を?」
「もし、あの時」
また“もし”だ。
「文化祭の後、恒一が何も言ってくれなかったら、私たちどうなってたんだろうって」
足が止まりそうになる。
言葉が出ない。
だが彼女は続けた。
「たぶん普通に卒業して、たまに思い出すだけの人になってたんだろうなって」
それは、現実の自分そのものだった。
思い出すだけの人。
たまに過去の中で光るだけの存在。
届かなかったまま、美化されて残る関係。
澪は少し笑った。
「そう考えると、怖いよね」
「……怖い?」
「うん。だって今の私は、その人生を知らないから」
その言葉に、恒一は息を呑む。
今の私は、その人生を知らない。
当たり前だ。
この未来の彼女にとって、“告白されなかった世界”は存在しない。
でも、その逆もまた同じだった。
現実の自分にとっては、“告白して結婚した世界”が存在しない。
どちらも、自分の知らない人生だ。
「でもさ」
澪は前を向いたまま言う。
「知らない方が幸せなこともあるのかもね」
胸に鋭く刺さる。
まるでこの状況そのものを言い当てられたようだった。
知ってしまった。
自分は今、知らなくてもよかったかもしれない未来を知ってしまっている。
だが、同時にこうも思う。
知らなければ、一生“もしも”を美化し続けていた。
あの時告白していれば、すべてが満たされたと勘違いしたまま生きていた。
知らない幸福。
知ってしまった痛み。
どちらがましなのか、もう分からない。
公園の脇を通り過ぎた時、澪がふいに足を止めた。
「ちょっと座る?」
ベンチに二人で腰掛ける。
春の夜気はまだ少し冷たい。
街灯の明かりが、澪の横顔を淡く照らしていた。
「……恒一」
「うん」
「もしさ」
彼女は前を向いたまま、静かに言う。
「私がいなくなったら、どうする?」
全身の血が凍るようだった。
「なに、それ」
「変な意味じゃなくて」
でも、その声は妙に真剣だった。
「子どものこともあるし、年齢のこともあるし、この先どうなるか分かんないなって思った時に。
たまに、私が恒一をちゃんと幸せにできてるのかなって考える」
「……」
「もし私と結婚してなかったら、もっと楽な人生だったのかな、とか」
違う。
違うに決まっている。
そう叫びたかった。
けれど、その問いの重さが分かるからこそ、簡単に否定できない。
人は苦しい時、愛している相手に対してすら、自分が足枷ではないかと考えてしまうことがある。
そして、観測者の自分だけは知っている。
結婚しなかった人生が実際に存在したことを。
だからこそ、この問いはあまりにも残酷だった。
君のいない選択肢。
それは現実の自分がずっと生きてきた人生そのものだ。
そこに大きな幸福はなかった。
だが、この未来にも別の痛みがある。
どちらが正しいなんて言えない。
言えるわけがない。
「……楽かどうかは、知らない」
ようやく出た言葉は、かすれていた。
「でも」
澪がこちらを見る。
「澪のいない人生は、たぶんずっと“もしも”が残る」
言ってから、自分で驚いた。
それはこの未来の夫としての台詞ではなく、完全に観測者である自分の本音だった。
現実で彼女のいない人生を生きてきた自分は、確かにずっと“もしも”を抱えてきた。
それだけは嘘じゃない。
澪はじっとこちらを見つめ、やがて少しだけ目を潤ませた。
「……ずるい言い方」
「え?」
「そういうの、今言うんだ」
泣き笑いみたいな顔でそう言って、彼女は顔を背けた。
「ほんと、今日はずるい」
その声は震えていた。
恒一は何も言えなかった。
言葉が足りない。
でも、足りないなりに何かは届いてしまったのだと分かった。
視界の端に白い文字が浮かぶ。
『観測時間:残り 00:17:42』
終わりが近い。
急に、胸が締めつけられる。
嫌だ、と思った。
このまま終わりたくない。
もっと知りたい。
もっとここにいたい。
この夜の続きを見たい。
だが、それは叶わない願いだと分かっている。
観測者は介入できない。
ここは借り物の未来。
どれだけ願っても、自分のものにはならない。
「帰ろっか」
澪が立ち上がる。
「ああ」
ベンチから立ち上がったその時、恒一はほんの一瞬だけ、彼女の手に触れそうになった。
だが、伸ばしかけた指は途中で止まった。
触れてはいけない気がした。
触れたら、本当に戻れなくなる気がした。
澪はそんなことに気づかないまま、一歩先を歩き出す。
その背中を見ながら、恒一は思う。
この未来の“本物の自分”は、これからも彼女と生きていくのだろう。
苦しみも、迷いも、届かない思いも抱えたまま。
それでも、一緒に帰るのだ。
それがどれほど尊いかを、今の自分はようやく知った。
そして同時に、それを失っている自分自身も知ってしまった。
マンションの灯りが近づく。
残り時間は、もうわずかだ。
この未来が終わった時、何が残るのだろう。
救いか。
絶望か。
あるいは、もっと厄介な何かか。
分からない。
ただ一つ確かなのは、
君のいない選択肢を生きてきた自分は、もう以前のままではいられないということだった。




