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――深夜二時。
父はすでに寝てしまった。寝る前に祖父母に電話をかけていて、近いうちに二人がこの家に来るらしい。手続きや準備を、という話をしていたから、本格的にこちらへ住むのかも。電話での会話を聞く漢字、最初は母が向こうへ移り住む話もあったけれど、母が絶対に嫌だとごねて、祖父母がこちらへとくる形になったらしい。
そりゃあ、そうだよね。
母は絶対にこの家から出て行きたがらないと思う。
そして――母は、わたしの部屋の中で、ドアノブをひたすらに拭いていた。もうとっくに必要ないのに。
「違う……違うのよ……私じゃない……」
カリカリと左手の爪を噛み、右手でウェットシートで、ドアノブを拭いている。
「――分かってるよ、ママ。怖いんだよね? バレるのがさ」
わたしは母の隣にしゃがむ。目線が合う高さなのに、母はわたしに気が付かない。当然だ。わたしは死んで、幽霊で、霊感のない人には見えないんだから。
わたしの所持品を、全部管理したがったのも。高月くんがノートを持ちだしたら、逆に全て捨てたくなっちゃったのも。そして――ドアノブの指紋を消したいのも。
明るみに出たら、困るからだもんね?
「安心しなよ、ママ。わたしがずっと、そばにいてあげるから――」
「違う、違う――私じゃない、私は、ころ、こ、――、違うのッ」
ドアノブを拭いていた母が、パニックになったように服を脱ぎだし、袖を結ぶ。
――ドンッ! ドンッ!
わたしは思い切り壁を叩く。
母はそのまま、服をドアノブにかけるのをやめようとしない。音は耳に届いているはずなのに、目の前のことにだけ夢中になって、聞く気がないのかもしれない。
しかし、扉が叩かれたことで、父が起きてくれた。バタバタと物音がしたと思ったら、わたしの部屋に入ってくる。
「――ッ! おい、お前、何やってるんだ! 馬鹿なことを……、麻耶花だって、こんなこと、喜ばないぞ!?」
「そうだね」
父の言葉に賛同するわたしの声は、当然、父にも届かない。母は半狂乱になりながら、首を吊るのを止めようとする父から逃れようとする。
「死んだら、駄目だよ」
母には、生きて、生きて、生きて、生きてもらわないと。
――死んで楽になろうなんて、認めないから。
わたしはあの子とは違う。
絶対に許さない。
「せっかく高月くんに協力してもらって、この家から幽霊を消して、綺麗にしたんだから。あと五十年は生きて欲しいなぁ」
大丈夫、今後もちゃんと、幽霊が近寄らないように頑張るからね。呪い殺されたりしないようにさ。
ここで昔、虐待死事件を起こした、加害者も被害者も、もう存在しない。
いるのはわたしだけ。
今日からここは、『わたしの』、事故物件だ。




