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第8章 現場の先輩たち、教える楽しさを思い出す

〜昨日教えたこと、できるようになりました!〜


「……おい、山崎」


村上は、休憩室の入口から顔を出した。


山崎班長は、作業日報を確認しているところだった。


「何だ?」


「例の子、今日は来るのか?」


山崎は、顔を上げた。


「例の子?」


「……田中君だよ」


山崎の口元が、にやりと上がった。


「ほう」


「何だよ」


「いや、別に」


山崎は、わざとらしく日報へ目を戻した。


「ずいぶん気にしてるんだな」


村上は、少し顔をしかめた。


「前に教えたこと、覚えてるか気になっただけだ」


「そうか、そうか」


「……その顔やめろ」


山崎は、とうとう吹き出した。


「ははは! 今日の午後から来る予定だよ」


村上は、何でもないようにうなずいた。


「そうか」


そして、部屋を出ていこうとした。


「村上」


「何だ」


「午後の教育用作業台、お前が使うことになってるぞ」


村上の足が止まった。


「……そうなのか?」


「おう。前回の続きをお願いしたいって話だったからな」


村上は、しばらく黙っていた。


そして、小さくうなずいた。


「……分かった」


そのまま出ていった。


山崎は、閉じた扉を見つめた。


「……まったく」


笑いながら、つぶやいた。


「あいつも変わったなあ」


*


午後。


田中健治は、久しぶりに工場を訪れていた。


通信制高校の学習予定と、会社側の受け入れ日程を調整した短期間の職場体験。


今回も、保護者と学校の確認を経て実施されている。


田中は、指定された更衣場所で身支度を整え、安全教育の確認を受けた。


そして、教育用作業台の前へ向かった。


そこには、村上が立っていた。


「村上さん!」


「……おう」


田中は、深く頭を下げた。


「今日もよろしくお願いします!」


村上は、うなずいた。


「前にやったこと、覚えてるか?」


「はい!」


田中は、うれしそうに答えた。


「忘れないように、ノートを見直してきました!」


村上は、少し眉を上げた。


「……ノート?」


「はい!」


田中は、バッグからいつものノートを取り出した。


『工場で聞いてみたいこと』


あのノートだった。


もっとも。


最近では、表紙の名前と中身が少々合わなくなっていた。


最初は、質問ばかり書かれていた。


ところが今では、教わったことや、分かったこと、間違えたことまで書かれている。


村上は、ページをめくった。


『部品を確認してから並べる』


『順番を間違えない』


『最後に見本と比べる』


『間違えたら、どこで違ったか確認する』


そして。


『最初から速くしようとしない』


村上は、手を止めた。


「……これ、俺が言ったやつか?」


「はい!」


「よく覚えてるな」


田中は、少し照れたように笑った。


「忘れちゃうと、もったいないので」


村上は、しばらくその顔を見つめた。


そして、ノートを返した。


「……よし。じゃあ、やってみるか」


「はい!」


*


作業台には、前回と同じ練習用部品が用意されていた。


村上は、あえて細かい説明をしなかった。


「まず、前回の手順を思い出してやってみろ」


「はい」


田中は、手順書を確認した。


部品を選ぶ。


順番に並べる。


最後に見本と照らし合わせる。


最初は、少し慎重だった。


だが、途中で手が止まることはなかった。


一つ目。


二つ目。


三つ目。


そして、確認。


「……できました」


村上が、並べられた部品を見た。


「……ああ」


一つずつ確認する。


間違いはなかった。


「できてる」


田中の顔が、ぱっと明るくなった。


「本当ですか!」


「ああ」


「やった!」


田中は、思わず小さく拳を握った。


村上は、少し笑った。


「……ずいぶんうれしそうだな」


「はい!」


「そんなに難しい作業じゃないぞ」


田中は、少し考えた。


そして、答えた。


「でも、前は間違えたんです」


「……ああ」


「だから、今度はちゃんとできて、うれしいです!」


村上は、黙った。


確かに。


前回は、一つ取り違えた。


本人が気づき、手順書を見直して、やり直した。


今日は、最初から間違えずにできた。


たったそれだけのこと。


けれども。


田中にとっては、大きな一歩だったらしい。


村上は、ゆっくりうなずいた。


「……そうか」


少し考えてから、続けた。


「じゃあ、次はもう少し難しくしてみるか」


田中の目が輝いた。


「いいんですか!」


「……教育用の練習だけどな」


「はい!」


村上は、少し笑った。


その顔は、前回よりもずっと柔らかかった。


*


次の課題では、似た形の部品が増えた。


一見すると、ほとんど同じ。


しかし、よく見ると、穴の位置が少し違う。


村上は、部品を二つ並べた。


「これ、違いが分かるか?」


田中は、顔を近づけた。


「……同じに見えます」


「よく見てみろ」


田中は、しばらく観察した。


そして。


「あっ」


「分かったか?」


「ここの穴、少し位置が違いますね」


村上は、うなずいた。


「そうだ」


「なるほど……」


田中は、二つの部品を見比べた。


「これ、間違えそうですね」


「間違えるんだよ」


村上は、あっさり答えた。


「だから、確認する方法を決めてる」


田中は、顔を上げた。


「確認する方法?」


「ああ。人間の目だけじゃ、見落とすこともあるからな」


村上は、教育用の簡単な確認具を見せた。


決められた部品だけが、正しい位置に収まる仕組みだった。


田中は、じっと見つめた。


「……へえ」


村上は、使い方を説明した。


田中は、最後まで聞いていた。


そして、説明が終わってから尋ねた。


「村上さん」


「何だ?」


「これなら、間違えても気づけるんですね」


「ああ」


「じゃあ、最初から間違えないように頑張るだけじゃなくて、間違いを見つける方法もあるんですね」


村上は、少しだけ目を細めた。


「……そういうことだ」


田中は、うれしそうに笑った。


「面白いですね!」


村上は、思わず笑った。


「ははっ。そうか?」


「はい!」


それから、田中は確認具を使い、決められた手順で練習を始めた。


何度か間違えた。


そのたびに確認し、原因を確かめ、もう一度試した。


そして。


最後には、すべて正しく並べられるようになった。


「できました!」


田中は、満面の笑みだった。


村上は、静かにうなずいた。


「……よし」


少し間を置いて、付け加えた。


「よくやったな」


田中は、驚いたように顔を上げた。


そして、深く頭を下げた。


「ありがとうございます!」


村上は、少し照れたように顔をそらした。


「……礼を言うほどのことじゃない」


だが。


その口元は、確かに笑っていた。


*


休憩時間。


山崎班長が、村上に声をかけた。


「どうだ?」


村上は、缶コーヒーを一口飲んだ。


「……覚えてたよ」


「ほう」


「前回の手順、ちゃんと覚えてた」


山崎は、にやりと笑った。


「よかったじゃないか」


「……ああ」


村上は、少し考えた。


「それに、今日の新しい課題も、最後にはできるようになった」


「そうか」


「間違えたときも、隠さず言うんだよ」


山崎は、うなずいた。


「そういう子だな」


村上は、缶コーヒーを見つめた。


そして、ぽつりと言った。


「……教えたことを覚えてくれてると、うれしいもんだな」


山崎は、しばらく村上を見ていた。


現場一筋、三十年以上。


若い社員たちから少し怖がられている、無口なベテラン。


そんな村上が、今は自分から田中の話をしている。


「……村上」


「何だ」


「お前、最近ちょっと楽しそうだな」


村上は、顔をしかめた。


「……そうか?」


「ああ」


「別に、普通だよ」


山崎は、笑った。


「そうか、そうか」


村上は、少し不機嫌そうな顔をした。


しかし。


その日の午後も、田中へ新しい課題を教える時間になると、誰よりも早く教育用作業台へ向かっていった。


*


職場体験が終わる頃。


田中は、ノートに今日の内容をまとめていた。


村上が、横からのぞき込む。


「何を書いてるんだ?」


「今日、分かったことです」


「……ほう」


田中は、ページを見せた。


『見た目が似ている部品もある』


『間違えないように確認する』


『確認するための道具もある』


『間違えたときは、原因を見つける』


村上は、うなずいた。


「……そうだな」


田中は、少し考えた。


そして、最後に一行を書き加えた。


『人間は間違えることがある。だから、間違いを見つける仕組みが大事』


村上の手が止まった。


「……田中君」


「はい?」


「それ、今日の話から考えたのか?」


「はい」


村上は、少し黙った。


そして、静かに笑った。


「……そうか」


田中は、うれしそうにノートを閉じた。


「今日もありがとうございました!」


村上は、うなずいた。


「おう。またな」


「はい!」


田中は、深く頭を下げた。


その背中を見送りながら、村上は小さくつぶやいた。


「……次は、何を教えてやるかな」


すぐ横にいた山崎班長が、聞き逃すはずもなかった。


「お?」


村上が振り返る。


「……何だよ」


山崎は、にやりと笑った。


「いやあ、何でもない」


「……その顔やめろ」


山崎班長は、とうとう声を立てて笑った。


*


その日の帰り道。


田中は、林の隣を歩いていた。


「林さん!」


「何だ?」


「村上さん、今日もすごく丁寧に教えてくれました!」


「ああ。聞いたよ」


「最初は怖そうな人だと思ったんですけど」


「……まあな」


「でも、優しい人ですね!」


林は、少し笑った。


「そうだな」


田中は、ノートを大事そうに抱えた。


「次は、もっと上手にできるようになりたいです」


林は、うなずいた。


「……そうか」


そして、ふと思った。


健治は、自分が村上さんを変えつつあることに、まったく気づいていない。


ただ、教えてもらえてうれしい。


できるようになって楽しい。


それだけなのだ。


林は、小さく笑った。


「……まったく、お前ってやつは」


田中は、首をかしげた。


「何ですか?」


「何でもねえよ」


春の夕暮れ。


二人は、並んで歩いていった。


その頃。


工場では、村上が教育用の部品を片づけながら、次の課題を考えていた。


現場で長く働いてきた一人の熟練作業者が、誰かに教えることを楽しみにしていた。


それは、ほんの小さな変化だった。


だが。


その変化は、少しずつ、周囲の人たちへも広がり始めていた。


――第8章・完

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