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第2部|現場が育てた、ちょっと変わった青年 〜教える楽しさと、教わる楽しさがつながる〜 第7章 田中君、教えてもらうのが楽しくて仕方ない

〜聞いて、まねして、もう一度聞く〜


「……また来たのか?」


山崎班長は、目を丸くした。


目の前には、見覚えのある少年が立っていた。


田中健治。


あの工場見学から、しばらく経った春。


中学校を卒業した田中は、通信制高校での学習を始めていた。


そして今日。


学校、保護者、会社の間で受け入れ条件を確認した短期間の職場体験に参加することになったのである。


もちろん、希望したからといって簡単に決まったわけではなかった。


会社側の安全確認。


学校との予定調整。


保護者の同意。


体験内容の検討。


見学したときよりも、決めなければならないことは多かった。


それでも、田中は諦めなかった。


必要なことを一つずつ確認し、できることから準備した。


そして、ようやく今日を迎えたのだった。


「山崎さん!」


田中は、うれしそうに頭を下げた。


「またよろしくお願いします!」


山崎班長は、しばらく田中を見つめた。


そして、声を立てて笑った。


「ははは! 本当に来たんだな!」


「はい!」


「林から聞いてたけど、まさかこんなに早く来るとはなあ」


田中は、少し照れたように笑った。


「楽しみだったので!」


山崎班長は、横に立つ林を見た。


「おい、林」


「はい?」


「お前、また連れてきたのか」


林は、苦笑した。


「……いろいろありまして」


「そうだろうなあ」


山崎班長は、また笑った。


田中は、二人の会話を聞きながら、にこにこしていた。


どうやら。


今日も楽しい一日になりそうだった。


*


最初に行われたのは、安全教育だった。


工場では、何より安全が優先される。


危険な設備には近づかない。


許可されていない作業はしない。


分からないことがあれば、必ず指導担当者へ確認する。


保護具は決められた方法で着用する。


そして、異常を感じたら無理をせず、すぐに報告する。


山崎班長は、田中の顔を見ながら説明した。


「田中君」


「はい」


「今日は職場体験だから、できることは限られてる」


「はい」


「見学が中心で、実際に体験するのも安全な範囲だけだ」


「分かりました」


「勝手に作業を始めたり、機械に触ったりするのは絶対に駄目だぞ」


「はい!」


田中は、真剣な顔でうなずいた。


そして、少し考えてから尋ねた。


「山崎さん」


「何だ?」


「もし、やってみたい作業があったら、先に相談すればいいんですね?」


山崎班長は、うなずいた。


「ああ。相談するのは構わん。ただし、できるかどうかはこっちで判断する」


「分かりました!」


「……よし」


山崎班長は、少し笑った。


この少年は、危険なことをしてまで何かを試そうとするタイプではなさそうだ。


むしろ。


決まりの理由を理解しようとしている。


教える側としては、ありがたい姿勢だった。


*


最初に体験することになったのは、部品を扱う簡単な模擬作業だった。


実際の製造ラインとは切り離された教育用の作業台。


危険な機械はない。


使用するのも、専用に用意された練習用の部品だった。


指導を担当するのは、ベテラン作業者の村上。


五十代半ば。


現場一筋、三十年以上。


無口で、少々怖そうな顔をしている。


若い社員たちの間では、少し緊張する相手として知られていた。


もっとも。


本人は、別に怒っているわけではない。


単に、そういう顔なのである。


「……君が田中君か」


「はい! 田中健治です!」


「……そうか」


村上は、田中の顔を見た。


そして、作業台を指さした。


「今日は、これをやってもらう」


「はい」


そこには、いくつかの練習用部品が並んでいた。


決められた順番で部品を選び、正しい位置へ置く。


最後に、見本と一致しているか確認する。


実際の製品を作るわけではない。


だが、仕事の基本となる「手順を守る」「間違いを確認する」という考え方を学ぶには、十分な内容だった。


村上は、説明を始めた。


「まず、部品の種類を確認する」


「はい」


「次に、手順書を見る」


「はい」


「そして、決められた順番で並べる」


田中は、真剣に聞いていた。


村上は、実際に一度やって見せた。


ゆっくりと、間違いなく。


最後に、見本と照らし合わせる。


「……こうだ」


「なるほど」


田中は、うなずいた。


村上は、手を止めた。


「分かったか?」


「はい。だいたい分かりました」


「……だいたい?」


田中は、少し考えた。


「一つだけ、聞いてもいいですか?」


村上は、眉を上げた。


「何だ」


「部品を置く順番って、どうして決まってるんですか?」


村上は、しばらく黙った。


そして、作業台を見た。


「……間違えないためだ」


「なるほど……」


「順番が決まっていれば、確認しやすい。途中で何をしたかも分かる」


「そうなんですね」


「それに、慣れてきても勝手に変えちゃいかん」


「はい」


「もっと良い方法があると思ったら、まず相談するんだ」


田中は、うなずいた。


「分かりました!」


村上は、少しだけ目を細めた。


「……よし。じゃあ、やってみろ」


*


田中は、作業台の前に立った。


手順書を見る。


部品を確認する。


一つ目。


二つ目。


三つ目。


慎重に、順番どおりに並べていく。


最後に、見本と照らし合わせた。


「……あれ?」


一つ、違っていた。


田中は、首をかしげた。


村上が、横から見ていた。


「どうした?」


「ここ、違いますね」


「そうだな」


「……間違えました」


田中は、素直に答えた。


村上は、うなずいた。


「じゃあ、どうする?」


田中は、少し考えた。


「もう一度、手順書を見てもいいですか?」


「……ああ」


田中は、手順書を見直した。


最初から確認する。


一つ目。


二つ目。


三つ目。


「……あっ」


村上が尋ねた。


「分かったか?」


「はい。二つ目の部品を取り違えました」


「そうだな」


「似てるから、ちゃんと確認しないと駄目ですね」


村上は、ゆっくりうなずいた。


「……そういうことだ」


田中は、もう一度最初から作業をやり直した。


今度は、部品の種類を確認してから並べる。


一つ目。


二つ目。


三つ目。


最後に、見本と照らし合わせた。


「……できました!」


田中の顔が、一気に明るくなった。


村上は、静かにうなずいた。


「……ああ。できてる」


「ありがとうございます!」


田中は、うれしそうに笑った。


村上は、少しだけ口元を緩めた。


その様子を、少し離れた場所で山崎班長が見ていた。


「……ほう」


隣の林が、顔を上げた。


「何ですか?」


「村上さんが笑ってるぞ」


林は、作業台の方を見た。


確かに。


いつも厳しい顔をしている村上が、少し笑っていた。


「……珍しいですね」


山崎班長は、笑った。


「ははは。そうだな」


*


しばらくして、村上は田中へ言った。


「田中君」


「はい」


「今度は、少し時間を意識してやってみよう」


田中は、うなずいた。


「はい!」


「ただし、急ぐな」


「……急がないんですか?」


村上は、少し笑った。


「急いで間違えたら意味がないだろ」


「なるほど」


「まずは正しくできること。その上で、少しずつ無駄な動きを減らすんだ」


田中は、真剣な顔でうなずいた。


「分かりました」


もう一度、作業を始める。


部品を確認する。


手順書を見る。


並べる。


最後に、見本と照らし合わせる。


先ほどより、少しだけ動きが滑らかになった。


田中は、うれしそうに顔を上げた。


「村上さん!」


「何だ?」


「さっきより、少し早くできました!」


村上は、うなずいた。


「そうだな」


「しかも、間違えませんでした!」


「……そうか」


村上は、少し笑った。


「よかったな」


「はい!」


田中は、満面の笑みだった。


村上は、その顔を見つめた。


そして、ふと昔のことを思い出した。


自分も、最初はこんなものだった。


何もできない。


何も分からない。


先輩に教わって、何度も失敗した。


それでも、一つできるようになると、うれしかった。


次の日には、また新しいことを覚えたくなった。


そんな時代が、確かにあった。


村上は、少しだけ遠い目をした。


「……田中君」


「はい?」


「仕事ってのはな」


「はい」


「一回できたからって、それで終わりじゃないんだ」


田中は、うなずいた。


「はい」


「次も、同じようにできなきゃならん」


「……なるほど」


「だから、手順を覚えるんだ」


田中は、しばらく考えた。


そして、ゆっくりうなずいた。


「……分かりました」


村上は、続けた。


「今日できたことが、明日もできるようになる。それが大事なんだ」


田中は、少し笑った。


「じゃあ、また練習したいです!」


村上は、目を瞬いた。


「……また?」


「はい!」


田中は、うれしそうに答えた。


「次は、もっと上手にできるようになりたいです!」


村上は、しばらく黙った。


そして。


「……ははっ」


小さく笑った。


「そうか」


田中は、首をかしげた。


「……何か変なこと言いました?」


「いや」


村上は、笑った。


「何でもない」


そして、作業台へ目を向けた。


「……じゃあ、もう一回やってみるか」


「はい!」


田中は、元気よく答えた。


*


休憩時間。


村上は、缶コーヒーを片手に山崎班長のところへやって来た。


「山崎」


「おう。どうだった?」


「……あの子、面白いな」


山崎班長は、にやりと笑った。


「だろ?」


村上は、少し考えた。


「最初は、質問ばっかりする子かと思ったんだが」


「ああ」


「ちゃんと話を聞くんだよ」


山崎班長は、うなずいた。


「そうだろ」


「教えた通りにやってみるし、間違えたら自分から言う」


「ほう」


「それに……」


村上は、少し笑った。


「できるようになると、あんなに喜ぶんだな」


山崎班長は、声を立てて笑った。


「ははは! そうなんだよ!」


村上は、缶コーヒーを一口飲んだ。


そして、ぽつりと言った。


「……教えがいがあるな」


山崎班長は、ゆっくりうなずいた。


「そうだろうな」


少し離れたところで、林がその会話を聞いていた。


そして。


(……ああ、まずい)


と思った。


非常に、まずい。


工場見学のときは、山崎班長だった。


今度は、村上さんまで。


健治のことを面白がり始めている。


このままでは。


(……先生が増えていくぞ)


林は、静かに空を見上げた。


もっとも。


その予感は、すでに現実になり始めていた。


*


体験の終了時間が近づいた頃。


田中は、村上のところへやって来た。


「村上さん!」


「おう。何だ?」


「今日は、ありがとうございました!」


田中は、深く頭を下げた。


「いろいろ教えていただいて、すごく勉強になりました!」


村上は、少し照れたように顔をそらした。


「……そうか」


「はい!」


田中は、少し考えた。


そして、続けた。


「最初、部品を間違えたじゃないですか」


「ああ」


「でも、もう一度確認したら、ちゃんとできました」


「そうだな」


「僕、最初から間違えないようにしなきゃって思ってたんですけど」


田中は、少し笑った。


「間違えたときに、ちゃんと原因を見つけることも大事なんですね」


村上は、しばらく田中を見つめた。


そして、静かにうなずいた。


「……そうだ」


田中は、うれしそうに笑った。


「ありがとうございました!」


村上は、少し考えた。


そして、口を開いた。


「田中君」


「はい?」


「次に来るときは、今日の手順を覚えてるか確認してみようか」


田中の目が輝いた。


「いいんですか!?」


「……まあ、また受け入れが決まればな」


「はい!」


田中は、満面の笑みだった。


「頑張って覚えておきます!」


村上は、笑った。


「おう」


その様子を見ながら。


山崎班長は、林の肩を軽く叩いた。


「林」


「はい?」


「いい子じゃないか」


林は、苦笑した。


「……そうなんですよ」


「お前、昔から面倒見てるんだろ?」


「はい」


「大変だったろうなあ」


林は、少し遠い目をした。


「……まあ、いろいろと」


山崎班長は、声を立てて笑った。


「ははは!」


林も、つられて笑った。


*


帰り道。


田中は、林の隣を歩いていた。


「林さん!」


「何だ?」


「今日も面白かったです!」


「そうか」


「村上さん、すごく丁寧に教えてくれましたね!」


「ああ」


「最初は怖そうな人かと思ったんですけど」


「……まあ、顔はちょっと怖いからな」


「でも、優しい人でした!」


林は、思わず笑った。


「そうだな」


田中は、少し考えた。


「林さん」


「何だ?」


「僕、今日、間違えたんです」


「ああ。聞いたよ」


「最初はちょっと恥ずかしかったんですけど」


「うん」


「でも、村上さんに教えてもらって、できるようになりました」


林は、うなずいた。


「そうか」


「次は、もっと上手にできるようになりたいです」


林は、少し笑った。


「……そうだな」


田中は、空を見上げた。


春の夕暮れ。


まだ少し冷たい風が吹いていた。


それでも、冬とは違う匂いがした。


新しい季節。


新しい学校。


そして、新しい学びの場所。


田中は、うれしそうに笑った。


「楽しみだなあ」


林は、その横顔を見た。


そして、心の中でつぶやいた。


(……本当に、楽しそうだな)


自分も仕事を始めた頃は、こうだったのだろうか。


分からないことだらけ。


覚えることだらけ。


失敗もする。


注意されることもある。


それでも、一つできるようになると、うれしかった。


そんな気持ちを、いつの間にか忘れかけていた気がした。


林は、少しだけ笑った。


「……健治」


「はい?」


「お前、今日教わったこと、忘れるなよ」


「はい!」


「次に会ったとき、村上さんにちゃんと報告しろよ」


田中は、うなずいた。


「もちろんです!」


そして、にっこり笑った。


「だって、教えてもらったんですから!」


林は、しばらく黙った。


それから、小さく笑った。


「……そうだな」


二人は、並んで歩き続けた。


*


その頃。


工場の休憩室では、村上が山崎班長に話しかけていた。


「なあ、山崎」


「何だ?」


「あの田中君、次はいつ来るんだ?」


山崎班長は、目を丸くした。


「……おい」


「何だよ」


「お前、自分から教えたいって言うのか?」


村上は、少し顔をしかめた。


「……別に、そういうわけじゃない」


山崎班長は、にやりと笑った。


「へえ?」


「ただ、今日教えたことを覚えてるか気になってな」


「ほう」


「それだけだ」


山崎班長は、しばらく村上を見つめた。


そして。


「はははは!」


盛大に笑った。


村上は、少し不機嫌そうな顔をした。


「……何がおかしい」


山崎班長は、笑いながら答えた。


「いやあ、まさかお前の方から次の予定を聞くとはな!」


「……うるさい」


村上は、缶コーヒーを一口飲んだ。


そして、ぼそりとつぶやいた。


「……教えたことを覚えてくれてると、うれしいもんだな」


山崎班長は、その言葉を聞いた。


そして、ゆっくりうなずいた。


「ああ」


二人は、しばらく黙っていた。


工場の向こうから、機械の音が聞こえていた。


今日も、いつもと変わらない一日が過ぎていく。


ただ一つ。


少しだけ違うことがあった。


現場で長く働いてきた一人の熟練作業者が、明日も誰かに仕事を教えたくなっていた。


そのきっかけを作ったのは。


まだ何も知らない、15歳の少年だった。


田中健治。


本人は、今日もただ楽しかったと思っている。


それだけだった。


――第7章・完

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