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第6章 田中君、初めての工場見学

〜機械より面白かったのは、働いている人たちだった〜


工場見学が決まった。


その知らせを聞いたとき、田中健治は、しばらく何も言わなかった。


そして。


「……本当ですか?」


林修一は、電話の向こうで答えた。


「ああ。本当だよ」


「本当に、工場に入れるんですか?」


「だから、そう言ってるだろ」


「やったあ!」


林は、思わず電話を耳から離した。


「……うるせえ!」


「ありがとうございます!」


「まだ何もしてねえよ!」


「でも、林さんが相談してくれたからですよね?」


林は、少し黙った。


「……まあ、そうだけどな」


「本当にありがとうございます!」


その声は、いつになく弾んでいた。


林は、思わず笑ってしまった。


何だかんだ言っても、こういうところが憎めない。


「ただし、健治」


「はい!」


「今回は見学だからな」


「はい」


「仕事をさせてもらえるわけじゃないぞ」


「分かってます」


「危ない場所もあるし、勝手に機械へ近づくなよ」


「はい」


「それと、案内してくれる人の話をちゃんと聞くこと」


田中は、少し不思議そうに答えた。


「もちろんです!」


林は、少し安心した。


そして、もう一つ付け加えた。


「質問も、ほどほどにな」


「……ほどほど?」


「ああ」


「何個くらいですか?」


「数の問題じゃねえよ!」


電話の向こうで、田中が笑った。


林は、深いため息をついた。


どうやら。


工場見学の日は、かなりにぎやかになりそうだった。


*


見学当日。


冬の朝。


工場の正門前には、一人の少年が立っていた。


田中健治、15歳。


いつもより少しきちんとした服装。


手には小さなバッグ。


中には、筆記用具とノートが入っている。


もちろん。


あのノートだった。


『工場で聞いてみたいこと』


表紙の文字は、何度も開いたせいか、少し擦れていた。


田中は、正門の向こうを見つめた。


大きな建物。


出入りするトラック。


整然と並んだ駐車場。


そして、次々と門を通っていく人たち。


「……すごいなあ」


まだ工場の中へ入ってもいない。


それなのに、すでに目が輝いていた。


「おーい、健治!」


聞き慣れた声がした。


林だった。


「おはようございます!」


「おう。早いな」


「楽しみだったので!」


「……そうだろうな」


林は、健治の手元を見た。


「そのノート、持ってきたのか?」


「はい!」


「……何ページ増えた?」


「昨日、少しだけ」


「その『少しだけ』が信用できねえんだよなあ」


田中は、きょとんとした。


「でも、今日は全部聞きませんよ」


「お?」


林は、少し驚いた。


「どうした?」


「佐藤さんに、まず働いている人の話をよく聞くように言われましたから」


「……そうか」


「それで、分からなかったところを聞こうと思って」


林は、ゆっくりうなずいた。


なるほど。


ちゃんと覚えているらしい。


「それならいい」


「はい!」


田中は、うれしそうに笑った。


林は、その顔を見て、少しだけ胸をなで下ろした。


もっとも。


このときの林は、まだ知らなかった。


健治が質問を控えるということと、質問がなくなるということは、まったく別の話なのだということを。


*


工場見学の受け入れは、学校、保護者、会社の間で事前に調整されていた。


見学する場所も決まっている。


危険な作業区域には入らない。


設備には触れない。


案内担当者の指示に従う。


写真撮影も、許可された場所だけ。


工場の仕事を知るための見学であって、作業体験ではない。


その説明を聞き終えると、田中は深くうなずいた。


「分かりました」


案内を担当するのは、製造部の班長だった。


名前は山崎。


四十代半ば。


現場経験の長い、少々日に焼けた顔の男性だった。


作業着の胸元には、使い込まれた名札がついている。


「君が田中君か」


「はい! 田中健治です!」


「白木部長から話は聞いてるよ」


「よろしくお願いします!」


「おう。よろしくな」


山崎班長は、田中の顔を見た。


そして、少し笑った。


「工場を見るのは初めてか?」


「はい!」


「そうか。じゃあ、今日はいっぱい見るといい」


田中の顔が明るくなった。


「ありがとうございます!」


「ただし、機械には触るなよ」


「はい!」


「勝手に歩き回るのも駄目だ」


「はい!」


「分からないことがあったら、説明が終わってから聞いてくれ」


「はい!」


山崎班長は、少し笑った。


返事のいい子だ。


それに、どうやら話もちゃんと聞くらしい。


「よし。じゃあ、行こうか」


工場の扉が開いた。


*


ゴォォォ……。


低い音が響いていた。


空気の匂いが、外とは違った。


金属。


機械油。


そして、何かが動いている独特の気配。


田中は、一歩足を踏み入れたところで立ち止まった。


「…………」


目の前には、大きな設備が並んでいた。


人が歩く通路。


部品を運ぶ台車。


工程ごとに設けられた作業場所。


機械の表示灯が、規則正しく点滅している。


作業者たちは、それぞれの持ち場で仕事をしていた。


「……すごい」


田中が、小さくつぶやいた。


山崎班長が振り返った。


「どうした?」


「いえ……」


田中は、目の前の景色を見渡した。


「本当に、いっぱい動いてるんですね」


山崎班長は、笑った。


「そりゃ工場だからな」


「はい!」


林は、その横で苦笑した。


(……まだ何も説明してねえぞ)


*


最初に案内されたのは、部品を加工する工程だった。


山崎班長が、通路から見える範囲で説明する。


「ここでは、材料を機械で加工してるんだ」


「はい」


「加工が終わったら、決められた場所へ出てくる」


田中は、機械の動きを見つめた。


材料が入る。


扉が閉まる。


機械が動く。


しばらくすると、加工された部品が出てくる。


「……なるほど」


田中は、静かにうなずいた。


山崎班長は、続けた。


「ただし、機械が動いているからといって、何でも自動でうまくいくわけじゃない」


「はい」


「材料の状態も確認するし、加工された部品が正しい寸法になってるかも確かめる」


「……そうなんですね」


「だから、人の仕事がなくなるわけじゃないんだ」


田中は、しばらく考えた。


そして、説明が終わってから尋ねた。


「山崎さん」


「何だ?」


「あの機械って、動かす前に何か確認するんですか?」


山崎班長は、少し驚いた。


「おう。もちろんだ」


「そうなんですね」


「設備によって違うが、決められた点検項目がある。異常がないか確認してから使うんだ」


田中は、うなずいた。


「じゃあ、機械を動かす前から仕事が始まってるんですね」


山崎班長は、田中を見た。


そして、少し笑った。


「……そういうことだ」


林は、横でそのやり取りを聞いていた。


健治は、機械がどう動くかだけを聞いているわけではない。


それを使う人が、何をしているのか。


そちらにも興味があるらしい。


*


次に案内されたのは、組み立て工程だった。


作業者が、いくつもの部品を順番に組み付けている。


田中は、その動きを見つめた。


速い。


迷いがない。


部品を取り、位置を合わせ、取り付ける。


その一連の動きが、あまりにも自然だった。


「……すごいですね」


山崎班長が笑った。


「何がだ?」


「あの人、全然迷わないですね」


「ああ。長くやってるからな」


「最初から、あんなに速かったんですか?」


「まさか」


山崎班長は、少し笑った。


「最初は時間がかかったさ」


「そうなんですね」


「何度も練習して、手順を覚えて、少しずつできるようになったんだ」


田中は、作業者の手元をもう一度見た。


「……なるほど」


そして、しばらく黙った。


山崎班長は、その横顔を見ていた。


何か考えているらしい。


「田中君」


「はい?」


「何か気になるか?」


田中は、少し迷ってから口を開いた。


「あの……」


「おう」


「手が、あまり止まらないんですね」


「そうだな」


「部品の場所とか、全部覚えてるんですか?」


山崎班長は、笑った。


「覚えてる部分もあるが、それだけじゃないぞ」


「……そうなんですか?」


「ああ。使う順番に部品を置いたり、取りやすい場所を決めたりしてるんだ」


田中は、目を瞬いた。


「……置き場所も考えてるんですか?」


「もちろん」


「へえ!」


田中は、部品の置かれた棚を見た。


確かに。


作業者が手を伸ばす場所には、必要な部品が並んでいる。


無理に体をひねらなくても届く位置だった。


「……なるほど」


田中は、小さくうなずいた。


「速くできるように、周りも工夫してるんですね」


山崎班長は、少しだけ感心した。


「そうだ」


田中は、うれしそうに笑った。


「面白いですね!」


山崎班長も笑った。


「ははは! そうか?」


「はい!」


林は、二人を見ていた。


(……あれ?)


何だか。


山崎班長まで楽しそうになっている気がする。


*


見学は、順調に進んだ。


加工工程。


組み立て工程。


検査工程。


それぞれの場所で、田中は説明を聞いた。


機械が動く。


人が確認する。


部品が次の工程へ運ばれる。


検査をする。


異常があれば、決められた方法で対応する。


最初は、機械を見るだけで興奮していた。


しかし、時間が経つにつれて、田中の視線は少しずつ変わっていった。


機械だけではない。


そこで働いている人たちを見るようになった。


作業をしている人。


部品を補充している人。


設備の状態を確認している人。


記録をつけている人。


そして、誰かに何かを教えている人。


(……みんな、違う仕事をしてるんだなあ)


田中は、静かに思った。


一つの製品を作るために、こんなに多くの人が関わっている。


しかも、一人ずつ仕事が違う。


けれども、ばらばらに動いているわけではない。


どこかで、つながっている。


白木部長が話していたことを思い出した。


『前の工程から何を受け取り、次の工程へ何を渡すのか』


田中は、ようやくその言葉の意味が少し分かった気がした。


*


「さて」


山崎班長が言った。


「そろそろ休憩にしようか」


「はい!」


三人は、工場内の休憩スペースへ移動した。


田中は、椅子に座ると、ノートを取り出した。


今日見たことを忘れないうちに書いておきたい。


そう思ったのである。


林が横からのぞき込んだ。


「……おい」


「はい?」


「何を書いてるんだ?」


「今日、教えてもらったことです」


「……もうそんなに書いたのか?」


「はい!」


ノートには、小さな文字が並んでいた。


『機械を動かす前に点検する』


『部品の置き場所にも理由がある』


『仕事は工程ごとにつながっている』


『作業が速い人は、手順を覚えている』


『分からないことは、確認する』


林は、少し驚いた。


「……よく覚えてるな」


「はい。忘れちゃうともったいないので」


田中は、当たり前のように答えた。


山崎班長は、横からそのノートを見た。


「へえ。ちゃんとメモしてるんだな」


「はい!」


「……ちょっと見せてもらっていいか?」


「どうぞ!」


山崎班長は、ノートを受け取った。


そして、ゆっくりページをめくった。


「……なるほど」


ところどころ、言葉が足りない。


専門用語も、まだ正確ではない。


けれども。


教えたことの要点は、きちんと残っていた。


しかも、ただ書き写しただけではない。


自分なりに考えたことまで書いてある。


山崎班長は、少し笑った。


「田中君」


「はい?」


「この『仕事は工程ごとにつながっている』ってのは、どこで気づいたんだ?」


「白木部長が教えてくれたんです」


「部長が?」


「はい。でも、今日実際に見て、少し分かった気がしました」


山崎班長は、田中を見た。


そして、ゆっくりうなずいた。


「……そうか」


田中は、続けた。


「まだ分からないこともいっぱいありますけど」


「そりゃそうだろ」


山崎班長は笑った。


「今日初めて見たんだからな」


「はい!」


「でも、よく見てたな」


田中は、少し照れたように笑った。


「ありがとうございます!」


山崎班長は、ノートを返した。


そして、林へ顔を向けた。


「林」


「はい?」


「お前、面白い子を連れてきたな」


林は、苦笑した。


「……そうなんですよ」


山崎班長は、声を立てて笑った。


「ははは!」


田中は、二人の顔を交互に見た。


「……何が面白いんですか?」


林は、思わず吹き出した。


「お前だよ!」


「ええっ!?」


休憩スペースに、笑い声が響いた。


*


見学の終わり。


田中は、山崎班長に深く頭を下げた。


「今日は、本当にありがとうございました!」


「おう」


「知らないことがいっぱいあって、すごく面白かったです!」


山崎班長は、笑った。


「そうか。それならよかった」


「はい!」


「でもな、田中君」


「はい?」


「今日は、工場のほんの一部しか見てないんだぞ」


田中は、目を丸くした。


「……え?」


「ほかにも、いろんな仕事があるからな」


「…………」


田中は、しばらく黙った。


そして。


「……まだ、あるんですか?」


「そりゃあるさ」


「へえ……!」


田中の目が、再び輝いた。


その横で。


林は、ゆっくり山崎班長を見た。


(……班長)


(それ、言っちゃ駄目なやつです)


しかし、もう遅かった。


田中は、すでに次の世界へ興味を向け始めていた。


*


帰り道。


林は、田中に尋ねた。


「で、健治」


「はい?」


「工場、どうだった?」


田中は、少し考えた。


「……思ってたより、ずっと面白かったです」


「そうか」


「機械もすごかったですけど」


「ああ」


「働いてる人たちが、もっとすごかったです」


林は、少し驚いた。


「……人が?」


「はい」


田中は、うなずいた。


「みんな、何をするのか分かってて、迷わず動いてるじゃないですか」


「ああ」


「でも、最初からできたわけじゃないんですよね」


「そうだな」


「どうやって覚えたのか、もっと知りたいです」


林は、黙った。


田中は、続けた。


「それに、山崎さん、すごく楽しそうに教えてくれましたね」


「……そうだな」


「僕も、あんなふうに仕事を覚えられるようになりたいです」


林は、少し考えた。


そして、笑った。


「……そうか」


田中は、元気よくうなずいた。


「はい!」


冬の夕暮れ。


二人は、並んで歩いていた。


林の心には、少しだけ不思議な気持ちが残っていた。


工場を見せれば、働くことの大変さが伝わると思っていた。


機械の音や、複雑な工程。


厳しい安全ルール。


覚えなければならない仕事の多さ。


それらを見れば、少しは考え直すかもしれない。


そう思っていた。


ところが。


健治は、その大変さまで面白がっている。


林は、空を見上げた。


「……参ったなあ」


田中が振り返った。


「何がですか?」


「いや、何でもない」


林は、苦笑した。


どうやら。


この少年を工場へ連れてきたことは、思った以上に大きな出来事になりそうだった。


もっとも。


そのことを、白木技術部長はすでに少しだけ感じ取っていた。


そして、山崎班長も。


やがて、現場のほかの人たちも。


田中健治という、ちょっと変わった中学生の存在を知ることになる。


本人だけが。


まだ、何も気づいていなかった。


――第6章・完

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