第4章 佐藤さん、まず本人の話を聞こう
〜大人の結論より、少年の好奇心〜
「それで、本人は何をしたいんだい?」
佐藤巧は、静かに尋ねた。
林は、少し困った顔をした。
「……それが、よく分からないんです」
「分からない?」
「働いてみたいとは言うんですが、具体的にどんな仕事がしたいのかは、まだ決まってないらしくて」
佐藤は、うなずいた。
「なるほど」
昼休み。
会社の休憩室。
林は、佐藤に田中健治の話をしていた。
佐藤は27歳。
落ち着いた物腰で、仕事の進め方がうまい先輩社員だった。
普段から、林は佐藤にいろいろなことを教わっている。
仕事の段取り。
作業の確認。
問題が起きたときの考え方。
そして、何より。
困ったときに、何から手をつければよいのか。
佐藤は、そうしたことを整理するのが得意だった。
「林君」
「はい」
「まず、働くことに興味があるのと、実際に働き始めるのは、少し違う話だね」
「そうですよね」
「本人は、どちらを望んでいるのかな?」
林は、腕を組んだ。
「……工場の仕事を知りたい、という感じだと思います」
「それなら、まずは見学でもいいんじゃないかな」
「まゆみも、そう言ってました」
「そうか」
佐藤は、少し笑った。
「良い考えだと思うよ」
林は、ほっとした。
やはり。
見学から始めるのが現実的らしい。
しかし。
佐藤は、そこで話を終わらせなかった。
「ただし」
「はい?」
「本人の話を、一度ちゃんと聞いてみたいね」
林は、少し身構えた。
「……本人から、ですか?」
「ああ」
「……結構、話が長いですよ」
佐藤は、目を瞬いた。
「そうなのかい?」
「はい。興味を持ったことになると、次から次へと話が広がるんです」
佐藤は、少し考えた。
そして。
「それは、ますます楽しみだね」
林は、黙った。
「…………」
まただ。
また一人。
この少年の好奇心を面白がる大人が増えてしまった。
*
週末。
林は、田中を連れて佐藤と会うことになった。
場所は、駅前の喫茶店。
田中は、約束の時間より少し早く到着していた。
手には、一冊のノート。
表紙には、
『工場で聞いてみたいこと』
と書かれている。
林は、そのノートを見て嫌な予感がした。
「……健治」
「はい?」
「そのノート、何だ?」
「質問をまとめてきました!」
「……何ページあるんだ?」
「まだ少しだけです」
「少しだけ?」
林は、恐る恐るノートを開いた。
そして。
「…………」
ページをめくる。
さらに、めくる。
もう一度、めくる。
「……お前」
「はい?」
「これ、少しだけって言うのか?」
「まだ半分も書いてないですよ?」
林は、ノートを閉じた。
「……そういう問題じゃない」
田中は、きょとんとした。
そのとき。
「やあ、お待たせ」
佐藤がやって来た。
「佐藤さん!」
林は、ほっとしたように立ち上がった。
田中も、すぐに姿勢を正した。
「初めまして。田中健治です!」
佐藤は、穏やかに笑った。
「佐藤巧です。林君から話は聞いているよ」
「ありがとうございます!」
「今日は、よろしくね」
「はい!」
三人は席に着いた。
佐藤は、田中の前に置かれたノートへ目を向けた。
「それは?」
「工場で聞いてみたいことをまとめたノートです」
「へえ。見せてもらってもいいかな?」
「はい!」
田中は、ノートを差し出した。
佐藤は、ゆっくりページをめくった。
そこには、いくつもの質問が並んでいた。
『工場では何を作っているのか』
『仕事はどうやって覚えるのか』
『機械は誰が動かしているのか』
『失敗したときはどうするのか』
『作ったものが正しいかどうか、どうやって確かめるのか』
佐藤は、ページをめくる手を止めた。
「……なるほど」
林は、横から顔をのぞかせた。
「佐藤さん、どうですか?」
佐藤は、少し笑った。
「面白いね」
林は、天井を見上げた。
(……やっぱり)
*
佐藤は、ノートを閉じた。
そして、田中へ返した。
「田中君」
「はい」
「いろいろ知りたいことがあるんだね」
「はい!」
「じゃあ、まず一つ聞いてもいいかな?」
「はい」
「どうして、そんなに働くことが気になるんだい?」
田中は、少し考えた。
すぐには答えなかった。
佐藤は、急かさず待っていた。
林も、黙っていた。
しばらくして。
田中が口を開いた。
「……僕、毎日いろんなものを使ってるじゃないですか」
「うん」
「スマートフォンとか、自転車とか、食べ物とか」
「ああ」
「でも、それって誰かが作ってるんですよね」
「そうだね」
「作る人たちは、どうやって仕事を覚えるのかなって」
佐藤は、うなずいた。
「なるほど」
田中は続けた。
「学校なら、先生が教えてくれますよね」
「ああ」
「でも、工場でも誰かが教えてくれるんですか?」
「もちろん、教える人はいるよ」
「へえ!」
田中の顔が明るくなった。
佐藤は、その反応を見ながら話を続けた。
「ただし、仕事によって覚え方は違う。先輩について学ぶこともあれば、決められた手順書で確認することもある」
「なるほど……」
「それに、安全や品質に関わることは、特に慎重に覚える必要がある」
「はい」
「だから、最初から何でもできるようになるわけじゃないんだ」
田中は、ゆっくりうなずいた。
「……そうですよね」
そして、少し考えた。
「佐藤さん」
「何だい?」
「最初に仕事を教えてもらうときって、何から始まるんですか?」
佐藤は、少し笑った。
「いい質問だね」
林は、思わず顔を上げた。
「……佐藤さん?」
「何だい?」
「それ、答え始めると長くなりますよ」
佐藤は、穏やかに笑った。
「そうだね。でも、本人が興味を持っているんだから、少し話してみようか」
林は、深いため息をついた。
(……しまった)
この人も、教えるのが好きだった。
*
佐藤の説明は、実に分かりやすかった。
最初に安全について学ぶこと。
作業の目的を知ること。
手順を覚えること。
先輩の仕事を見て、できることから練習すること。
そして、うまくできたかどうかを確認すること。
田中は、途中で口を挟まずに聞いていた。
分からないところがあると、ノートに印をつける。
説明が終わると、顔を上げた。
「佐藤さん」
「何だい?」
「作業の手順って、どうして決まってるんですか?」
佐藤は、少し考えた。
「そうだね。人によってやり方が違うと、品質がばらついたり、危険なことが起きたりする場合があるからだよ」
「なるほど……」
「もちろん、もっと良いやり方が見つかることもある。ただし、その場合も勝手に変えるのではなく、安全や品質を確認してから変更するんだ」
田中は、真剣な顔でうなずいた。
「分かりました」
林は、その様子を見ていた。
いつもの健治だった。
興味を持っている。
よく聞いている。
そして、教わったことを自分なりに考えている。
佐藤も、それに気づいたらしい。
「田中君」
「はい」
「君は、教えてもらうのが好きなんだね」
田中は、少し驚いた。
「……そうなんですかね?」
「自分では分からない?」
「はい。でも、知らなかったことが分かるのは楽しいです」
佐藤は、静かに笑った。
「それは、とても良いことだと思うよ」
田中は、うれしそうに笑った。
「ありがとうございます!」
*
しばらくして。
佐藤は、話題を進路へ戻した。
「さて、田中君」
「はい」
「工場見学をするなら、まず学校と保護者の方に確認する必要があるね」
「はい。先生には相談しました」
「そうか。ご両親は?」
「話しました。勉強は続けるように言われています」
「なるほど」
佐藤は、うなずいた。
「それなら、次は会社側だね」
林が顔を上げた。
「佐藤さん、やっぱり技術部の方へ相談した方がいいでしょうか?」
「そうだね。工場の見学なら、技術部門の協力が必要になるだろう」
「……白木部長ですか」
佐藤は、少し考えた。
「まずは、正式な相談の進め方を確認しよう。いきなり部長に頼めばよいという話でもないからね」
「はい」
林は、うなずいた。
田中は、二人の会話を静かに聞いていた。
そして、少ししてから尋ねた。
「白木部長って、どんな人なんですか?」
林は、少し考えた。
「技術部長だよ」
「技術部長?」
「ああ。工場の設備や技術のことを、いろいろ知ってる人だ」
田中の目が輝いた。
「すごいですね!」
林は、嫌な予感がした。
「……おい」
「はい?」
「今、何を考えた?」
田中は、にっこり笑った。
「お話を聞いてみたいなって」
「やっぱり!」
佐藤は、声を立てずに笑った。
*
帰り際。
佐藤は、田中へ言った。
「田中君」
「はい」
「工場見学ができるかどうかは、まだ分からないよ」
「はい」
「でも、今日みたいに、自分が何を知りたいのか整理しておくことは大切だね」
「分かりました」
「それと、見学できることになったら、そこで働いている人たちの話をよく聞くといい」
「はい!」
「機械だけでなく、人を見ることも大切だからね」
田中は、しばらく考えた。
そして、ゆっくりうなずいた。
「……なるほど」
佐藤は、微笑んだ。
「きっと、面白い発見があると思うよ」
「ありがとうございます!」
田中は、深く頭を下げた。
林も頭を下げた。
「佐藤さん、今日はありがとうございました」
「いや、こちらこそ」
佐藤は、少し笑った。
「面白い話を聞かせてもらったよ」
林は、苦笑した。
(……また面白がってる)
*
帰り道。
林と田中は、並んで歩いていた。
「健治」
「はい?」
「今日はどうだった?」
「すごく面白かったです!」
「そうか」
「佐藤さん、いろいろ教えてくれましたね」
「ああ」
「僕、仕事の覚え方って、もっと簡単だと思ってました」
林は、少し驚いた。
「……そうなのか?」
「はい。でも、安全とか、品質とか、いろいろ考えないといけないんですね」
「そうだな」
「だから、ちゃんと教えてもらうんですね」
林は、うなずいた。
「……そういうことだ」
田中は、しばらく黙って歩いていた。
そして。
「林さん」
「何だ?」
「僕、ますます工場を見てみたくなりました!」
林は、足を止めた。
「…………」
やっぱり。
やっぱり、そうなるのか。
「……健治」
「はい?」
「お前、少しは怖くなったりしないのか?」
田中は、少し考えた。
「怖いこともあると思います」
「だろ?」
「でも、だからこそ、ちゃんと教わりたいです」
林は、黙った。
そして、ゆっくり息を吐いた。
「……そうか」
それ以上、何も言わなかった。
ただ。
この少年の好奇心を、簡単に止めることはできないのだと、少しずつ理解し始めていた。
次に相談する相手は。
白木技術部長。
林は、遠い目をした。
「……大丈夫かなあ」
田中は、隣でにこにこしていた。
「楽しみですね!」
「お前はな!」
冬の夕暮れ。
二人の声が、冷たい空気の中に響いた。
――第4章・完




