第2章 林さん、人生相談を持ち込まれる
〜どうして俺が進路指導をしてるんだ!?〜
「……参ったなあ」
林修一は、会社の休憩室でつぶやいた。
目の前には、缶コーヒー。
その隣には、スマートフォン。
画面には、田中健治からのメッセージが並んでいた。
『工場では何人くらい働いているんですか?』
『機械は全部同じ人が動かすんですか?』
『仕事って何日くらいで覚えられるんですか?』
『林さんは、最初に何を教わったんですか?』
林は、画面を見つめた。
「……知らねえよ」
もちろん、全部知らないわけではない。
自分の担当工程のことなら、ある程度は分かる。
先輩から教わったこともある。
毎日使っている設備のことだって、少しずつ覚えてきた。
だが、工場全体となると話は別だった。
自分は、まだ入社して間もない若手社員なのだ。
工場のすべてを知っているわけではない。
むしろ、知らないことの方が多い。
「まったく……」
林は、缶コーヒーを一口飲んだ。
それから、スマートフォンを持ち直した。
『工場によって違う。俺にも分からんことはある』
送信。
しばらくして。
『そうなんですね!』
すぐに返事が来た。
『じゃあ、林さんも毎日勉強してるんですね!』
「…………」
林は、画面を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
「まあな」
思わず声に出していた。
実際、そうだった。
毎日、覚えることばかりだ。
先輩に教わり、実際に作業して、間違えたら直す。
昨日できなかったことが、今日は少しできるようになる。
そんな日々を繰り返している。
ただし。
本人としては、そんなに楽しいことばかりではない。
仕事がうまくいかない日もある。
先輩に注意されることもある。
覚えたつもりだった手順を間違え、落ち込むことだってある。
それなのに。
健治は、そんな話を聞くたびに目を輝かせる。
『できるようになるのって、面白そうですね!』
などと言う。
(……あいつ、何なんだろうな)
林は、しばらく考えた。
健治は、何でも知っているわけではない。
むしろ、知らないことだらけだ。
だが、知らないことを恥ずかしがらない。
分からなければ聞く。
教えてやれば、素直に覚えようとする。
そして、できるようになると、必ず報告に来る。
それは、小さい頃から変わっていなかった。
*
林には、昔の出来事で忘れられないものがあった。
健治が、まだ小学生だった頃。
二人で自転車に乗っていたときのことだ。
「林さん!」
「何だ?」
「自転車って、どうしてギアを変えると軽くなるんですか?」
当時の林も、まだ子どもだった。
自転車の仕組みを専門的に説明できるわけではない。
それでも、自分が知っている範囲で話してやった。
「坂道だと、軽いギアにした方が漕ぎやすいだろ?」
「はい」
「その代わり、いっぱい漕がなきゃならない」
「なるほど」
「逆に重いギアだと、漕ぐのは大変だけど、一回で進む距離が増えるんだよ」
健治は、真剣に聞いていた。
それから。
「じゃあ、やってみます!」
と言い出した。
林が安全な場所を選び、周囲を確認する。
健治は、言われた通りにギアを変えた。
しばらく走る。
そして戻ってきた。
「林さん!」
「何だ?」
「本当でした!」
「……そりゃそうだろ」
「軽くなりました!」
「よかったな」
健治は、うれしそうに笑った。
そして、少し考えた。
「でも、速く走るなら、どれがいいんですか?」
林は、空を見上げた。
(……また始まった)
その後も、健治はいろいろ試した。
もちろん、勝手に無茶をさせるわけにはいかない。
林は、安全な場所で、できる範囲だけ試すように言った。
健治は、その約束を守った。
何度か試したあと。
「林さん、ありがとうございました!」
と、満足そうに帰っていった。
それから数日後。
健治は、またやって来た。
「林さん!」
「今度は何だ?」
「この前のギアの話、友達にも教えたんです!」
「ほう」
「そしたら、その子もできるようになりました!」
健治は、満面の笑みだった。
林は、その顔を見て、何だか自分までうれしくなった。
「そうか。よかったな」
「はい!」
あのとき。
林は、少しだけ思ったのだ。
(……教えるのって、案外面白いな)
今になって考えれば。
それが、始まりだったのかもしれない。
*
「林!」
突然、声がした。
林は、はっと顔を上げた。
目の前に、先輩社員が立っていた。
「何ぼーっとしてるんだ?」
「あ、すみません」
「休憩は終わりだぞ」
「はい!」
林は慌てて立ち上がった。
缶コーヒーを片づけ、作業場所へ戻る。
今日も仕事が待っている。
健治の進路相談も気になる。
だが、まずは自分の仕事をしなければならない。
(……そうだよな)
林は、心の中でつぶやいた。
(俺だって、まだ教わってる途中なんだ)
それなのに、中学生の進路相談まで引き受けている。
しかも。
相談した本人は、どうやら楽しそうだ。
「……勘弁してくれよ」
小さくつぶやいた。
しかし、口元には少し笑みが浮かんでいた。
*
その日の作業が終わったあと。
林は、職場の先輩に話しかけた。
「すみません、ちょっと聞いてもいいですか?」
「おう、何だ?」
「中学生が工場見学したい場合って、どうなるんですかね?」
先輩は、少し意外そうな顔をした。
「中学生?」
「はい」
「お前、弟でもいたか?」
「いや、近所の幼馴染なんですけど」
林は、これまでの事情を簡単に説明した。
先輩は、最後まで聞いてからうなずいた。
「なるほどなあ。変わった子だな」
「ですよね」
「でも、悪い話じゃないと思うぞ」
「そうですか?」
「ああ。工場の仕事に興味を持ってくれる若い子がいるってのは、うれしいもんだ」
林は、少し驚いた。
先輩は続けた。
「ただ、うちの工場には危険な設備もあるし、勝手に連れてくるわけにはいかん」
「はい」
「学校からの正式な依頼とか、会社としての受け入れが必要になるだろうな」
「やっぱりそうですよね」
「まずは、上の人に相談してみたらどうだ?」
林は、うなずいた。
「ありがとうございます」
先輩は、少し笑った。
「ところで、その子、工場の何が見たいんだ?」
「それが……」
林は、少し困った顔をした。
「何でも見たいみたいなんです」
「何でも?」
「機械も、人も、仕事の覚え方も……」
先輩は、声を立てて笑った。
「ははは! そりゃ大変だ!」
「ですよね……」
「でも、面白そうな子じゃないか」
林は、先輩を見た。
「……そう思います?」
「思うよ。ちゃんと話を聞く子なら、俺だって教えてやりたいくらいだ」
林は、しばらく黙っていた。
そして、少し笑った。
「……そうなんですよね」
健治は、ちゃんと話を聞く。
そこだけは、昔から変わらない。
「まあ、頑張れよ」
先輩は、林の肩を軽く叩いた。
「お前、兄貴分なんだろ?」
「……はい」
「面倒見てやれ」
「はい……」
林は、苦笑した。
どうやら。
会社の先輩まで、健治の味方になりそうだった。
*
その日の帰り道。
林は、歩きながら考えていた。
高校進学。
通信制高校。
工場見学。
会社の許可。
学校との調整。
保護者の同意。
考えることは山ほどある。
しかも、自分一人では決められないことばかりだ。
「……さて、どうしたもんかな」
林は、足を止めた。
健治に興味があることは、よく分かった。
でも、その気持ちだけで何でもできるわけではない。
仕事の大変さを知ることも必要だ。
学業を続けることも大切だ。
将来の選択肢を狭めてしまわないように考える必要もある。
(……いや、待てよ)
林は、ふと気づいた。
(何で俺が、ここまで考えてるんだ?)
高校の先生でもない。
親でもない。
まだ19歳の若手社員。
自分の仕事だって覚える途中なのだ。
「……まったく」
思わず笑ってしまった。
これでは、まるで自分が健治の進路指導をしているみたいではないか。
いや。
実際、そうなりかけている。
「……一人じゃ無理だな」
林は、スマートフォンを取り出した。
そして、連絡先を開いた。
少し考える。
こういう相談なら、誰がいいだろう。
会社の先輩に聞くのもいい。
でも、仕事の話ばかりでは、健治の気持ちを見落とすかもしれない。
もっと別の角度から考えてくれる人が必要だ。
林の指が、一つの名前で止まった。
山田まゆみ。
18歳。
林とは以前から親しい間柄だった。
まゆみは、昔から人の様子を見るのがうまかった。
誰かが無理をしていると、すぐに気づく。
言葉に出していない気持ちまで、何となく察してしまう。
そして、言うべきことははっきり言う。
林にとっては、少々手ごわい相手でもあった。
(……まあ、相談するなら、まゆみか)
林は、メッセージを打った。
『ちょっと相談があるんだけど』
しばらくして、返事が来た。
『何?』
林は少し考えた。
そして、送信した。
『健治が、工場で働いてみたいって言い出した』
数秒後。
返事が届いた。
『あはは!』
「…………」
林は、画面を見つめた。
続けて、もう一件。
『あの子らしいね!』
「……おいおい」
林は、思わず声を出した。
こちらは、結構真剣に悩んでいるのだ。
さらにメッセージが届いた。
『それで、林さんはどうしたいの?』
林は、指を止めた。
どうしたいのか。
そんなこと、考えていなかった。
健治が働きたいと言った。
危ないと思った。
心配になった。
どうすればいいのか分からなかった。
それだけだった。
林は、しばらく考えた。
そして、ゆっくり入力した。
『できれば、工場の仕事を一度見せてやりたい』
送信。
少しして、返事が来た。
『うん。それなら、いいんじゃない?』
林は、画面を見つめた。
『もちろん、安全とか学校のことはちゃんと考えないといけないけど』
続けて。
『健治君、きっと喜ぶと思うよ』
林は、少し笑った。
確かに。
あいつなら、きっと喜ぶ。
目を輝かせて、何度も礼を言ってくるだろう。
そして。
見学が終わった頃には、また新しい疑問を山ほど抱えているに違いない。
(……そこが問題なんだけどな)
林は、深いため息をついた。
しかし。
そのため息は、先ほどより少し軽くなっていた。
*
その夜。
田中家では、健治が机に向かっていた。
ノートの表紙には、
『工場で聞いてみたいこと』
と書かれている。
中には、いくつもの質問が並んでいた。
ただし。
田中は、それを全部すぐに聞くつもりではなかった。
工場は、働いている人たちの場所である。
仕事の邪魔をしてはいけない。
先生にも、林さんにも、そう教わった。
だから。
まずは、説明を聞こう。
教えてもらったことを、ちゃんと理解しよう。
その上で、分からなかったところを聞けばいい。
田中は、ノートの一番上に、新しい一文を書いた。
『まず、話をよく聞くこと』
その下に。
『分からないことは、あとで質問する』
さらに。
『教えてもらったら、お礼を言う』
田中は、書いた文字を眺めた。
そして、満足そうにうなずいた。
「よし!」
まだ工場見学の日程すら決まっていない。
会社が受け入れてくれるかどうかも分からない。
それでも、できる準備はある。
田中は、鉛筆を置いた。
そして、窓の外を見た。
冬の夜空には、星がいくつか光っていた。
「楽しみだなあ……」
その声は、小さかった。
けれども。
期待だけは、どんどん大きくなっていた。
*
一方、その頃。
林は、自分の部屋でスマートフォンを見つめていた。
まゆみから、新しいメッセージが届いていた。
『そういえば、佐藤さんにも相談してみたら?』
林は、少し考えた。
佐藤巧。
27歳。
落ち着いた性格で、仕事の進め方も考え方も、林が尊敬している先輩だった。
佐藤さんなら、学校や会社への相談をどう進めるべきか、整理してくれるかもしれない。
林は、うなずいた。
「……そうだな」
一人で悩んでいても仕方がない。
分からないことは、分かる人に聞けばいい。
そう考えたとき。
林は、ふと苦笑した。
「……あれ?」
それって。
健治が、いつもやっていることじゃないか。
知らないことがあれば聞く。
教わったことを考える。
できることから試す。
林は、しばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……まったく、あいつめ」
どうやら自分も、知らないうちに少し影響されているらしい。
林は、スマートフォンを持ち直した。
佐藤さんへの連絡は、明日にしよう。
きっと、いい相談相手になってくれる。
そう思った。
もっとも。
林は、まだ気づいていなかった。
佐藤巧という人物が、田中健治の好奇心にどれほど興味を持つことになるのか。
そして、その相談がやがて白木技術部長へとつながっていくことを。
もちろん。
健治本人は、そんなことなど知る由もなかった。
ただ、工場へ行ってみたい。
そこで働く人たちの話を聞いてみたい。
その気持ちだけで、胸をいっぱいにしていた。
一人の少年が抱いた、小さな好奇心。
それは今、周囲の人々を少しずつ動かし始めていた。
――第2章・完




