第1部 好奇心だけで工場へ飛び込んだ少年 〜教わる楽しさと、人との出会い〜 第1章 中学生、進路より仕事が気になる
〜僕、働く人たちの話を聞いてみたいんです!〜
2014年、冬。
中学校の教室には、いつもと少し違う空気が漂っていた。
黒板には、進路希望調査の提出期限が書かれている。
机の上には、高校の案内資料。
教室のあちらこちらで、受験の話が飛び交っていた。
「お前、どこの高校を受けるんだ?」
「俺は工業高校かな」
「普通科にしようか迷ってるんだよな」
「将来やりたいこと決まってないし」
中学3年生にとって、冬は大切な時期だった。
これから先、自分はどうするのか。
どこで学ぶのか。
何になりたいのか。
大人たちは、そうしたことを考える時期だと言う。
もちろん、それは間違っていない。
ただし。
この教室には、少々違う方向に興味を持っている少年が一人いた。
田中健治、15歳。
机に広げているのは、高校の案内資料ではなかった。
工場見学について調べたメモだった。
「……へえ」
田中は、鉛筆を動かした。
『自動車工場』
『食品工場』
『機械加工』
『組み立て』
『検査』
調べれば調べるほど、知らない仕事が出てくる。
同じ工場でも、作っているものが違う。
同じ製品でも、いくつもの工程がある。
そして、その一つ一つに人が関わっている。
(全部、誰かが覚えて仕事してるんだよなあ……)
田中は、机の上のメモを見つめていた。
そのとき。
「健治」
隣の席から声がした。
「ん?」
「お前、何してるんだ?」
友人が、メモをのぞき込んだ。
「工場のこと調べてる」
「工場?」
「うん」
「社会科の宿題か?」
「違うよ」
「じゃあ何だよ」
田中は、にっこり笑った。
「働いてみたいんだ」
「…………」
友人は、しばらく黙った。
そして、進路希望調査の用紙を持ち上げた。
「……お前、これ出した?」
「あ、まだ」
「先にそっちを考えろよ!」
田中は、用紙を見た。
確かに。
提出期限は、もう近かった。
「そうだね」
「そうだね、じゃないだろ」
「うん。今日、書くよ」
田中は素直にうなずいた。
その態度が、友人には余計に不思議だった。
「で、どこの高校?」
「通信制にしようかなって」
「……何で?」
「勉強しながら、仕事のことも知りたいから」
友人は、しばらく田中の顔を見ていた。
そして、ようやく言った。
「お前って、変わってるよな」
田中は首をかしげた。
「そうかな?」
「そうだよ」
「でも、働くのって面白そうじゃない?」
「いや、俺はできればまだ働きたくないけど」
「そうなんだ」
田中は、少し考えた。
「じゃあ、どうして働きたくないの?」
友人は口を開きかけた。
そして止まった。
「……え?」
「いや、働きたくない理由があるのかなって」
「そりゃ、仕事って大変そうだし」
「うん」
「毎日決まった時間に行かなきゃならないし」
「うん」
「怒られることもあるだろ」
「そうだね」
田中は、最後まで聞いてからうなずいた。
「なるほど。そういうところは大変そうだね」
友人は、少し拍子抜けした。
てっきり、反論されると思っていたのだ。
ところが田中は、あっさり納得してしまった。
「……じゃあ、お前もやめとけば?」
「ううん」
「何でだよ!」
「大変なこともあるって分かったから、余計に気になった」
「…………」
友人は、ゆっくり天井を見上げた。
「……もう好きにしろよ」
「うん、ありがとう!」
「礼を言われるようなことしてねえよ!」
田中は笑った。
教室には、いつもの昼休みが流れていた。
ただ一人。
将来の仕事について考えているのか、単に工場が面白そうなのか、よく分からない少年を除いて。
*
放課後。
田中は進路指導の先生に呼ばれていた。
机の上には、進路希望調査の用紙が置かれている。
先生は、その用紙を見つめていた。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「田中」
「はい」
「通信制高校を希望しているんだな?」
「はい」
「理由を聞いてもいいか?」
「働くことに興味があるからです」
先生は、しばらく黙った。
「……なるほど」
田中は姿勢を正した。
先生は用紙を置いた。
「高校に進学しないで働きたい、ということではないんだな?」
「はい。高校の勉強は続けたいです」
「それなら、どうして通信制を考えたんだ?」
田中は少し考えた。
「勉強する時間と、仕事のことを知る時間を、自分で考えて使えるかなって」
先生はうなずいた。
「そういう考え方もあるな」
「はい」
「ただ、通信制高校は、自由な時間が多いから楽というわけじゃないぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。自分で学習の計画を立てなきゃならないし、課題もある。決められた登校日や授業にも参加する必要がある」
田中は、真剣な顔になった。
「なるほど……」
先生は続けた。
「普通の高校と違って、毎日同じように先生が進み具合を確認してくれるとは限らない。自分で続ける力が必要なんだ」
「はい」
「それに、働くことについても、まずは何をしたいのか整理する必要がある」
「はい」
田中は、少し考えた。
そして、顔を上げた。
「先生」
「何だ?」
「通信制高校でも、先生に質問はできますか?」
先生は、一瞬だけ目を丸くした。
「もちろん、できるぞ」
「分からないところがあったら、教えてもらえるんですね?」
「ああ。ただし、質問するための方法や時間は学校によって違うから、確認しなきゃならんがな」
「なるほど!」
田中は、ほっとしたように笑った。
先生は、その顔を見て少し不思議に思った。
この少年は、自由な時間が欲しいと言っている。
しかし、勉強を避けたいわけではないらしい。
むしろ、分からないことを教わる機会があるかどうかを気にしている。
「田中、お前は勉強が嫌いなのか?」
「いえ、そんなことないです」
「じゃあ、なぜそんなに仕事が気になるんだ?」
田中は、すぐには答えなかった。
窓の外へ目を向ける。
校庭では、部活動の準備をしている生徒たちがいた。
その向こうには、道路が見える。
トラックが一台、ゆっくり走っていった。
「……あのトラックも」
「ん?」
「あれを作った人がいて、運転している人がいて、荷物を積んだ人がいるんですよね」
先生は、窓の外を見た。
「そうだな」
「その荷物だって、どこかの工場で作られたものかもしれないし」
「ああ」
「僕、そういうのを知りたいんです」
先生は黙って聞いていた。
田中は続ける。
「みんな普通に使ってるけど、誰かが作ってるじゃないですか」
「そうだな」
「その人たちは、どうやって仕事を覚えたんだろうって」
田中は少し笑った。
「僕、それが気になるんです」
先生は、しばらく考えてから口を開いた。
「……なるほどな」
今度の「なるほど」は、先ほどとは少し違っていた。
先生は、机の上の進路希望調査を見た。
「田中。通信制高校については、学校ごとの仕組みを調べて、保護者の方ともよく話し合おう」
「はい」
「それと、仕事を知る方法は、いきなり働くことだけじゃない」
「そうなんですか?」
「職場見学や、学校を通じた体験学習という方法もある」
田中の目が輝いた。
「工場も見られますか?」
「受け入れてくれるところがあればな。ただし、学校や会社との調整が必要だぞ」
「はい!」
先生は、少し笑った。
「お前、そういう話になると急に元気になるな」
「えっ?」
「いや、いいんだ」
先生は、進路希望調査を田中へ返した。
「まずは調べてみなさい。分からないことがあれば、また聞きに来ればいい」
「ありがとうございます!」
田中は、深く頭を下げた。
そして、教室を出ていった。
扉が閉まる。
先生は、しばらくその扉を見つめていた。
「……変わったやつだなあ」
小さくつぶやいた。
ただし、その声には、どこか楽しそうな響きがあった。
*
帰り道。
田中は、先生に教わったことを頭の中で整理していた。
通信制高校。
学習計画。
課題。
登校日。
職場見学。
学校との調整。
会社の許可。
知らなかったことが、たくさんあった。
(なるほどなあ……)
働いてみたいと思ったときには、そんなことまで考えていなかった。
でも、話を聞いてみれば、理由は分かる。
仕事にも学校にも、それぞれの決まりがある。
自分がやってみたいからといって、すぐにできるわけではない。
だからこそ。
一つずつ、確かめればいい。
田中は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
林さんから届いていたメッセージを開く。
『工場見学の件、ちょっと相談できそうだ』
思わず、顔がほころんだ。
先生も、林さんも、同じようなことを言っている。
まずは見学。
いきなり仕事をするのではなく、働いている人たちの様子を見る。
(それでいいんだよな)
田中はうなずいた。
そして、新しいメッセージを打ち始めた。
『林さん、学校の先生にも相談しました!』
『工場見学なら、学校と会社で相談する方法もあるそうです!』
少し考えて、もう一文。
『僕も、できることから始めてみたいです!』
送信。
しばらくして、返事が届いた。
『おう。それなら話を進めやすいかもな』
田中は、うれしくなった。
さらに一文が届く。
『ただし、まだ決まったわけじゃないぞ』
田中は、すぐに返事をした。
『はい! 分かってます!』
そして。
スマートフォンをポケットにしまい、空を見上げた。
冬の夕暮れ。
冷たい風が、頬をかすめた。
それでも、足取りは軽かった。
一つ聞いたら、一つ分かった。
分かったことが増えたら、次に何をすればいいのか、少しだけ見えてきた。
それが、田中にはたまらなく面白かった。
まだ、工場の中へ入ったこともない。
機械の動かし方も知らない。
働くことの本当の大変さだって、分かっていない。
それでも。
知りたいと思う気持ちだけは、昨日より少し大きくなっていた。
そして。
この少年の好奇心に、誰よりも頭を悩ませる人物がいた。
もちろん。
林修一、19歳。
その人である。
――第1章・完




