プロローグ 林さん、僕、働いてみたいんです!〜中学3年生の一言が、周囲の大人たちを巻き込んだ〜
2014年、冬。
その日、田中健治は、ある重大な決心をしていた。
もっとも、本人にとっては、それほど重大なことではなかった。
高校受験が嫌になったわけでもない。
学校で何か問題を起こしたわけでもない。
家計が苦しく、働かなければならなくなったわけでもなかった。
両親は健在。
家は決して裕福ではないが、生活に困っているわけではない。
ごく普通の家庭で、ごく普通に育った中学3年生。
それが田中健治、15歳だった。
ただし。
一つだけ、少々変わったところがあった。
気になったことを、そのままにしておけないのである。
*
「父さん、仕事って面白い?」
ある日の夕食時。
健治は、味噌汁を飲んでいた父親に尋ねた。
父親は箸を止めた。
「……何だ、急に」
「いや、毎日会社に行ってるじゃない」
「ああ」
「何してるの?」
父親は少し考えた。
「仕事だよ」
「それは知ってる」
「じゃあ、何が聞きたいんだ?」
「仕事してるとき、何を考えてるのかなって」
「…………」
父親は、味噌汁のお椀を置いた。
なかなか難しい質問だった。
仕事は仕事である。
朝、会社に行く。
決められた業務をこなす。
問題があれば対応する。
時には会議もある。
そして夕方、あるいは夜になれば帰宅する。
それが日常だった。
だが、息子が聞きたいのは、どうやらそういう説明ではないらしい。
「まあ、いろいろだな」
「いろいろ?」
「今日は何を終わらせるとか、どうすればうまくいくとか、そんなことだ」
健治はうなずいた。
「ふうん……」
そして、しばらく考えた。
「じゃあ、昨日より上手にできることもある?」
父親は、少し笑った。
「そりゃあるさ。仕事だって、慣れれば早くなるし、やり方を変えれば楽になることもある」
「へえ!」
健治の目が輝いた。
母親が、その様子を見ていた。
「健治、どうしたの? 仕事に興味があるの?」
「うん!」
「珍しいわねえ。普通は高校のことで頭がいっぱいの時期なのに」
「高校も考えてるよ」
「そうなの?」
「うん。でも、その前にちょっと働いてみたいなって」
母親は笑った。
「そう。働いてみたいのね」
「うん!」
そこで、父親が動きを止めた。
「……待て」
「何?」
「お前、今、何て言った?」
「働いてみたいって」
「…………」
父親は母親を見た。
母親は父親を見た。
そして、二人そろって健治を見た。
健治は、ご飯を一口食べた。
特に変わった様子はなかった。
どうやら、本気らしい。
「健治」
「うん?」
「お前、まだ中学生だぞ」
「知ってるよ」
「高校はどうするんだ?」
「通信制っていうのもあるんでしょ?」
父親は眉を上げた。
「調べたのか?」
「うん。学校でも進路の話をしてるから」
「なるほどな……」
父親は、少し考え込んだ。
別に、息子が勉強嫌いというわけではない。
成績がひどく悪いわけでもない。
学校で問題を起こしているわけでもない。
むしろ、興味を持ったことには妙に熱心だった。
ただ、その興味が、今回は「働くこと」に向いたらしい。
母親が尋ねた。
「それで、どんな仕事がしたいの?」
健治は、にっこり笑った。
「まだ分からない!」
「……そうなの?」
「だから、見てみたいんだ」
母親は、しばらく息子を見つめた。
そして、ふっと笑った。
「なるほどねえ」
父親は額を押さえた。
「なるほどで済ませるなよ……」
「だって、この子らしいじゃない」
「まあ、それはそうだが」
健治は、不思議そうに二人を見ていた。
大人たちは、どうしてこんなに難しそうな顔をするのだろう。
本人としては、ただ知らないことを知りたいだけなのに。
父親は、やがて口を開いた。
「まあ、興味を持つのは悪いことじゃない。ただし、勉強は続けろよ」
「うん!」
「それと、仕事には責任がある。面白いことばかりじゃないぞ」
「うん!」
「危険な仕事だってある。勝手に何でも触っていいわけじゃない」
「うん、分かった!」
父親は、少し安心した。
そして、念のため尋ねた。
「……それで、どこへ行くつもりなんだ?」
健治は答えた。
「林さんに聞いてみる!」
父親は黙った。
母親も黙った。
しばらくして。
母親が、くすっと笑った。
「あらまあ。林君、また大変ね」
*
林修一、19歳。
田中家の近所に住む、健治の幼馴染だった。
4歳年上。
子どもの頃から、何かと健治の面倒を見てきた。
健治が小学生の頃には、一緒に自転車に乗った。
夏休みには、虫取りにも付き合った。
時には、壊れたおもちゃを直してやったこともある。
ただし。
健治と一緒にいると、なぜか予定どおりに物事が進まない。
虫取りに行けば、昆虫よりも虫取り網の構造に興味を持つ。
自転車に乗れば、どうして変速機で軽くなるのか気にし始める。
壊れたおもちゃを直せば、今度は壊れていないおもちゃの中身まで見たがる。
それでも、教えてやると目を輝かせる。
分からないことは素直に聞く。
できるようになると、実にうれしそうな顔をする。
だから林は、何だかんだ言いながら、いつも付き合ってしまうのだった。
その林も、高校を卒業して社会人になっていた。
まだ若手社員である。
仕事を覚えるだけでも精いっぱい。
毎日、先輩たちに教わりながら、少しずつできることを増やしているところだった。
そんな、ある日の夕方。
「林さーん!」
聞き慣れた声がした。
林は、缶コーヒーを片手に振り返った。
「おう、健治。どうした?」
健治が、にこにこと笑って立っていた。
林は、その顔を見た。
そして、何となく嫌な予感がした。
昔から、そうだった。
この顔でやって来るときは、大抵ろくなことにならない。
いや。
健治本人に悪気があるわけではない。
むしろ、いつも善意と好奇心しかない。
問題は、その好奇心の行き先だった。
「林さん!」
「何だ?」
「僕、働いてみたいんです!」
「…………」
林は、缶コーヒーを口元へ運びかけたまま止まった。
そして、ゆっくり健治を見た。
「……何だって?」
「働いてみたいんです!」
「いや、聞こえたけどさ」
「はい!」
「お前、まだ中学生だろ?」
「はい!」
「……元気よく返事するな」
健治は、きょとんとした。
「でも、もうすぐ卒業ですよ?」
「卒業したら普通は高校へ行くだろ」
「高校の勉強は続けますよ」
「……ん?」
「通信制高校ってあるじゃないですか」
林は、目を瞬いた。
「お前、そこまで考えてるのか?」
「はい!」
少しだけ、林は感心した。
もっとも。
次の一言で、その感心はどこかへ消えた。
「それで、林さんの会社って、見学できますか?」
「話が早いな、おい!」
健治は、楽しそうだった。
「だって、工場で働いてるんですよね?」
「ああ」
「大きな機械とか、いっぱいあるんですか?」
「まあ、あるな」
「どんな機械ですか?」
「加工機とか、いろいろだよ」
「それって、誰でも動かせるんですか?」
林は首を横に振った。
「そんなわけないだろ。ちゃんと教わって、安全を確認して、決められた手順を覚えるんだ」
「なるほど……」
健治は、真剣な顔になった。
林の説明を聞きながら、何度もうなずいている。
「じゃあ、最初からできる人はいないんですね」
「当たり前だろ。俺だって、まだ教わってる途中だよ」
「そうなんですか?」
「ああ。仕事なんて、覚えることが山ほどあるんだからな」
健治は少し考えた。
そして、ぽつりと言った。
「……それ、面白そうですね」
林は、思わず笑った。
「どこがだよ」
「だって、できなかったことが、できるようになるんでしょ?」
「まあ……そうだけどな」
「いいなあ」
健治は、本当にうらやましそうだった。
林は、缶コーヒーを一口飲んだ。
不思議なやつだ。
自分は、仕事がなかなか覚えられなくて苦労している。
先輩に注意されることもある。
うまくできず、落ち込む日だってある。
なのに、目の前の中学生は、その苦労話を聞いて目を輝かせている。
林は、ふと尋ねた。
「なあ、健治」
「はい?」
「お前、働くって、どういうことだと思ってる?」
健治は、すぐには答えなかった。
しばらく考えてから、口を開いた。
「……よく分からないです」
「そうか」
「だから、知りたいんです」
林は黙った。
健治は続けた。
「学校で勉強するのは、先生が教えてくれるじゃないですか」
「ああ」
「でも、仕事って、実際に働いている人じゃないと分からないことがありそうで」
「……まあ、あるな」
「だから、一度見てみたいんです。働いている人たちが、どんなことをしているのか」
林は、健治の顔を見つめた。
なるほど。
ただ工場で遊びたいわけではなさそうだ。
何となく働きたいと言っているわけでもない。
本当に、知りたいのだ。
仕事というものを。
林は、小さく息を吐いた。
「……まあ、気持ちは分かった」
「本当ですか!」
「ただし、俺が勝手に連れて行けるわけじゃないぞ」
「はい」
「会社の許可も必要だし、学校や親御さんにも相談しなきゃならん」
「はい」
「それに、安全の問題もある」
「はい」
「だから、今すぐどうこうできる話じゃない」
健治は、最後まで聞いていた。
それから、ゆっくりうなずいた。
「分かりました」
林は、少し意外に思った。
てっきり、すぐに行きたいと騒ぐものだと思っていたからだ。
ところが健治は、あっさり納得した。
「じゃあ、どうすれば見学できるか、考えてみます」
「……そうだな」
「林さん、ありがとうございます!」
健治は頭を下げた。
そして、実に満足そうな顔で帰っていった。
林は、その背中を見送った。
「…………」
しばらくして、ぽつりとつぶやいた。
「……あいつ、本気だな」
*
数分後。
林のスマートフォンが鳴った。
健治からのメッセージだった。
『林さん、今日はありがとうございました!』
『工場見学のこと、もう少し調べてみます!』
林は、苦笑した。
律儀なやつだ。
返事を打つ。
『おう。まあ、焦るなよ』
送信。
これで一段落。
そう思った、そのとき。
再び通知が鳴った。
『ところで林さん』
林は画面を見た。
『工場って、何時から動いてるんですか?』
「…………」
さらに、もう一件。
『機械って、夜も動いてるんですか?』
そして、もう一件。
『働く人は、どうやって作業を覚えるんですか?』
林は、空を見上げた。
冬の空は、すっかり暗くなっていた。
「……始まったよ」
昔から変わらない。
一つ分かると、また一つ疑問が生まれる。
説明すると、今度はその先が気になる。
けれども、林は知っていた。
健治は、人の話をいい加減に聞くやつではない。
説明すれば、ちゃんと覚える。
教えたことを試してみる。
うまくいかなければ、また聞いてくる。
そして、できるようになると、必ず報告に来る。
それが、健治だった。
林は、しばらく考えた。
(……一人じゃ、ちょっと手に負えないな)
会社のこともある。
学校のこともある。
そもそも、自分はまだ19歳だ。
進路指導の先生でもなければ、工場見学の責任者でもない。
ならば。
誰かに相談するしかない。
林は、スマートフォンを開いた。
連絡先の一覧を眺める。
そして、一人の名前で指を止めた。
――山田まゆみ。
林は、少しだけ考えた。
「……まゆみなら、何かいい考えがあるかもしれないな」
その判断が、後にどのような結果を招くのか。
このときの林には、まだ分からなかった。
やがて話は、佐藤巧へ。
そして、技術部長の白木へ。
さらに、同期である黒田営業部長、保科品質部長の耳にまで届くことになる。
一人の中学生が抱いた、ほんの小さな好奇心。
それが、会社の中でちょっとした騒動を引き起こすことになるのだが――。
もちろん。
当の田中健治は、そんなことなど知る由もなかった。
その夜。
自分の部屋で、真新しいノートを開いていた。
表紙には、大きな字でこう書かれている。
『工場で聞いてみたいこと』
田中は、鉛筆を握った。
「ええと……」
最初の一行を書く。
『工場では、どんな人が働いているのか?』
少し考えた。
次の一行。
『仕事は、どうやって覚えるのか?』
さらに、もう一行。
『初めての人は、何から始めるのか?』
田中は、書いた文字を眺めた。
そして、にっこり笑った。
「楽しみだなあ」
窓の外では、冷たい冬の風が吹いていた。
けれども、少年の心の中は、春を待つような期待でいっぱいだった。
まだ誰も知らない。
この少年が、やがて製造現場の人たちに愛され、仕事を覚え、さまざまな失敗を重ねながら成長していくことを。
そして十数年後。
人と会話するように答えてくれる、まったく新しい技術に出会うことを。
その物語は、まだAIという言葉に興味を持つずっと前から始まっていた。
たった一言。
「僕、働いてみたいんです!」
そこから、すべてが動き始めたのである。
――プロローグ・完




