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第11章 通信制高校と、二つの学びの場所

〜教科書で学ぶこと、現場でしか分からないこと〜


「……あれ?」


田中健治は、机の上に広げた予定表を見つめていた。


高校1年生。


通信制高校に入学して、数か月が過ぎていた。


学校の課題。


登校日。


提出期限。


そして、工場での職場体験。


田中は、それらを一枚の予定表に書き込んでいた。


少なくとも、本人はそのつもりだった。


「……おかしいな」


予定表を、もう一度見る。


来週の水曜日。


そこには、大きな文字でこう書かれていた。


『工場・山崎さん』


その下に、小さな文字。


『数学レポート提出期限』


田中は、しばらく黙った。


そして、ゆっくり顔を上げた。


「……同じ日だ」


もちろん、同じ日でも、両方できるなら問題はない。


しかし。


数学のレポートは、まだ終わっていなかった。


いや。


正確に言えば。


ほとんど手をつけていなかった。


「…………」


田中は、机の上のノートを見た。


『工場で聞いてみたいこと』


こちらは、ずいぶん厚くなっていた。


ページのあちらこちらに、付箋が貼られている。


一方。


数学のレポートは、まだ真っ白だった。


「……あれえ?」


何とも間の抜けた声が、部屋に響いた。


*


その日の夕方。


林修一は、仕事を終えて帰宅したところだった。


靴を脱ぎ、ようやく一息ついた。


そのとき。


スマートフォンが鳴った。


画面には、見慣れた名前。


田中健治。


林は、少しだけ嫌な予感がした。


『林さん!』


「……何だよ」


もちろん、画面に向かってつぶやいても返事はない。


続けて、メッセージが届いた。


『ちょっと相談があるんです!』


林は、ゆっくり息を吐いた。


(……またか)


とはいえ。


最近の健治は、ずいぶんしっかりしてきた。


工場で教わったことを覚え、学校の勉強も続けている。


何か問題があれば、まず自分で調べるようにもなっていた。


だから、以前ほど心配する必要はない。


そう思いながら、林は返信した。


『どうした?』


数秒後。


『数学のレポートが終わりません!』


「…………」


林は、画面を見つめた。


『提出期限は?』


『来週の水曜日です!』


『どこまで終わった?』


しばらく返事がなかった。


林は、眉をひそめた。


やがて。


『まだ最初の問題です!』


「……お前なあ!」


思わず声が出た。


母親が廊下から顔を出す。


「修一、どうしたの?」


「いや、何でもない!」


林は、慌てて答えた。


そして、再び画面を見る。


『何で今までやらなかったんだ?』


少しして、返事が来た。


『工場のノートをまとめてました!』


林は、ゆっくり天井を見上げた。


「……そうかい」


工場のノート。


あれは確かに立派だった。


教わったこと。


分からなかったこと。


新しく気づいたこと。


自分なりに考えたこと。


ずいぶん熱心に書いている。


しかし。


高校の課題は、別の話である。


林は、スマートフォンを持ち直した。


『健治』


『はい!』


『工場の勉強は大事だ』


『はい!』


『でも学校の課題も大事だ』


『はい!』


『返事する前にレポートやれ!』


数秒後。


『分かりました!』


林は、深いため息をついた。


そして、少し笑った。


「……まったく」


本当に。


昔から、何も変わっていない。


興味を持ったことには、驚くほど熱心だ。


その代わり。


目の前のことに夢中になると、ほかの予定が抜け落ちる。


それが、田中健治だった。


*


翌日。


田中は、学校の先生に相談していた。


「先生、ちょっといいですか?」


「どうした、田中?」


「レポートの進め方を相談したいんです」


先生は、田中の顔を見た。


そして、机の上の課題一覧を確認した。


「……田中」


「はい」


「ずいぶん残ってるな」


「はい……」


田中は、少し小さくなった。


先生は、怒鳴らなかった。


ただ、静かに尋ねた。


「どうして、ここまで残ったんだ?」


田中は、正直に答えた。


「工場で教えてもらったことを整理していたら、時間がなくなってしまって……」


先生は、しばらく黙った。


そして、少し笑った。


「……お前らしいな」


田中は、苦笑した。


「すみません」


「謝るのはいいから、まずどうするか考えよう」


「はい」


先生は、紙を一枚取り出した。


「田中。課題を全部、一度書き出してみなさい」


「全部ですか?」


「ああ」


「分かりました」


田中は、残っている課題を書き始めた。


数学。


国語。


英語。


理科。


提出期限も書き込む。


先生は、その一覧を見ながら言った。


「さて。どれから始める?」


田中は、少し考えた。


「……数学です」


「どうして?」


「提出期限が一番近いからです」


先生は、うなずいた。


「そうだな」


田中は、少し安心した。


ところが。


先生は、続けて尋ねた。


「じゃあ、数学の課題には何時間くらい必要だと思う?」


「……え?」


田中は、止まった。


考えたことがなかった。


課題を始めれば、いつか終わる。


そんなふうに思っていた。


先生は、少し笑った。


「終わるまでに必要な時間を考えないと、予定は立てられないだろう?」


「……確かに」


「分からないなら、まず一部分をやってみて、どれくらいかかるか確かめてもいい」


「なるほど……」


田中は、ゆっくりうなずいた。


そして、ぽつりと言った。


「……工場と同じですね」


先生が、顔を上げた。


「工場?」


「はい。山崎さんも、仕事を始める前に段取りを考えるって言ってました」


先生は、少し驚いた。


「そうなのか」


「はい。でも僕、自分の勉強では全然できてませんでした」


田中は、苦笑した。


先生は、その顔を見て笑った。


「ははは。今、気づけたならいいじゃないか」


「はい!」


田中は、もう一度課題一覧を見た。


今度は、ただ期限を書くだけではなかった。


何をするのか。


どれくらい時間が必要なのか。


いつ始めるのか。


一つずつ、考えながら書き込んだ。


*


数日後。


田中は、何とか数学のレポートを仕上げた。


机の上には、完成した課題。


隣には、いつもの工場ノート。


田中は、二つを見比べた。


「……なるほどなあ」


工場では、作業を始める前に必要なものを準備する。


手順を確認する。


終わったら、結果を確かめる。


学校の課題も、似たところがある。


先に何をするのか決めておけば、慌てずに済む。


田中は、ノートを開いた。


そして、一行書いた。


『好きなことだけ先にやると、あとで困る』


少し考えて、もう一行。


『やることを全部確認してから、順番を決める』


田中は、満足そうにうなずいた。


「よし!」


そこへ。


母親が顔を出した。


「健治、レポート終わった?」


「うん!」


「あら、よかったわね」


「はい!」


母親は、机の上を見た。


「……それで、そのノートは?」


「工場で教えてもらったことをまとめてるんだ」


「そう」


母親は、少し笑った。


「そればっかりやってたから、レポートが大変だったんじゃないの?」


「…………」


田中は、黙った。


母親は、笑った。


「ふふっ。図星ね」


「……はい」


田中は、少し照れたように笑った。


「次からは、ちゃんと予定を考えます」


「そうしなさい」


母親は、うなずいた。


そして。


「ところで、次のレポートはいつ?」


田中の手が止まった。


「……あっ」


母親は、静かに笑った。


「……健治」


「はい?」


「今のうちに確認しておきなさい」


「はい!」


田中は、慌てて予定表を開いた。


*


工場では、別の出来事が起きていた。


ある日の職場体験。


田中は、教育用作業台で村上の説明を聞いていた。


「田中君」


「はい」


「今日は、作業の順番を少し考えてもらう」


「順番ですか?」


「ああ」


村上は、練習用の部品を机に並べた。


「これを、決められた手順で組み合わせる」


「はい」


「ただし、今回は使う部品が少し多い」


田中は、うなずいた。


村上は、続けた。


「いきなり作業を始める前に、何が必要か確認してみろ」


田中は、手順書を見た。


部品の種類。


使う順番。


確認する場所。


そして、必要な道具。


「……なるほど」


田中は、少し考えてから部品を並べ直した。


村上は、その様子を見ていた。


「……どうした?」


「使う順番に置いた方が、分かりやすいかなと思って」


村上は、少し笑った。


「ほう」


田中は、慌てて顔を上げた。


「あ、勝手に変えちゃ駄目ですよね?」


村上は、うなずいた。


「そうだな。実際の作業なら、決められた配置や手順を勝手に変えちゃいかん」


「はい」


「ただ、今日は教育用の課題だからな。まず、どうしてそう考えたのか聞かせてくれ」


田中は、少し安心した。


「はい!」


そして、自分の考えを説明した。


使う部品を順番に並べれば、探す時間が減る。


次に何を使うのか分かりやすい。


間違えたときも、どこまで進んだのか確認しやすい。


村上は、最後まで聞いていた。


そして、ゆっくりうなずいた。


「……なるほど」


田中は、少し緊張した。


「……駄目ですか?」


村上は、笑った。


「いや、考え方は悪くない」


田中の顔が明るくなった。


「本当ですか!」


「ああ。ただし、実際の現場では、自分一人がやりやすいだけじゃ駄目なんだ」


「……そうなんですか?」


「次に使う人や、部品を補充する人のことも考えなきゃならん」


田中は、目を瞬いた。


「……なるほど」


村上は、続けた。


「仕事は一人で終わるものばかりじゃないからな」


田中は、しばらく考えた。


そして、ゆっくりうなずいた。


「……つながってるんですね」


村上は、少し笑った。


「そういうことだ」


田中は、うれしそうに笑った。


「白木部長も、同じことを言ってました!」


村上は、目を丸くした。


「……部長が?」


「はい!」


村上は、少し考えた。


そして、小さく笑った。


「……そうか」


どうやら。


この少年は、教わったことを別々の話として覚えているわけではないらしい。


一つの話から、別の話を思い出す。


学校で習ったことと、工場で教わったことを結びつける。


そんなことが、少しずつできるようになっていた。


*


休憩時間。


山崎班長が、村上に尋ねた。


「どうだ、田中君は?」


村上は、缶コーヒーを持ち上げた。


「……相変わらずだな」


「ほう?」


「よく聞くし、よく考える」


山崎は、うなずいた。


「そうだな」


村上は、少し笑った。


「最近は、自分の考えも話すようになってきた」


「そうか」


「ただし、まだまだ知らないことだらけだ」


山崎は、声を立てて笑った。


「ははは! そりゃそうだ!」


村上も、少し笑った。


「……でもな」


「何だ?」


「知らないことを、自分で分かってるんだよ」


山崎は、顔を上げた。


村上は、続けた。


「分からないときに、分かったふりをしない」


「ああ」


「間違えたら、ちゃんと言う」


「そうだな」


「それで、教えたことを次に覚えてくる」


山崎は、ゆっくりうなずいた。


「……教えがいがあるだろ?」


村上は、少し黙った。


そして、笑った。


「……ああ」


*


その日の帰り道。


田中は、林と一緒に歩いていた。


「林さん!」


「何だ?」


「今日、学校の勉強と工場の仕事って、似てるところがあるなって思いました!」


林は、少し驚いた。


「……そうなのか?」


「はい!」


田中は、うれしそうに話し始めた。


学校では、課題を期限までに終わらせるために予定を立てる。


工場では、仕事を始める前に段取りを考える。


どちらも、何をするのか確認してから始めると、うまく進む。


林は、黙って聞いていた。


そして、少し笑った。


「……なるほどな」


田中は、うなずいた。


「でも僕、数学のレポートで失敗したんです」


「……知ってる」


「ですよね」


田中は、苦笑した。


林も笑った。


「まあ、次から気をつけろよ」


「はい!」


しばらく歩いたあと。


田中が、ぽつりと言った。


「林さん」


「何だ?」


「僕、工場に行くようになってから、学校の勉強もちょっと面白くなりました」


林は、顔を上げた。


「……そうか」


「はい。前は、何に使うのか分からなかったこともあったんですけど」


田中は、少し考えた。


「仕事で使うこともあるんだって分かってきて」


林は、ゆっくりうなずいた。


「……それは、いいことだな」


田中は、にっこり笑った。


「はい!」


夕方の道を、二人は並んで歩いていた。


林は、ふと昔のことを思い出した。


健治が、初めて働いてみたいと言い出した日のことだ。


あのときは、ただの思いつきだと思った。


すぐに飽きるかもしれない。


工場の大変さを知ったら、考え直すかもしれない。


そう思っていた。


ところが。


健治は、今も楽しそうだった。


もちろん、失敗もする。


学校の課題を忘れることもある。


予定をうまく立てられないこともある。


それでも。


一つずつ、覚えている。


できることが、少しずつ増えている。


林は、静かに笑った。


「……健治」


「はい?」


「お前、前より少し大人になったな」


田中は、目を丸くした。


「……本当ですか?」


「ああ」


田中は、少し考えた。


そして、うれしそうに笑った。


「ありがとうございます!」


林は、苦笑した。


「……礼を言うところか、それ?」


田中は、首をかしげた。


「違うんですか?」


林は、とうとう声を立てて笑った。


「ははは!」


田中も笑った。


二人の笑い声が、夕暮れの道に響いた。


*


それからの日々。


田中は、少しずつ自分の時間を管理できるようになっていった。


学校の課題。


登校日。


工場での職場体験。


家での勉強。


友人との時間。


もちろん、完璧ではない。


予定を詰め込みすぎることもある。


うっかり忘れることもある。


林に注意されることも、相変わらずだった。


しかし。


一度失敗したことは、ノートに残す。


次はどうすればよいか考える。


必要なら、人に相談する。


そして、またやってみる。


そんなことを繰り返していた。


一年が過ぎた。


また、一年が過ぎた。


田中の背丈は伸びた。


顔つきも、少しずつ大人びていった。


工場へ行けば、知っている人が増えていた。


山崎班長。


村上さん。


品質課の高橋さん。


保全課の藤原さん。


ほかにも、何人もの人たちが声をかけてくれるようになった。


「おう、田中君!」


「今日は何を見に来たんだ?」


「この前の話、覚えてるか?」


「またノートが増えたのか?」


田中は、そのたびに笑顔で答えた。


「はい!」


「ありがとうございます!」


「この前、教えていただいたことなんですけど!」


そして。


教えた人たちも、少しずつ変わっていた。


若い頃の話をする人がいた。


昔の失敗を教える人がいた。


仕事の工夫を説明する人がいた。


田中が理解したとき、うれしそうに笑う人がいた。


いつの間にか。


工場は、田中にとって、もう一つの学校のような場所になっていた。


ただし。


そこで教えてくれる先生たちは、少々変わっていた。


作業着を着ている。


油で汚れた手をしている。


時には、ものすごく怖そうな顔をしている。


そして。


教え始めると、なかなか話が終わらない。


田中は、そんな先輩たちが大好きだった。


*


高校3年生の秋。


田中は、机に向かっていた。


目の前には、進路に関する資料が置かれている。


通信制高校での学習も、卒業が見えてきた。


その先を、どうするか。


田中は、しばらく考えた。


そして。


一冊のノートを開いた。


あの、最初のノートだった。


『工場で聞いてみたいこと』


ページは、もうずいぶん古くなっていた。


最初の方には、幼い字で質問が書かれている。


『工場では、どんな人が働いているのか?』


『仕事は、どうやって覚えるのか?』


『初めての人は、何から始めるのか?』


田中は、その文字を見つめた。


そして、小さく笑った。


「……懐かしいなあ」


あの頃は、何も知らなかった。


今も、知らないことはたくさんある。


けれども。


少しだけ、分かるようになったこともある。


仕事を覚えるのには、時間がかかる。


一人ではできないこともある。


教えてくれる人がいる。


助けてくれる人がいる。


そして。


できるようになると、うれしい。


田中は、ノートを閉じた。


しばらく考えてから、スマートフォンを取り出した。


連絡先を開く。


林修一。


あのとき、最初に相談した人。


田中は、メッセージを打った。


『林さん』


少しして、返事が来た。


『おう、どうした?』


田中は、ゆっくり入力した。


『僕、正式に工場で働きたいです』


送信。


しばらくして。


返事が来た。


『……今度は本気で就職か?』


田中は、にっこり笑った。


そして、返事を打った。


『はい!』


数秒後。


『そうか』


少し間を置いて。


『じゃあ、今度は採用試験だな』


田中は、画面を見つめた。


そして。


「……あっ」


思わず声が出た。


そうだった。


会社で働くには、正式な採用試験がある。


今までの職場体験とは違う。


田中は、しばらく考えた。


そして、笑った。


「……また、勉強することが増えたなあ」


その顔は、少しも嫌そうではなかった。


――第11章・完

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