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第12章 田中君、気がつけば正社員

〜採用試験に合格したら、今度は本当の仕事が始まった〜


「……お前、緊張してるのか?」


林修一は、目の前の田中健治を見た。


田中は、少しだけ顔をこわばらせていた。


高校3年生。


18歳。


数年前、工場で働いてみたいと言い出した少年は、すっかり青年らしい顔つきになっていた。


もっとも。


中身は、あまり変わっていない。


相変わらず好奇心旺盛。


人懐っこい。


そして、少々天然だった。


ただし、今日はいつもと違った。


服装は、きちんとしたスーツ。


髪も整えている。


手には、応募書類の入ったバッグ。


今日は、正式な採用選考の日だった。


「……林さん」


「何だ?」


「ちょっと緊張してます」


林は、笑った。


「そりゃそうだろ」


「はい……」


「いつもの元気はどうした?」


田中は、少し考えた。


そして、ぽつりと言った。


「……工場見学のときより、ずっと緊張します」


林は、声を立てて笑った。


「ははは! 当たり前だ!」


田中は、少し困ったように笑った。


「ですよね……」


林は、田中の肩を軽く叩いた。


「まあ、いつもどおりでいいんじゃないか」


「いつもどおり、ですか?」


「ああ」


「……質問してもいいんですか?」


林は、一瞬、動きを止めた。


そして。


「面接官に質問攻めするなよ!」


田中は、目を丸くした。


「しませんよ!」


林は、少し安心した。


ところが。


田中は、続けた。


「聞かれたことに答えて、最後に分からないところだけ聞きます!」


林は、ゆっくり天井を見上げた。


「……そうかい」


まあ。


それなら大丈夫だろう。


たぶん。


*


面接会場。


田中は、椅子に座っていた。


目の前には、採用担当者と、現場部門の管理職。


もちろん、今回の選考は正式な採用手続きに沿って進められていた。


田中が昔から工場見学に来ていたことは、採用を保証するものではない。


採用基準。


必要な能力。


適性。


本人の希望。


それらを確認した上で、判断される。


田中自身も、そのことは理解していた。


だからこそ。


今日は、いつも以上に真剣だった。


「田中さん」


「はい!」


「まず、志望動機を聞かせてください」


田中は、少し姿勢を正した。


「はい」


そして、ゆっくり話し始めた。


「僕は、中学3年生の頃から、工場の仕事に興味がありました」


面接官は、うなずいた。


「そうなんですね」


「はい。最初は、働く人たちが何をしているのか知りたくて、工場見学をお願いしました」


田中は、少し笑った。


「そのとき、山崎班長さんに案内していただいて、いろいろな仕事があることを知りました」


「なるほど」


「それから、学校の勉強を続けながら、職場体験にも参加させていただきました」


面接官は、手元の資料を確認した。


「そうですね。何度か参加されていますね」


「はい」


田中は、うなずいた。


「村上さんに、部品の確認の仕方を教えていただいたり、品質課の高橋さんや保全課の藤原さんにも、いろいろ教えていただきました」


面接官は、少し笑った。


「ずいぶん、いろいろな部署を見てきたんですね」


「はい!」


田中は、少し照れたように笑った。


そして、続けた。


「でも、まだ知らないことが、たくさんあります」


面接官は、顔を上げた。


田中は、真剣な顔になった。


「だから、これからも教わりながら、少しずつ仕事を覚えていきたいと思っています」


面接官は、ゆっくりうなずいた。


「なるほど」


田中は、少し間を置いた。


そして。


「それと……」


「はい?」


「いつか、僕も誰かに教えられるようになりたいです」


面接官の手が止まった。


田中は、少し照れたように笑った。


「今まで、たくさんの人に教えていただいたので」


静かな声だった。


けれども。


その言葉には、妙な飾りがなかった。


「僕も、誰かの役に立てるようになりたいです」


面接官は、しばらく田中を見つめた。


そして、静かにうなずいた。


「……分かりました」


*


面接が終わったあと。


田中は、会社の外で大きく息を吐いた。


「……はあ」


林が、少し離れたところで待っていた。


「おう。終わったか」


「はい!」


「どうだった?」


田中は、少し考えた。


そして。


「……難しかったです」


林は、笑った。


「そりゃそうだろ」


「でも、聞かれたことには答えられたと思います」


「そうか」


「はい」


田中は、少しだけ安心したように笑った。


林は、その顔を見て、静かにうなずいた。


「……まあ、あとは結果を待つだけだな」


「はい」


田中は、空を見上げた。


秋の空は、高く澄んでいた。


工場見学に来た頃とは、ずいぶん違う。


あのときは、ただ興味があるだけだった。


今は。


ここで働きたいと思っている。


その気持ちが、自分でも少し不思議だった。


*


数週間後。


田中家。


夕方。


田中は、郵便受けから一通の封筒を取り出した。


差出人は、応募した会社だった。


田中は、しばらく封筒を見つめた。


そして。


「……来た」


小さくつぶやいた。


部屋へ戻り、机の上に封筒を置く。


一度、深呼吸した。


それから、ゆっくり開いた。


中には、採用選考の結果が入っていた。


田中は、文字を追った。


一行。


二行。


三行。


そして。


「…………」


動きが止まった。


もう一度読む。


間違いない。


「……合格」


しばらくして。


「……合格した!」


田中は、立ち上がった。


「やったあ!」


声が、家中に響いた。


母親が廊下から顔を出した。


「健治、どうしたの?」


「合格した!」


「あら!」


母親の顔が明るくなった。


「よかったじゃない!」


「うん!」


父親も、奥の部屋から出てきた。


「何だ、騒がしいな」


「父さん! 採用試験、合格した!」


父親は、少し驚いた。


そして、ゆっくり笑った。


「……そうか」


田中は、うなずいた。


「うん!」


父親は、息子の肩を軽く叩いた。


「おめでとう」


「ありがとう!」


母親も笑った。


「よかったわねえ」


田中は、何度もうなずいた。


「うん!」


しばらくして。


父親が、少し真面目な顔になった。


「健治」


「何?」


「これからは、見学でも体験でもないぞ」


田中は、顔を上げた。


「……うん」


「会社の一員として、仕事を任されるんだ」


「うん」


「責任も増える」


「……うん」


父親は、しばらく息子を見つめた。


そして、少し笑った。


「まあ、お前なら大丈夫だろ」


田中は、目を丸くした。


「……本当?」


「ああ。ただし、分からないことは、ちゃんと聞けよ」


田中は、にっこり笑った。


「うん!」


母親が、横から言った。


「それと、学校の卒業も忘れないでね」


「…………」


田中は、動きを止めた。


母親は、笑った。


「まだ卒業してないんだから」


「……はい」


父親が、声を立てて笑った。


「ははは!」


田中も、少し照れたように笑った。


「……気をつけます」


*


その日の夜。


田中は、林へ電話した。


「林さん!」


「おう、どうした?」


「合格しました!」


電話の向こうが、少し静かになった。


そして。


「……そうか」


林の声が聞こえた。


「おめでとう、健治」


田中は、うれしそうに笑った。


「ありがとうございます!」


林は、少し考えた。


そして、ぽつりと言った。


「……早いもんだなあ」


「何がですか?」


「お前が、初めて働いてみたいって言い出してから、もう何年も経つんだなって」


田中は、少し黙った。


そして、笑った。


「……そうですね」


林は、続けた。


「あのときは、正直どうなるかと思ったよ」


「そうなんですか?」


「当たり前だろ。中学生が突然、働いてみたいって言い出したんだから」


田中は、声を立てて笑った。


「あはは!」


林も笑った。


「しかも、お前の親は妙に落ち着いてるし」


「そうでしたっけ?」


「そうだったよ!」


二人は、しばらく笑っていた。


そして。


林が、少し真面目な声になった。


「……健治」


「はい?」


「これからは、本当の仕事だぞ」


「はい」


「分からないことも、失敗することもある」


「はい」


「でも、教えてくれる人はいるからな」


田中は、静かにうなずいた。


「……はい」


林は、少し笑った。


「まあ、お前なら大丈夫だろ」


田中は、うれしそうに笑った。


「ありがとうございます!」


そして。


少し間を置いて、付け加えた。


「林さん」


「何だ?」


「これからも、よろしくお願いします!」


林は、しばらく黙った。


そして、笑った。


「……おう」


短い返事だった。


けれども。


その声には、どこかうれしそうな響きがあった。


*


翌日。


工場の休憩室。


山崎班長が、村上へ声をかけた。


「おい、村上」


「何だ?」


「田中君、採用試験に合格したそうだぞ」


村上の手が止まった。


「……そうか」


山崎は、少し笑った。


「うれしいだろ?」


村上は、缶コーヒーを持ち上げた。


「……まあな」


山崎は、にやりとした。


「何だ、その返事は」


村上は、少し考えた。


そして、ぽつりと言った。


「……ちゃんと仕事を覚えてくれるといいな」


山崎は、うなずいた。


「ああ」


村上は、続けた。


「見学や体験とは違うからな」


「そうだな」


「これからは、厳しいことも教えなきゃならん」


山崎は、少し笑った。


「お前なら、ちゃんと教えるだろ」


村上は、しばらく黙った。


そして。


「……まあな」


小さく笑った。


その顔には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。


*


同じ頃。


品質課では、高橋が保科品質部長へ報告していた。


「部長、以前職場体験に来ていた田中君、採用試験に合格したそうです」


保科は、顔を上げた。


「……ああ、田中君ですか」


「はい」


保科は、少し笑った。


「それは、よかったですねえ」


高橋も、うなずいた。


「ええ。本人も喜んでいると思います」


保科は、静かに微笑んだ。


「……そうでしょうねえ」


そして、少し考えた。


「でも、これからは正式な社員になるわけですから」


「はい」


「今までとは違う責任もありますね」


高橋は、うなずいた。


「そうですね」


保科は、穏やかに笑った。


「ぜひ、しっかり育ってほしいものです」


*


一方。


営業部では、黒田部長が白木技術部長へ電話していた。


「おい、白木!」


「何だ、騒々しいな」


「例の田中君、合格したんだって?」


白木は、少し笑った。


「ああ。そうらしいな」


黒田は、声を立てて笑った。


「ははは! よかったじゃないか!」


白木は、うなずいた。


「そうだな」


黒田は、少し考えた。


そして、にやりと笑った。


「……で?」


「何だ?」


「いつ営業に回してくれるんだ?」


白木は、目を丸くした。


「……おい」


「何だよ」


「まだ入社もしてないだろ!」


黒田は、笑った。


「ははは! 冗談だよ!」


白木は、深いため息をついた。


「……まったく」


黒田は、少し真面目な声になった。


「でも、いいじゃないか」


「ああ」


「現場の人たちが、あれだけ教えたがる子なんだろ?」


白木は、少し笑った。


「そうだな」


黒田は、続けた。


「なら、これからは教わったことを仕事で使う番だな」


白木は、ゆっくりうなずいた。


「……その通りだ」


三人の部長たちも、田中の成長を静かに見守っていた。


ただし。


仕事で特別扱いするつもりはなかった。


採用された以上、一人の社員である。


できること。


できないこと。


覚えるべきこと。


守らなければならないこと。


それらは、ほかの社員と同じだった。


それでも。


あの少年が、いよいよ正式な社員になる。


そのことを、少しだけ楽しみにしているのは確かだった。


*


春。


高校を卒業した田中健治は、正式に会社へ入社した。


入社式。


新入社員研修。


安全教育。


会社の規則。


覚えなければならないことが、山ほどあった。


田中は、真剣な顔で説明を聞いていた。


そして。


何度もノートを取った。


隣に座っていた新入社員が、少し驚いた顔をした。


「……田中君」


「ん?」


「ずいぶん熱心だね」


田中は、少し笑った。


「そうかな?」


「うん。そんなにいっぱい書いてる人、あまりいないよ」


田中は、ノートを見た。


確かに。


ずいぶん書いていた。


「……あはは」


少し照れたように笑った。


「忘れちゃうともったいないから」


新入社員は、首をかしげた。


「……もったいない?」


田中は、うなずいた。


「せっかく教えてもらってるんだから」


新入社員は、少し驚いた。


そして、笑った。


「……なるほどね」


田中も笑った。


二人は、また前を向いた。


研修が続く。


田中は、ノートを開いた。


新しいページ。


そこに、大きく書いた。


『今日から、正社員』


少し考えた。


そして、もう一行。


『まだ知らないことがいっぱいある』


田中は、しばらくその文字を見つめた。


そして、にっこり笑った。


「……楽しみだなあ」


隣の新入社員が、思わず振り返った。


「……え?」


田中は、首をかしげた。


「何?」


「いや……」


新入社員は、少し笑った。


「何でもない」


どうやら。


この会社に、また一人。


少々変わった新入社員が入ってきたらしい。


*


その日の夕方。


田中は、工場の通路を歩いていた。


研修が終わり、帰宅するところだった。


すると。


「おう、田中君!」


聞き慣れた声がした。


山崎班長だった。


「山崎さん!」


田中は、笑顔で頭を下げた。


「今日から正式に入社しました!」


山崎は、声を立てて笑った。


「ははは! 知ってるよ!」


「よろしくお願いします!」


「おう。こちらこそな」


そこへ。


村上が、作業場所から顔を出した。


「……田中君」


「村上さん!」


田中は、うれしそうに駆け寄ろうとして、途中で足を止めた。


工場の通路で走ってはいけない。


以前、教わったことだった。


村上は、その様子を見て、少し笑った。


「……覚えてるじゃないか」


田中は、照れたように笑った。


「はい!」


村上は、うなずいた。


「入社、おめでとう」


田中は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます!」


山崎も、笑った。


「これからは、本当の仕事だぞ」


「はい!」


「今までみたいに、見学だけじゃ済まないからな」


「はい!」


「失敗することもあるし、注意されることもある」


「はい!」


山崎は、少し笑った。


「……返事だけは昔から立派だな」


田中は、きょとんとした。


村上が、思わず吹き出した。


「ははっ」


山崎も笑った。


田中は、二人の顔を見た。


そして、少し照れたように笑った。


「……あはは」


そのとき。


林が、通路の向こうから歩いてきた。


「おーい、健治!」


「林さん!」


林は、田中の顔を見た。


そして、山崎班長と村上へ軽く頭を下げた。


「お疲れさまです」


「おう、林」


山崎が笑った。


「お前の弟分、とうとう正社員になったぞ」


林は、少し笑った。


「……そうですね」


村上も、うなずいた。


「これからは、仕事を覚えてもらわんとな」


田中は、真剣な顔になった。


「はい!」


林は、その顔を見て、少しだけ昔のことを思い出した。


あの冬の日。


中学生だった健治が、突然言った。


『林さん、僕、働いてみたいんです!』


あのときは、頭を抱えた。


どうして俺に相談するんだ。


まだ中学生だろ。


高校はどうする。


仕事の大変さを分かっているのか。


いろいろ考えた。


まゆみに相談した。


佐藤さんにも相談した。


白木部長へ話を持っていった。


工場見学が決まった。


山崎班長が案内してくれた。


村上さんが教えてくれた。


品質課や保全課の人たちも、面白がって相手をしてくれた。


そして。


気がつけば。


あの少年は、ここまで来ていた。


林は、静かに笑った。


「……健治」


「はい?」


「入社、おめでとう」


田中は、少し驚いた顔をした。


そして、満面の笑みになった。


「ありがとうございます!」


林は、うなずいた。


「これからも、よろしくな」


「はい!」


田中は、元気よく答えた。


「こちらこそ、よろしくお願いします!」


山崎班長が、声を立てて笑った。


「ははは!」


村上も、少し笑った。


林は、苦笑した。


「……まったく」


少し間を置いて、続けた。


「お前、ほんとに働くことになったな」


田中は、うなずいた。


「はい!」


そして。


あの頃と、まったく変わらない笑顔で言った。


「林さん!」


「何だ?」


「僕、まだまだ知らないことがいっぱいあるんです!」


林は、少し嫌な予感がした。


「……おう」


「これから、いろいろ教えてください!」


林は、ゆっくり天井を見上げた。


「……やっぱり、そうなるのか」


山崎班長が、声を立てて笑った。


村上も、笑った。


田中だけが、不思議そうな顔をしていた。


「……何がですか?」


林は、とうとう吹き出した。


「ははは!」


夕方の工場。


機械の音。


作業者たちの声。


いつもと変わらない、仕事終わりの風景。


その中に。


新しい社員が一人、加わった。


田中健治、18歳。


まだ何も知らない。


できないことも、たくさんある。


それでも。


教えてくれる人がいる。


話を聞いてくれる人がいる。


失敗したときに、何が間違っていたのか一緒に考えてくれる人がいる。


そして。


できるようになったとき、一緒に喜んでくれる人がいる。


田中は、そんな人たちに囲まれていた。


もちろん。


本人は、自分がどれほど恵まれているのか、まだ十分には分かっていなかった。


ただ。


仕事を覚えることが、楽しみだった。


昨日できなかったことが、今日できるようになる。


今日分からなかったことが、明日には少し分かるようになる。


そんな日々が、これから始まる。


田中は、工場の出口で振り返った。


そして、少しだけ頭を下げた。


「……よろしくお願いします」


誰に言ったのか。


自分でも、よく分からなかった。


山崎班長か。


村上さんか。


林さんか。


それとも。


これから始まる、新しい毎日へ向けてだったのか。


ただ。


その声は、妙にうれしそうだった。


春の夕暮れ。


田中健治の社会人生活が、静かに始まった。


そして、このときの田中は、まだ知らなかった。


これから先、仕事だけでなく、料理や趣味、日常のささいな出来事からも、数え切れないほどのことを学ぶようになることを。


失敗しては、試す。


分からなければ、聞く。


できるようになれば、また挑戦する。


そんな毎日を重ねるうちに。


いつしか、自分でも気づかないほど多くの経験が積み重なっていく。


そして、十数年後。


田中は、まったく新しい存在と出会うことになる。


人間ではない。


けれども、言葉を交わし、質問に答え、考える手助けをしてくれる存在。


生成AI。


しかし。


その出会いは、まだずっと先の話。


今は、ただ。


一人の青年が、初めて正社員として工場の門をくぐった。


それだけだった。


――第12章・完

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