第10章 三人の若き部長たち
〜白木・黒田・保科、同期三人が見つめる少年〜
「……白木」
黒田営業部長は、会議室の椅子に深く腰掛けていた。
「何だ?」
白木技術部長が、資料から顔を上げる。
黒田は、少し笑った。
「最近、お前のところに面白い子が来てるらしいな」
白木の手が止まった。
「……面白い子?」
「ああ。中学生の頃から工場に来てたっていう」
白木は、少し考えた。
そして、笑った。
「ああ。田中君か」
黒田は、にやりとした。
「そうそう。その田中君だ」
白木は、資料を閉じた。
「……何でお前が知ってるんだ?」
黒田は、肩をすくめた。
「営業にも耳はあるんだよ」
「……何だそれ」
「現場の人たちが話してたんだ。ずいぶん評判がいいらしいじゃないか」
白木は、少し笑った。
「まあな」
黒田は、興味深そうに身を乗り出した。
「どんな子なんだ?」
「……好奇心旺盛な子だよ」
「ほう」
「でも、ただ質問が多いわけじゃない」
黒田は、眉を上げた。
「どういうことだ?」
白木は、少し考えた。
「教えたことを、ちゃんと聞くんだ」
「……それだけか?」
「それだけじゃない。自分で考えて、分からないところを聞く。教わったことを試して、できるようになると報告に来る」
黒田は、しばらく黙った。
そして。
「……ははは!」
声を立てて笑った。
「そりゃ、教える側は楽しいだろうな!」
白木も、少し笑った。
「そうなんだよ」
*
会議室には、もう一人いた。
保科品質部長。
穏やかな表情で、手元の資料を確認していた。
白木、黒田、保科。
三人は同期入社だった。
それぞれ異なる部門で経験を積み、若くして部長職を任された人物たちである。
当時、三人とも40代前半。
仕事では、それぞれの立場から厳しい判断を求められる。
営業。
技術。
品質。
考えることは違う。
重視するものも違う。
時には、意見が真っ向から対立することもある。
しかし。
長年の付き合いがあるからこそ、互いの能力はよく分かっていた。
そして。
同期同士の会話には、遠慮がなかった。
「白木さん」
保科が、穏やかに口を開いた。
「その田中君、品質課にも来ていましたよ」
白木は、顔を上げた。
「……そうなのか?」
「ええ。高橋さんから話を聞きました」
黒田が、にやりとした。
「おいおい。もう品質まで回ってるのか」
白木は、苦笑した。
「……見学の範囲が広がっただけだ」
保科は、少し笑った。
「でも、なかなか面白い子ですねえ」
黒田は、声を立てて笑った。
「ほら見ろ!」
白木は、腕を組んだ。
「……何がだ」
「お前だけじゃなく、保科まで面白がってるじゃないか!」
保科は、穏やかに笑った。
「ふふっ。そうですねえ」
*
黒田は、少し真面目な顔になった。
「それで、その子は何がそんなに面白いんだ?」
白木は、少し考えた。
「……技術的な知識があるわけじゃない」
「ああ」
「当然、仕事ができるわけでもない」
「まあ、中学生だったんだからな」
「ただ、知らないことを知ろうとする姿勢がある」
黒田は、うなずいた。
「ほう」
「説明を聞いて、自分なりに考えて、分からないところを聞く」
保科も、うなずいた。
「品質課でも、そうだったようですよ」
白木は、保科を見た。
「そうなのか?」
「ええ。高橋さんが、検査の説明をしたそうです」
保科は、少し笑った。
「見た目だけで判断してはいけないことを教えたら、ちゃんと理解しようとしていたそうです」
黒田は、少し考えた。
「……なるほどな」
そして、にやりと笑った。
「それ、営業でも大事だぞ」
白木は、眉を上げた。
「営業?」
「ああ。顧客の話をちゃんと聞くことだ」
黒田は、椅子の背もたれに体を預けた。
「相手が何に困ってるのか分からなきゃ、何を提案すればいいのかも分からんだろ」
白木は、うなずいた。
「……まあ、そうだな」
「話を聞かずに、自分の売りたいものだけ押しつけても駄目だ」
保科も、静かにうなずいた。
「品質でも同じですねえ」
黒田が、顔を向けた。
「ほう?」
「現場の人から異常の報告があったとき、まず話を聞かなければなりません」
白木も、うなずいた。
「技術でもそうだ。設備の問題を調べるとき、現場の話は重要だからな」
三人は、しばらく黙った。
そして。
黒田が、少し笑った。
「……何だ」
白木が顔を上げる。
「何だよ」
「俺たち、みんな同じこと言ってるじゃないか」
保科が、くすくす笑った。
「そうですねえ」
白木も、少し笑った。
「……確かにな」
立場は違う。
専門分野も違う。
けれども。
相手の話を聞き、状況を理解する。
その大切さは、三人ともよく知っていた。
*
黒田は、少し考えた。
そして、突然言った。
「……よし」
白木が、嫌な予感を覚えた。
「……何だ?」
「その田中君、今度は営業の仕事も見せてやるか」
白木は、目を丸くした。
「……おい」
「何だよ」
「お前まで乗るな」
黒田は、笑った。
「だって面白そうじゃないか!」
保科も、穏やかに笑った。
「ふふっ。いいかもしれませんねえ」
白木は、保科を見た。
「……お前まで」
黒田は、ますます楽しそうだった。
「技術も品質も見たんだろ? だったら、営業の仕事も知った方がいい」
白木は、腕を組んだ。
「……まあ、それはそうだが」
「だろ?」
「ただし、見学するにも会社としての手続きが必要だぞ」
黒田は、うなずいた。
「分かってるよ」
保科も、静かに続けた。
「それに、顧客情報や機密情報は見せられませんからねえ」
「当然だ」
黒田は、笑った。
「社外へ連れて行くわけじゃない。営業の仕事って何をしているのか、安全な範囲で話してやればいい」
白木は、少し考えた。
確かに。
工場で作ったものが、どこへ行くのか。
誰が買うのか。
顧客が何を求めているのか。
そうしたことも、仕事の一部だった。
田中が知りたがっているのは、工場の機械だけではない。
働く人たちの仕事そのものなのだ。
白木は、ゆっくりうなずいた。
「……まあ、機会があればな」
黒田は、にやりと笑った。
「よし、決まりだな!」
「決まってない!」
保科が、声を立てずに笑った。
「ふふふ」
白木は、深いため息をついた。
(……まったく)
同期というのは、こういうところが厄介だった。
*
しばらくして。
会議の本題が始まった。
営業部門の新しい提案。
技術部門の生産能力。
品質部門の確認事項。
三人の表情が、自然と引き締まっていった。
黒田が、資料を指さした。
「この数量なら、来月から対応できるか?」
白木は、すぐには答えなかった。
「設備の稼働状況を確認する必要がある」
黒田が、眉を上げた。
「何とかならんのか?」
「何とかする前に、何ができるか確認するんだよ」
保科が、穏やかに口を挟んだ。
「品質側の確認も必要ですねえ」
黒田は、ため息をついた。
「……お前ら、厳しいなあ」
白木は、笑った。
「当たり前だろ」
保科も、静かにうなずいた。
「出荷してから問題が見つかっては困りますからねえ」
黒田は、しばらく二人を見つめた。
そして、少し笑った。
「……分かったよ」
三人は、また資料へ目を落とした。
同期だからといって、仕事で妥協するわけではない。
むしろ。
互いに遠慮なく意見を言えるからこそ、判断の質が高まることもある。
それが、三人の関係だった。
*
会議が終わったあと。
黒田は、資料を片づけながら言った。
「……ところで白木」
「何だ?」
「例の田中君、今度いつ来るんだ?」
白木は、顔を上げた。
「……お前、本気か?」
「当たり前だろ」
黒田は、笑った。
「一度、話してみたいじゃないか」
保科も、穏やかにうなずいた。
「私も、少し興味がありますねえ」
白木は、二人を見た。
そして、苦笑した。
「……まったく」
最初は、林からの相談だった。
変わった中学生が、工場の仕事を見てみたいと言っている。
ただ、それだけの話だった。
ところが。
工場を見学し。
現場の人たちに教わり。
品質課や保全課にも興味を持ち。
いつの間にか、同期の部長たちまで話題にしている。
白木は、静かに笑った。
「……あいつ、本当に面白いやつだな」
黒田が、にやりとした。
「だろ?」
白木は、思わず笑った。
「お前、まだ会ってないだろ!」
黒田は、声を立てて笑った。
「ははは! それもそうだ!」
保科も笑った。
会議室に、三人の笑い声が響いた。
*
その頃。
田中健治は、自宅の机に向かっていた。
通信制高校の課題を終え、いつものノートを開いている。
今日、学校で習ったこと。
工場で見たこと。
山崎班長に教わったこと。
村上さんに教わったこと。
高橋さんに教わった検査の話。
藤原さんに教わった設備の音の話。
ノートには、少しずつ新しいページが増えていた。
田中は、鉛筆を動かした。
『分からないことは、分かる人に聞く』
少し考えた。
そして、もう一行。
『でも、教えてもらったら、自分でも考える』
田中は、その文字を見つめた。
「……うん」
満足そうにうなずいた。
そして、ノートを閉じた。
窓の外には、春の夜空が広がっていた。
田中は、少し笑った。
「次は、何を教えてもらえるんだろう」
もちろん。
自分が今、三人の部長たちの話題になっていることなど、まったく知らない。
黒田営業部長が会ってみたいと言っていることも。
保科品質部長が興味を持っていることも。
白木技術部長が、その成長を楽しみにしていることも。
何一つ、知らなかった。
ただ。
新しいことを知るのが楽しかった。
教わったことができるようになるのが、うれしかった。
そして。
その喜びを、誰かに伝えるのが好きだった。
それだけだった。
しかし。
その当たり前の行動が、少しずつ周囲の人たちを変えていた。
そして、いつの日か。
田中健治という名前は、この工場で働く多くの人たちにとって、聞き覚えのある名前になっていく。
まだ15歳の少年。
何もできない。
何も知らない。
けれども。
なぜか、みんなが教えたくなる。
そんな少年の物語は、まだ始まったばかりだった。
――第10章・完




