第8話:夢なら覚めないで
「ごめんね。さっきは取り乱しちゃって」
涙を拭きながら歩く彼女の横を同じペースで付いていく。
「いや、取り乱すなと言う方が無茶だ。十年前に死んだ人間がいるなんて考えられない」
むしろ取り乱すくらいで済んでよかったと思った。
人と場合によってはショック死を引き起こす可能性だってある。
「確かに考えられないね。一応聞いておくけどさ、ここが天国って訳じゃないよね?」
なるほど、ここが死後の世界という仮説か。
それはとても面白いが、証明する手段を持ち合わせていない。
だとすれば、これが現実であると受け入れる以外の選択はなかった。
「俺にとって、お前が目の前にいることが全てだ」
少しロマンチックな響きを持つ言葉であると自覚があった。
おかげで、発した声は徐々に尻すぼみになっていく。
そんな情けない姿を見た唯花はとても自然に笑みを浮かべた。
それはあの頃から変わらないもので、当たり前のように俺の胸をざわめかせる。
しかし、以前よりも彼女を見れなくなった。
身長も顔もほとんど一緒。
十年という時間は外見を著しく変えるものではないことを初めて知る。
だけれど、その細部や見えない箇所には確かにあの頃とは違っていた。
頬に乗せられたチークやアイメイク。
艶々としていて整えられた爪。
そのどれもが、魅力的な大人の女性を演出している。
だが、何よりも強烈に感じたのは先ほど彼女と急接近した時の匂いだった。
それを思い出すだけでクラクラする。
あれは芳香料だけで織り成せる代物ではない。
男を惑わせるために本能が作った一種の媚薬。
それが彼女の持つ美しさを何倍にも増幅させていた。
「ま、これが死後の世界だったら私はそれで満足だけどね」
そう発した彼女には以前まで感じ得なかった陰りが見えた。
人間、十年も生きていればそれなりの苦労があるだろう。
そう漠然と他人事のように考えていると、「ここが私の住んでいる家だよ。今は一人暮らしなんだ」と言って唯花は立ち止まった。
どこに向かって歩いているのかと思ったら自宅だったのか。
俺はそっと視線を正面に向ける。
だが、それだけでは物々しい壁しか見ることができない。
首を九十度、上方向に傾ける。
そうすることでようやく全体像を把握することができた。
「お前、ここに住んでんのか?」
それはこの町の庶民から「摩天楼」と俗な愛称で呼ばれている、言わばかなり目立つ高層マンションであった。
彼女の年齢は二十五歳だ。
社会に出たことがない俺にでも明確に分かる。
この年齢でこんな場所に住むなど、真っ当な金の稼ぎ方では到底不可能だ。
「お前、今何してんの?」
少しだけ声を震わせながら話しかけると、彼女は平然とした顔で「あぁ。今はそれなりの不動産会社に勤めていてね。このマンションを格安で借りれたんだ」と答えてくれる。
その後も話を聞いていたが出てくる名前は一流企業ばかりで、彼女が一気に遠い存在のように感じた。
昔から優秀だと知っていたが、ここまでの存在になっているとは思ってもいなかった。
この時、自分が高校受験に落ちたのは当然であると初めて実感してしまう。
自分の十年後を想像してみるが、唯花のように輝いているとは思えない。
地元の中小企業か、良くて地方公務員として気力なく働いている姿が薄っすらと見えるだけだ。
エントランスを通り抜け、エスカレーターで上層階まで辿り着くと、ここでようやく俺たちは足を止めた。
「散らかっているけど、ごめんなさい」
その発言に心が乱れて、咄嗟に「いや、お邪魔するつもりはないよ!」と手を振った。
唯花に限定されたことではなく、若い女性と閉ざされた空間で二人きりになるのは大きな抵抗がある。
何と言うか、犯罪的な匂いがする。
しかし、彼女は呆れた様子で溜息を吐くと「その様子だと、住む場所が無いんでしょ?」と俺の服を指さした。
雨と泥で汚れたシャツ。
目元につくった深いクマ。
血色の悪い肌。
そのどれもが俺の今置かれた状況を物語っている。
「いや、でも……」
それでもなお、遠慮と言うかプライドのようなものが邪魔をしていると急に唯花が俺の手を引っ張り部屋の中へ連れ込んだ。
するとそこには、お洒落な家具やぬいぐるみで装飾された内装が広がっている。
という事はなかった。
無駄に長い通路上に、パンパンのゴミ袋が乱雑に置かれている。
それだけではない。
溜まった服やペットボトルなどが至る場所に投げ捨てられており、配慮のため視線を逸らしても別なものが勝手に目に映った。
これは所謂、ゴミ屋敷である。
「いや、最初に伝えたでしょ? 散らかっているって」
確かにそれは事実だが、散らかるのにも程がある。
俺が送る軽蔑の視線からそっと目を逸らすと、「だって、本当に仕事が忙しいんだもん。家事とかやってる暇もなくてさ」と両手の人差し指をあてがった。
確かに社会人になれば時間の融通が利きにくくなるだろうが、それにしたって限度がある。
「おじさんとおばさんはこの惨状を知っているのか?」
そう尋ねると唯花は「分かってたら今頃実家だよ」と、なぜか自信満々に笑みを浮かべた。
それはそうだ。
そしてそれは最良の選択であると言える。
この状態は生活が崩壊していると言っても過言ではない。
「戻らないのか?」
「うん。お父さんとお母さんにこれ以上の心配を掛けたくないし」
彼女の顔に張り付いた一瞬の陰りと、言葉の端に存在する確かな不安。
それに気付きはするも、これ以上踏み入るのは間違っていると感じたため、これ以上の追及はしないことにした。
「明日は土曜だから休日だろ?」
そう尋ねると静かに彼女は頷いて、こちらを見る。
「だったら掃除しよう。二人掛かりなら、朝には終わる」
それを皮切りに俺たちは無心で作業に取り掛かった。
「ちょっと衣織、勝手に私の下着を触らないでよ!」
「あ? そんなこと言う暇があったら手を動かせ!」
こんな感覚、本当に久々であった。
何も雑念が入らないコミュニケーションは心底気持ちが良く、ゴミに囲まれていようとも正しく天国であった。
彼女は今、どのような感情を抱いているのだろう。
そんな風に淡い感情が心を温めてくれていると、唯花は突然叫び出した。
「うわ! 衣織、ゴキブリ! ゴキブリがいる!」
そのまま唯花は躊躇なく俺に飛びついてくる。
「なんで今さらゴキブリに驚くんだ! お前はずっと寝食を共にしていただろ!」
「認識するとしないでは大違いだよ! そんなことより、ほら! 早く取って!」
この広い部屋に二人の声が響き渡った。
それは別に、ポジティブな言葉ばかりを発している訳ではない。
罵詈雑言までとはいかなくても、ずっと思っていた事や不満が自然に溢れ出てくる。
それでも、そこに笑顔が絶えることはなく、二人の距離は確実に近づいていった。
「まぁ、ここまでくれば及第点だろう」
全てが綺麗さっぱりと片付けられた訳でないが、ごみの雪崩で死ぬ確率はゼロになった。
俺は空気の入れ替えをするためにカーテンを開ける。
すると朝日が差し込むのと同時に、無機質な部屋が急に生命を宿し始めた。
それと同時に、唯花がこちらをじっと見つめている。
「何かついてる?」
そう尋ねると彼女は静かに首を横に振った。
そして静かに「夢なら覚めないで」と独り言のように話す。
一体唯花とこの世界の間に何があったのだろう。
こんなにも彼女に求められる日が来るとは思ってもいなかった。
生気を取り戻した部屋を見ていると、再び彼女と一緒の空間にいる気まずさが込み上げてくる。
なので、唯花に対して別れの挨拶をしようとした時、彼女は「しばらく一緒に住もうよ」と提案する。
「え? 突然どうした?」
困惑する俺に対して彼女は「衣織は住むところが無いでしょ? 私は家事が苦手。だから、ウィンウィンの関係を築きたいと思って」と耳当たりの良い言葉を並べる。
「いや、確かにそうだけど……」
その提案を何となく理由を付けて断ろうとしたが、強引にこちらの手を握り「じゃあ決まりだね!」と言って、バルコニーのドアを開けた。
すると新鮮な空気が彼女の長い髪を持ち上げて、幻想的な風景を創造する。
それはまるで宗教画であり、俺はただ圧倒されて頷くことしかできなかった。
「テンション上がって来た! よし、再会を祝おうじゃないか!」
そう言うと彼女は戸棚からウイスキーを取り出して、グラスに丸い氷を一つ入れてゆっくりと注いでいく。
「衣織は……、飲んでみる?」
未成年に飲酒を進めるのは如何なものか。
俺は酒の楽しみを未来に取っておくことにして、隣で大人しく水を飲む。
匂いだけ嗅がせてもらったが、紅茶ととても似た色なのに全然違う。
バニラというか、レーズンっぽいというか。
甘いけれどもどこか品のある、だけれどアルコールの強い刺激も感じた。
これが大人の飲み物だという印象を受けたのと同時に、どこか寂しさを纏っている。
そんな悲しさが俺の瞼を静かに閉ざした。




