第5話:夢か現実か分からない。
俺はただ、目的も無く歩みを進めていた。
太陽はとっくの昔に沈んでおり、星々でさえ暗黒に飲み込まれている。
唯一の救いは今の時期が夏で、半袖であっても寒さを感じないことだ。
それ以外の状況としては最悪の極みであり、鉄のように重い心を引きずりながら足を動かしていた。
だけれど、そんな苦しみこそが俺の求めている物であったため、受け入れる以外の選択肢はない。
あぁ、誰でもいいから「カラン、コロン」と音がするこの頭をライフルで打ち抜いてくれないだろうか。
もしくは究極の疲労で死ぬことを望みながら、ただひたすらに前へと進んでいく。
死が欲しいのならこんな回りくどい事をせずとも、もっと確実な方法があるだろう。
高い場所から落ちるなり、首を吊るなり。
しかしそのどれもが怖く、そして痛そうであった。
俺は高い所が苦手で観覧車すら乗れない。
また、水泳の授業で溺れた経験から呼吸ができない苦しみは誰よりも知っている。
ただでさえ今が辛いのに、死ぬ瞬間も苦痛を感じるなんて絶対に受け入れられない。
終わりを求めるにしては理性的で、生きていくには我儘すぎる。
つまるところ、俺は誰かに構ってほしいだけのメンヘラ男に過ぎなかった。
ふと、点滅する黄色信号の光を頼りに懐中時計を眺めると短針は一二を指していて、俺が家を出てから数時間が経過していた。
現在の時刻を把握して意識がはっきりとしてきたのか、余計なことを考えられるようになる。
今から彼女に謝ることはできれば、壊れた関係を修復できるだろうか。
図々しくも、俺は既に許しを求めているらしい。
この懐中時計に触れると思い浮かぶのは唯花の顔だ。
しかしそれは淡いものではなく、正直に言って記憶から消したい代物であった。
そんな都合のいい自分に嫌気がさすと、行動に移すつもりが無いのに交差点を行き交う車に目を向ける。
この時間帯は制限速度を厳守する車は存在せず、欲望を剥き出しにしてハンドルを握るドライバーがほとんどだ。
車が通り過ぎた後に発生する人工的な風は無機質であり、心地よさを感じさせない。
例えそれが電気自動車であっても変わりはなかった。
「不快で痛い死に方なんて最悪だな」
俺は不意に独り言を漏らして、元来た道を戻ろうとした時、一人の老人が目に映った。
こんな暗がりでも不思議とハッキリ見える顔の皺に、不思議と疑問を抱く。
それは本当に些細なことであり、こんなことを深く考えるなんて自分は何て暇人なんだと思う。
それでも彼をじっと遠くから見つめていると、おかしな話だが目が合ってしまった。
こんなにも暗くて距離が離れているのにも関わらず、だ。
いや、そもそも目が合うという表現が間違っている気がする。
自分が認識できているのはあくまで顔に刻まれた皺だけであり、瞳の位置は分からなかった。
それなのに、不思議とお互いの視線は真正面からぶつかっていて、互いにその場で立ち尽くしていた。
気味が悪い。
つむじから足の先まで一気に鳥肌が立つと、再びその場を後にしようとする。
自分が見た老人は死神だったのだろうか。
死ぬのは怖くない。
だが、こんなファンタジーやホラーに溢れた恐怖は味わいたくなかった。
死を司る者ならばどうぞご自由に俺の命を奪ってくれ。
だがそこに余計な思考を与えるのは止めて欲しい。
これは深夜のノリと言うやつだろうか。
おそらく感情が高揚して空想に耽っていると、老人は杖で自分の体を支えながら横断歩道へと進入した。
のそのそと動くその姿は亀を連想させる。
しかし、重要なのは彼の速さではない。
その奥に光るトラックの存在であった。
その車はスピードを一切落とさず、そして老人を殺すことが目的であるかのように迷いなく直進している。
「大丈夫だよな? 気づいているよな?」
自分はそう呟いて見ぬふりをしようとする。
俺は何もしていないし何も悪くない。
今さら自分が行ったところで、結果は何も変わらない。
そこまで理解しながらも、体が勝手に動いていた。
俺は今、理性ではなく本能で生きていた。
まさか、待ってくれ。
もしかして、あの老人を助けようとしているのだろうか。
老い先短い人間の命を拾っても碌なことにならない。
税金は無駄に使われるし、電車で座っているときに目の前に立たれれば席を譲らなければいけないという強迫観念に襲われる。
何なら亡くなった時の保険金が入って、残された家族が幸せになる可能性だって考えられるぞ。
ここまで理解していた。
それなのに体を制御できないのは人のバグとしか言いようがない。
「じいちゃん、死んじゃうぞ!」
俺は老人に駆け寄って助けようとするが、いくら呼び掛けても碌な返事を寄こさず、じっと固まったままだった。
このままでは埒が明かないので彼を背負いながらこの場から離れようとするが、既にトラックは俺たちの目の前まで迫っている。
「全く、本当にクソみたいな人生だな」
諦めた瞬間と言うのは身体が完璧な脱力の状態になって、ベストな行動を選択してくれるらしい。
俺は老人だけでも助かって欲しいという思いで、彼の体をできるだけ強く突き飛ばした。
負けて、間違って、傷ついて。
勝利の美酒を味わうことなくこの世から去るだけでなく、よぼよぼ爺さんの身代わりになるとは。
せめてアニメの主人公のように可愛い女の子を救って死にたかった。
そんな馬鹿なことを考えながら死を迎えようとしたその時、老人の顔をはっきりと認識することができた。
それは死神と呼ぶには優し過ぎる表情をしていて、なおかつ心から満たされた笑みを浮かべていた。
全く。
将来有望ではないにしても一人の若者が死ぬのに嬉しそうな顔をしやがって。
そんな悪態を付くが、俺もそれに釣られて表情筋を緩めてしまう。
まあ、なんだ。
最後に人助けをできたし、何よりも不快な気分ではないから良いとするか。
勝手な納得であったが無理やりではない。
心は完全に満たされていた。
俺は一種の満足感に包まれながら最後の瞬間を迎えようとした時、「次は君の番だ」と老人が口にする。
「え?」
その言葉と共に周囲へと響く衝突音。
それは一人の若者の死を表しており、自分の人生はここで幕が下ろされる。
はずだった。
俺は本能で叫び声を上げ、少しでも恐怖を和らげようとする。
しかし、いつまでたっても強烈な痛みがやってくることはない。
もしかして、ギリギリで接触を回避したのか?
そう思って瞼を少しだけ開ける。
すると、まばゆい太陽が一気に瞳へと入り込んできた。
「まぶし!」
自分が発した言葉。
それが明らかに変だと気づくのに時間は掛からなかった。
「どうして、昼なんだ……?」
先ほどまでは夜であったのにも関わらず、なぜか太陽が完全に昇り切っている。
まさか、夢だったりするのか。
いや、そもそもどっちが夢だ。
いや、待て。
ここが死後の世界と言う可能性も考えられる。
俺は顎に手を当てブツブツ呟いていると、大きなクラクションが鳴り響いた。
「道路の真ん中で突っ立ってんじゃねぇ! 馬鹿野郎!」
「す、すみません!」
そう反射的に謝罪すると、慌ただしく向かいの歩道まで渡り切る。
そして無意識に深呼吸をして周囲を見渡すと、いつもの慣れ親しんだ町とはどこか様子と違っていた。
車道の一部が赤く塗装されていたり、信号の形がいつもと違う。
また、街路樹の一部が伐採されていた。
通学路ではないにしろ、普段利用している街の変化にこんなにも疎かっただろうか。
拭えない疑問を抱きながら、とりあえず自宅の方に向かって歩く。
すると、以前までは田んぼであった場所に新しめの飲食店が立ち並んでいた。
いくらテクノロジーが発展した現代においても、一日足らずで建物を建てるは流石に無理がある。
違和感の正体はそれだった。
町の全体的な雰囲気は変わっていない。
だけれど、間違い探しのように少しずつ何かが違っていた。
以前は新しかった外壁に錆が付いていたり、ビルに入っているテナントが変わっている。
まさか、そんなことが実際に有り得るのだろうか。
俺は自分の出した答えに半笑いを浮かべながら近くのコンビニに入る。
そして若い女性の店員に、「今は平成何年ですか?」と尋ねた。
すると汚いゴミを見つめるような目をして、「今は令和ですけど……」と口にする。
その言葉を聞いて、恐る恐るレジ後ろのカレンダーを確認した。
そこに書かれている月は同じであった。
しかし、明らかに違うのは西暦の数字である。
「ここは、十年後の世界だ……」
俺はそのまま頬を抓った。
そこには間違いなく痛みがあって、これは夢ではないことが分かる。
「は、ははは」
今、自分にできることは笑うだけだ。
「店長、ちょっと来てください! おかしな客がいます!」
頭では到底理解できないこの状況。
俺は静かにコンビニから出ると天を眺めた。
「どうなってるんだ!」
唐突に湧き出た叫び声によって、周囲の視線がこちらに集中する。
以前まではそれに怯えていたが、今は一切の恐怖を感じず、俺は人生で一番自由に振舞っていた。




