第20話:愛しているけども
「みてみて衣織、すっごく綺麗!」
かなり広めな駐車場に車を止めると、唯花は勢いよく飛び出した。
「待ってよ唯花!」
片道二時間のドライブの末にたどり着いたのは一切の淀みを感じさせない、真っ青な海だった。
目的地としてはありきたりだが、その分だけ確かな感動が待っている。
日々の疲れや汚れを癒す波の音と潮の香。
目の前の海の全てが体に吸収されていく感覚は何とも不思議であった
「私、ひっさびさに海を見た!」
それは俺も同様であった。
最後に来たのは中学一年生の頃だろうか。
いつものメンバーで夏休みの締めに電車で訪れた記憶がある。
「地平線の奥が見えそう。自由の女神を拝めるかな?」
いくら天候が良くて先を見通せても、流石にアメリカまでは不可能だ。
「確認出来て貨物船くらいだなぁ」
現に遠くの方へ船らしき存在を視認できた。
それは汽笛を鳴らして存在をアピールしている。
そんな他愛もない音であったが、海に来たという感覚を増長させるにはピッタリである。
俺たちは靴の中に入る砂を恐れずに、黄色のカーペットへ足を踏み入れた。
小さな粒だけではなく、貝殻や綺麗な石が辺りに散らばっている。
それらは宝石のような輝きを見せており、思わず拾い上げたくなるが、子供っぽいと言われそうなため伸びた手をグッと引っ込めた。
浅瀬に近づいていくと、唯花は煩わしいと言わんばかりに靴と靴下を投げ捨てて、海の中に足を入れる。
「冷たっ!」
そう言いながらも、無邪気な笑顔を見せて水面を強く蹴り上げた。
「衣織もおいでよ、気持ちいいよ!」
誰よりも輝くその笑顔に誘われる。
足を見るといつの間にか裸足になっており、濡れた砂の上にポツンと立っていた。
そして一歩進むごとに足裏から伝わる感覚は柔らかくなっていく。
あぁ、生きててよかった。
俺は胸の上に手を置いて、今ある鼓動に深く感謝する。
もし、あの時タイムスリップをしなければ、こんな気分を味わうことはできなかった。
「ね? 気持ちいいでしょ?」
自分の事を真っすぐ見つめるその瞳に、青が反射している。
どこまでも澄んだ海を唯花は自分の物にしてしまっていた。
いや、それは誤解を生む表現になる。
海は自分から彼女の物になったのだ。
唯花は今までで最も無邪気に笑い、そしてはしゃいでいた。
目の前にいるのは十歳も離れた大人のはずだ。
それなのに自分より明らかに子供っぽい。
これが童心に帰るというやつなのだろうか。
テンションの上がる彼女は俺に向かって水を掛けた。
それに対して何もしないのは味気が無い。
俺はすぐさま反撃をすると、彼女の着ていた白いシャツが透けてピンク色の下着が透けてしまう。
それに気を取られていると、どこから持ってきたか分からないバケツで顔面に海水を掛けられた。
何も準備をしていない体は簡単に揺らぐと、そのままバランスを崩して海の中に倒れ込む。
ボコボコと音が鳴り、視界は淡くぼやけている。
その全てが幻想的で、このまま死を迎えても悪くない。
俺は心からそう思うことができた。
それでも、それを許さないと言わんばかりに唯花の手が現れると、思い切り腕を引っ張られる。
「大丈夫、衣織!?」
海面から顔を出すと、心配した様子の彼女の顔が映った。
「うん。平気」
そう言って笑ったが、それは悪戯を思いついたからだ。
彼女の手を掴んで、それを自分側に強く引っ張った。
すると彼女もまた海の中に顔を埋めることになる。
「ちょっと、いきなり何するの!」
唯花は水面から顔を上げると、驚きと怒りが混じったような表情をこちらに向けてくる。
しかし、そんな顔を無視して髪の毛に釘付けになった。
いつもと同じ濡れた髪だが風呂上りとは明らかに違う。
まるでダイヤのように輝くそれは罪と呼べるほど美しく、この世の男性の喉から声を奪ってしまうほどの魅力を持ち合わせていた。
その例に漏れることなく、俺は彼女のことをじっと見つめている。
「どうしたの衣織、何かついてる?」
不審がる彼女の頬へ自然に手が伸びた。
しかし、そこからは触れたという感覚しか得られず、温度は感じない。
すなわち、俺と唯花の温度は限りなく等しいものになっていた。
ここで、あの言葉を伝えられたのなら。
この先の淡い未来を想像して胸が高まると、ようやく彼女の存在を皮膚から認識することができた。
だけれど、強烈な理性を持って口をつぐむ。
これは夢物語も良いところで、自分の欲望のために唯花という人間の一生を犠牲にしたくはない。
「ちょっと、寒くなって来たね」
そんな他愛もない嘘を吐いて、ようやく彼女の頬から手を離して背中を向けた。
俺は自分の中で這いずる悪魔を忘れるため、今日の献立を必死に考える。
冷やし中華か、麻婆豆腐。もしくはゴーヤチャンプルでも悪くない。
余計なことを考えていると、徐々に唯花が消えていく。
それに一抹の安堵を感じた時、彼女の腕と胸が俺の体を縛り付ける。
誰にも、取られないように。
「好き。ずっと昔からあなたが大好きです」
その好意にはずっと前から気づいていた。
家に泊めてくれているのも、ご飯を美味しいと言ってくれるのも、イヤリングを受け取ってくれたことも。
そのすべてが真っすぐな笑顔で満ちており、距離を感じさせるような陰りは一ミリだってない。
俺は彼女からの告白にすぐにでも「イエス」と答えたかった。
今すぐお互いの気持ちを確かめ合って、永遠の時を共に生きたい。
心が期待と幸福によって満ち満ちていたが、一瞬にして脳内に黒いノイズが過る。
するとあれだけ膨れ上がっていた気持ちは徐々に薄れていき、最終的には萎んだ風船のようなものが心に残った。
「唯花……、俺は……」
やっとの思いで言葉を発していると、彼女は正面に体を移す。
そして俺の瞳を手の平で隠すと、唇に柔らかいものがじんわりと密着していった。
溶けてしまいそうなくらい甘く、それと同じくらい臆病さを帯びたキスに目頭が熱くなる。
熱くなった目玉は冷却のために水を流し始めた。
それは勿論、海水などではない。
この光景を目にした唯花はとても後悔した様子で、「ごめんね、衣織! こんな私が勝手に告白しただけじゃなくて、キスもするなんて!」と俺の唇を強く拭う。
彼女の考えは誤解も良いところである。
人の表面だけでは正しさは伝わらない。
結局のところ、行動で示す以外にはなかった。
今度は自分から唯花の体を強く抱きしめる。
これだけで、誤解を解くには十分だった。
彼女は全てを理解したように、抱擁を返してくる。
そんな非日常が数分経過すると、「そろそろ、海からでよっか」と唯花に手を引っ張られながら砂浜まで戻った。
帰りの車の中では、俺たちの間に会話らしきものは見当たらなかった。
それは居心地の悪さや仲違いをしたわけではない。
ただ単純に言葉を必要としないだけであった。
静寂の中で聞こえる衣擦れや呼吸の音。
そのどれもが遊園地よりも楽しく、ミュージカルよりも華やかであると本気で思った。
「着いたよ。衣織」
彼女の喉から発せられる優しい響きによって目を覚ます。
俺はいつの間にか寝ていたらしい。
「ごめん。ずっと運転してもらって」
そう言うと唯花は「謝る理由なんてないよ。私の我儘に付き合ってもらったんだから」と言ってシートベルトを外す。
「最高の思い出をありがとう」
彼女はいつだって輝いている。
周囲が暗闇に吞まれようと、唯花の存在だけははっきりとわかる。
「こちらこそ、最高の思い出をありがとう」
こんな日々がずっと続きますように。
そんなことを思っていると、遠くでガラスが割れる音が聞こえた。
びっくりしてそちらを向くと、どうやら瓶入りのケチャップを誰かが落としたらしい。
そんな他愛のない日常の出来事にも関わらず、何者かに心臓を握られたような恐怖に襲われて、呼吸のリズムが徐々に狂っていった。




