第19話:チョコレートの余韻
「ねぇ、これ何?」
彼女の声で普段通りにベッドの上で目を覚ます。
いつもと異なるのは唯花が俺の身体の上で跨っていることと、お互いの唇が触れそうなくらい顔が近いことであった。
「唯花、近い」
恥ずかしさから視線を背けるが、彼女は一切こちらの話を聞くつもりはなく、「これ、何なの!?」と言ってそれ以上のアクションを起こそうとはしない。
「何なのと言われてもな……。少なくとも今はお前しか見えない」
すると唯花は状況を察したのか顔を赤らめて、ようやく俺の上から体を退かしてくれた。
「ごめん。取り乱した」
薄いピンク色の寝間着とボサボサの髪。
そんなだらしない格好も愛らしく、心を奪われる日々が続いていた。
「で、これって何だ?」
俺は自らの意思で本題に戻すと、彼女はすっと小さな箱を差し出す。
「ゴミ箱の中に入ってたんだけど」
唯花が手にしているのは以前購入したイヤリングだった。
本物と比較して落胆し、それはバッグの中に眠ったままにしていた。
別に存在を忘れていた訳じゃない。
捨てるのは勿体なくて、ただ単に放置していただけだ。
しかし、最近になってようやく決心が付いてゴミ箱に放り投げたのだが、まさか彼女に見つかるとは思ってもいなかった。
「これ、もしかして莉紗に渡そうとしてた?」
誰かに渡そうとしていた点については正解だが、相手については全くの見当違いだ。
俺はしばらく黙って唯花を見つめていると、「もしかして、別の女を連れ込んだりしてた!?」と肩を掴んでくる。
唯花の想像は妄想へと飛躍する。
しかし、できることなら真実は打ち明けたくなかった。
なぜなら、自分の情けなさを見せつけるようなものだし、彼女のプライベートにも深く関係するものであったから。
だが、これ以上変に詮索をされて事態が思わぬ方向に動くのは避けたかった。
そのため、説明をしようとするが、上手く言葉が出てこないため、沈黙が続くことになる。
それを黙秘の合図と感じた唯花は視線を下げて、「ごめんね衣織。詮索しすぎた」と背中を見せてこの部屋を出ようとする。
押し寄せる焦燥と共に目の端から色が消え失せていく。
この感覚は十年前に彼女と喧嘩別れした時とよく似ていた。
だからこそ、その後の結末を簡単に予想できるし、それに怯えることもできてしまう。
しかし、気持ちを伝えるための口が機能を果たせないのだからどうしようもない。
だけれど、諦める訳にはいかなかった。
様々な経験によって得られた踏ん張り力は、自然に行動へと移されることになる。
気づいた時には彼女の手を握って、扉を開けようとする行為を制止させていた。
普段はありえない自分からの接触に唯花は驚いた様子でこちらに首を回す。
自分の気持ちを伝える方法は一つではない。
「衣織……?」
動揺と不安を抱える彼女であったが、俺は一言も発することなく唯花を見続けた。
すると「もしかして、私に……?」と伝えたかったことを察してもらうことに成功する。
「うん」
それに彼女は眉をひそめて、「どうして捨てたか、聞いても良い?」と口にした。
俺はそれに頷いて、ようやく動き始めた口で説明すると、「やっぱ隠したいことに限って露見するんだよね」と諦めの表情を見せる。
「唯花、プロポーズを受け入れた?」
望んでいるが望んでいない。
こんなにも綺麗に矛盾を抱えられるのなら、少しくらいは清々しさがあっても良いと思う。
受験会場で合否を待つような緊張感を纏っていると、ようやく柔らかそうな唇が動き出した。
「薫君には申し訳ないけど断ったよ。結婚はまだ早い気がしてさ」
後頭部を触りながら照れを隠すように笑った。
彼女は嘘を吐くのが得意である。
しかし、それを勘定に入れても嘘を吐いているようには見えなかった。
「そう、なんだ」
表情を崩さない彼女とは反対に、顔の口角がほんの少しだけ上を向く。
「残念だ」とも「嬉しい」とも言わずにいると、パカッと箱を開けた音が聞こえる。
「あ、開けていいか聞いた方が良かった?」
俺は首を振り、それを否定すると喜びに満ちた表情でイヤリングを取り出した。
そんな安物のどこが良い。
あの指輪に比べたら鉄の塊に過ぎない。
溢れんばかりの悲観によって視界が歪められていった。
その錆びついたアクセサリーを付けたら唯花が汚れてしまうような気がして、「唯花、それやっぱ返して」とイヤリングに手を伸ばす。
しかし、それを予見していたかのように交わされると、なぜか唯花はそれを俺の前に差し出した。
「どうせだったら付けてよ」
彼女は無理やり手渡すと、無防備に髪を上げて可愛らしい耳を露にする。
その姿に性的な興奮を得るが、強烈な理性が発汗を伴いながらブレーキを掛けた。
唯花からの信用を汚すのなら、俺は死を選ぶ。
息を吐いて呼吸を整えると、ほぼ無意識にイヤリングを彼女の耳に付けてあげた。
するとこびりついていたはずの錆はいつの間に消えている。
もう片耳にも付けてあげると、今度は見えないほどの輝きを帯び始めて、俺は眩しさのあまり瞼を閉じてしまった。
「どう、似合ってる?」
彼女が振り向いた瞬間、その輝きはアクセサリーが放つものではない事に気が付く。
「最高に綺麗だよ。この世で、一番」
もう理性なんてものは役に立たない。
普段なら恥ずかしくて言えない言葉を自然と発してしまった。
その唐突な発言に髪の毛を忙しなく触りながら、「あり……がと」と口にする。
唯花の仕草を見ると、自分の発言を思い返して羞恥心が込み上げてきた。
こんな気まずい状況を打破したくて、適当な言葉を口から吐き出す。
「あ、もうすぐ昼だな! 飯作るよ!」
そう言って逃げ出そうとする午前十時半。
俺は昼食程度にどれだけ時間を掛けるつもりなのだろうか。
しかし、今が良くなるのなら多少の強引さや不自然さには目を瞑るべきだ。
そのまま解放される喜びに駆られて足取り軽くキッチンへ向かおうとするが、それを何故か唯花が止めに入る。
「待って」
待つのは構わないがこの空間で呼吸をし続けるのは至難の業だ。
だが、そこまで分かっていても唯花の命令に従って体を動かさない。
そして彼女も動かない。
何も話さない。
あぁ、これじゃあさっきの状況に逆戻りだ。
いや、むしろ悪化していると言っても過言じゃない。
生粋のヘタレである竹取衣織は進むことも戻ることもできない。
ただ、じっとその場で立ち止まっていると、金属同士が擦れあう音が聞こえた。
「ちょっと、海までドライブしよっか」
そんな居心地の良くない雰囲気は一つの提案によって打ち砕かれる。
「良いけど、車なんて持ってた?」
そう問いかけると、「近くのパーキングエリアに停めてるの。衣織が来るまでは一人でいろんなところに行ってたんだ」と得意になって鍵を指で回した。
ちょっと前までは自動車なんて大人の物だったのに。
ここでも劣等感というか、自分の無力さを覚えた。
しかし、ここは十年の月日が経っているのを思い出して、時間のギャップがあることをゆっくり認識していく。
そして落ち着いた口調で、「お茶を淹れるよ。ペットボトルのよりも美味しいから」と言ってキッチンへと向かった。
「私はアールグレイね」
そう注文を受けると、部屋いっぱいにベルガモットの香りを漂わせる。
自分の友人が運転する車に乗ることの期待と不安。
「唯花、事故ったことないよな?」
念のため彼女に確認をすると、親指を立てながら「大丈夫! 一回だけ田んぼに突っ込んだだけだから!」と衝撃の事実を口にする。
俺は今、自分が免許を保有していないことを心から後悔している。
もし過去へ戻れたのなら、絶対に免許を取ろう。
そう揺るがない決心をすると、ご褒美のために取っておいた高級チョコレートを戸棚の裏から取り出した。
それを自分と唯花の口に放り込む。
もしかすると、最後の晩餐になるかもしれないが、それにしては大分寂しげである。
しかし、きっとこれくらいが丁度いいのだろう。
「衣織。君の私に対する信頼度がヒシヒシと伝わってくるよ」
唯花はヒクヒクと目元を引きつらせるが、それを無視して甘みと苦みの複雑なバランスを味わった。
溶けていく高級チョコレートに儚さは感じさせない。




