第18話:嘘を丸ごと飲み込んで。
「はい、アルバイトご苦労様です」
そう言って雪子さん渡されるのは小さな茶封筒。
その中には現金が入っており、自分の努力が分かりやすい形で鎮座していた。
「ありがとうございます」
これが初めての正式な労働による対価であったため、想像以上の興奮が身体をポカポカと熱くさせる。
「初給料はどうだ?」
そう言って太助は俺の肩を揺する。
「めちゃくちゃ重くて、嬉しいよ」
すると彼も嬉しそうな顔をしながら、「おいおい、そんな笑顔になるほど入れたつもりはないぞ。間違えて札束でも入れちまったか?」と封筒を取り上げようとする。
「止めなさい。しっかり働いてもらった分、一円の過不足なく渡してるよ」
雪子さんはめん棒でこつんと彼の頭を叩くと、「で、俺も給料が欲しいんだけと」と呟いた。
すると彼女はとても良い笑顔を太助に向けながら、「知ってる? 役員に給料は出ないんだよ」と平気で嘘を吐く。
その横暴に「昭和よりもブラックだな……」と悲しそうな顔を見せた。
落ち込む彼を横目に、「お給料の使い道は決めてるの?」と雪子さんが訪ねてくる。
彼女の問いかけに、「はい」と明瞭な意思を持って頷いた。
そこに何かを感じ取ったのか、お節介な皺を目元に浮かべる。
「唯花さんに何か買ってあげるんだ?」
女の勘はここまで鋭いものなのか。
俺は少し照れながら「えぇ。いつも世話になっているので」と口にすると、指で横腹を突いてきた。
「もう、そんな顔しないでよ! 甘酸っぱ過ぎてこっちが恥ずかしくなってくる!」
顔を抑えて体を横に振る姿に、こちらも恥ずかしさが込み上げてくる。
一体、俺はどんな顔をしていると言うんだ。
そんなピンクと黄色が合わさった雰囲気に太助が「ゴホン」とわざとらしい咳をする。
「お前ら、もう少しで開店だぞ」
その指摘に雪さんはハッとして、「大変、お店にパンを並べなきゃ!」と言って慌ただしく動き始めた。
俺もそれに続くようにトングやトレイの準備を始めようとするが、彼に突然肩を組まれると、「で、何を買ってやるんだ?」と尋ねてきた。
どうやら一番浮かれているのはこの男らしい。
「おっさんみたいなことするなよ」
そう言って突き放すと、その言葉が想像以上の攻撃性を持っていたのか、しばらくその場で立ち尽くた。
そんな太助に目もくれず、時間は過ぎていくと退勤の時間を迎えることになる。
「お疲れさまでした!」
いつもより一オクターブ高い声で帰りの挨拶を済ませると、現金をポケットに入れて近くのラグジュアリーショップに向かう。
そこで以前から目を付けていたイヤリングを購入した。
給金だけでは少し足りず、唯花から貰った小遣いを合わせたのは情けないが、今回は目を瞑ることにする。
あぁ、一体、彼女はどんな表情を見せてくれるだろうか。
少なくとも、難色を示すことは無い。
それは自分のセンスを信じている訳ではなくて、唯花の優しさに甘え切ったものであった。
道中、誰に盗まれるわけでもないが、まるで国宝を扱うかのようにアクセサリーを持っていると、視界の端で見知った二人の存在を捉えた。
いや、捉えてしまったというのが適切だろうか。
今日は帰りが遅くなると聞いていた唯花といつもの薫。
二人は揃って洒落た雰囲気のあるレストランで酒と共に食事を取っていた。
それを確認してしまえば、木の陰に隠れてその動向を窺うのは必然と言える。
声は勿論聞こえない。
だけれど、手の動きや表情を見るだけで十分その心情を読み取ることが可能だ。
薫は真剣な顔をして唯花に何かを伝えている。
それを往なすように彼女は首を振るが、絶対に彼は諦めようとはしなかった。
手の上に手を乗せる。
正面切っての接触は愛情を伝えるのにピッタリだ。
すなわち、彼の胸の内に抱く感情を現在進行形でぶつけていた。
唯花が直ぐに手を払いのけないことにヤキモキしていると、薫はビジネスバッグから一つの箱を取り出した。
ぽさぽさしていて、深いネイビー色と金色のデザインを纏った箱。
それをゆっくり開くと、眩しいほど輝く銀色のリングが埋められていた。
「結婚してくれ」
実際に聞こえはしないが、唇の動きと今の状況を踏まえれば容易にその台詞を想像できる。
その衝撃的な言葉に彼女よりも先に俺が動揺を見せた。
それと同時に薫と自分を比較してしまい、全てが彼よりも劣っていることを理解してしまう。
自分の手元にあるイヤリングと本気の指輪。
それは天と地ほどの差があり、俺のアクセサリーは正しく玩具であった。
唯花の幸せを考えるならば、喜んで送りだすのが正解だ。
しかし、纏わりつくような負の感情が安々と消えたら苦労はない。
この不快な気分を拭いたくて、俺はこの場から立ち去った。
考えられる上で最も情けない行為。
敗者になるのを恐れて、現実を受け入れるのが怖くて、見ないだけでそれらが嘘だと信じる哀れな男。
自分の存在が許せない。
喉元をナイフで切り裂いて、真っ赤な血でこの罪を洗い流したかった。
月光はいつもより煌びやかに街を照らしている。
それを彼らへの祝福のように感じて、なお一層不快な気分になる。
こんな気分を一秒でも忘れ去りたくて、カップ焼きそばとフライドチキン、それとアイスクリームを購入した。
マンションに帰ると、それらを一辺に胃の中へ放り込む。
そうすると一時的な快楽が頭を犯してくれて、幸福でなくとも不幸せではない気持ちに浸れることができた。
「ただいま衣織」
その声で不安が再燃する。
「おかえり、唯花。仕事は無事に終わった?」
俺は平静を装いながら平気で嘘を吐く。
しかしそれは彼女も同様で、「うん。もの凄く疲れたけど終わったよー」と頭を人差し指で掻きながら嘘を吐いた。
俺と唯花は同じだと思ったが、それを直ぐに訂正する。
帰宅が遅れた本当の理由を知っている分、自分の方が彼女よりも数倍は卑怯であった。
「今日は何を食べたの?」
そんな何気ない会話であったが、ごくんと唾を飲み込まなければ言葉を発することができない。
「あ、えっと。カップ焼きそばとかアイスを食べたよ」
「え、珍しいね?」
確かに彼女の言う通り、俺は滅多にジャンクフードを食べなかった。
早速ボロを出してしまうと、早口になりながら「偶にはこんな脂っこいものを食べたくなる」と口にする。
それを理解してくれた唯花は「分かる。体に悪い物を求める時ってあるよね」と普段通りの笑みを見せた。
一切変わらないその言動は正しく女優と呼べる。
これは別に蔑んでいる訳ではなく、本気で唯花を凄いと感じていた。
プロポーズをされたのにも関わらず、感情の隙を一切作らないのは強靭なメンタルを持ち合わせていないとできやしない。
そんな嘘を俺は気持ちよく受け入れることにした。
「明日、休みだよね。コーヒーでも飲む?」
その提案は受け入れられると、手際よくコーヒーを淹れて彼女の座るテーブルの前に差し出す。
「うん、やっぱり美味しい」
俺は心の中で「あの店よりも?」と尋ねた。
しかし、それに答えが返ってくるわけがない。
ゆっくりとした時間が悪戯に心を燻ぶらせる。
だが偽物であろうと、演技であろうと、この瞬間が幸せであることに変わりはなく、ただ貪ることへの執着に犯されていた。
今はただ、満たされればそれでいい。
小さな皿にクッキーを添えれば、もう何も考える必要はないだろう。
事実、歪な笑顔は本物に変わって、甘くて黒い現実が俺たちを優しく包み込んでくれた。




