第17話:邪魔はさせない
オーブンから発せられるバターの豊潤な香り。
これは幸せの象徴と言っても過言ではなく、人の心を安寧へと導いてくれる。
「できたよ、唯花」
手作りの食パンとハムエッグ。
それにサラダとコーヒーも合わせた理想の朝食。
「凄いね衣織。君がパンを作り始めてからQOLが爆上がりだよ!」
俺は毎日アルバイトをしている訳ではないため、暇を見つけてはパン作りに励んでいた。
その努力が実ってか次第に技術が向上していき、今では雪子さんの店でそれなりの手際を発揮できている。
「何か食べたいパンとかある?」
そう尋ねると唯花は人差し指を顎に乗せて考える素振りをするも、「衣織が作ってくれるなら何でもいいかなー」と言いながら食事を平らげた。
その言葉がどれだけ嬉しい事か。
「唯花、本当にありがとう」
不意に漏れた感謝を彼女は自然に受け入れると、「お礼を言うのはこっちだよ。罰が当たりそうなくらい幸せ」と憂いのこもった眼でコーヒーを見つめる。
そこには悲劇のような尊さが存在したが、唯花と言う人間にその二文字は相応しくないため、自分の思い違いだと言い聞かせた。
「衣織、夢なら覚めないでね?」
彼女が独り言のように発した願いに、思わずコーヒーカップを唇に付けたまま固まってしまう。
この場合どう返答するのが正解なのだろうか。
仮初の約束をするべきか、もしくはおちゃらけて笑いを誘うのも良いかもしれない。
しかし、そのどれもが間違いの様に感じて何もできないでいると、腕時計を確認して驚きの表情を見せる。
「いけない! 遅刻しちゃう!」
彼女は椅子に掛けられていたジャケットを羽織ると、「じゃあね衣織、行ってきます!」と言って玄関を飛び出した。
唯花が慌ただしくいなくなると、一瞬にして静かな空間が訪れる。
すると頭の中に先ほどの答えが浮かび上がった。
「少なくとも、お前と同意見ではある」
ようやく吐き出したのはおおよそ答えとは呼べない代物であった。
それに相手がこの場にいないのだから、言葉を発しても意味がない。
俺は肩を落としながらも食器を片付けようとした。
すると突然、ガチャと鍵が開く音が聞こえる。
もしかして、何か忘れ物をしたのだろうか。
「テーブルの上には何もないぞ」
そうやって玄関を向くと、立っているのは想像とは真反対の人物であった。
リクルートスーツではなく、はっきりとしたストライプ生地と赤いネクタイの組み合わせは高い地位に君臨している証明となる。
「どうして、薫がここにいるんだ?」
その問いかけに彼は「どちらかと言うと、こちらのセリフなんだがな」と言って近づいてきた。
「衣織、今日からここを出ていけ。住む場所は用意してやる」
薫から告げられた一方的な提案。
いや、これは命令だろうか。
ポケットに手を突っ込んだまま話しかけるその姿は威圧的であるだけでなく、怒りにも似た感情を垣間見ることができた。
しかし、それに怖気づけば自分を押し通すことが困難になる。
拳に力を入れ、足を踏ん張りながら「嫌だ」と口にした。
「どうして?」
間髪入れずに繰り出された質問によって思わず生唾を飲んでしまう。
それでも、彼の瞳から視線を外さずに「パンを作る道具が揃っているんだ」と理由を説明する。
すると、「じゃあお前の欲しい道具は全部用意してやる。これで離れられるな」と分かりやすく退路を潰す。
「待てよ。俺は出ていくなんて言ってない」
その言葉が表すのは薫への不服従。
それに彼は「はぁー」と溜息を吐いて後頭部を掻き毟る。
「黙って俺のいう事を聞いていればいいんだよ」
そうやって彼は俺の手首を握ると、そのままこの場から連れ出そうとする。
その強引で乱暴な行動に抵抗しようとするが、俺の足はフローリングの上をツルツルと滑っていく。
「離せよ、薫!」
そう怒鳴りつけても彼は無視を貫き、淡々と自分の信念を押し通そうとする。
薫の覚悟は俺の想像を超えているらしい。
その圧力に呆気なく負けて半分諦めかけたその時、「薫君、どうして衣織を掴んでいるの?」と冷ややかな声が聞こえた。
薫から見て真後ろ。
俺から見ると真正面。
そこにはお世辞のような笑顔を浮かべた唯花が、瞳孔を開きながら佇んでいた。
「唯花、どうしてここにいる?」
彼の動揺を一番に察したのはきっと俺だ。
握力があからさまに弱くなったタイミングで手を振り解く。
「女の勘だよ。それと、女性の家に無断で入るってありえないよ?」
薫は誤解だと言わんばかりに、「話を聞いてくれ。唯花」と彼女の肩に触れる。
それを唯花は「触らないで。ここから出て行って!」と手を払いのけながら、家中に響き渡るほどの大きな声を上げた。
それを聞いた薫は悔しそうに顔を歪めると、俺の事を睨みつけながら「また来る」と言い残して背中を見せる。
そして、ガチャンとドアが完全に閉まり切ると静寂が訪れる。
ようやく冷静さを取り戻した俺は唯花に対して、「ありがとう」と感謝を述べようとした。
しかし、動かそうとした唇は彼女に抱き着かれたショックによって動かせなくなる。
「大丈夫、衣織? なにか怖い事されてない?」
その言葉と行動は俺の心を優しく溶かしていく。
この場面に適しているのは友情よりも母性の方が正しいだろう。
包み込まれるような安心感を与えられると、そのまま顔を埋め続けたくなる。
それでも理性が勝利すると、「苦しいよ。唯花」と言って少しだけ距離を取った。
「あ、ごめんなさい」
そう言って解放してくれるも、手だけは決して離さない。
「それで、薫君に何を言われたの?」
「別に、たいしたことじゃないよ。俺の住む場所を用意するって言われただけ」
俺はなるべくマイルドに伝えるように尽力した。
これ以上、彼女の感情が揺れ動くのを見たくはない。
しかし、たったこれだけの情報であるのにも関わらず、唯花の柔らかく小さな手には不相応の力が込められた。
「ちょっかい出さないって約束したのに……!」
過去に一度だけ見せた怒りの表情。
その矛先が自分に向けられていないと分かっていたが、心が張り裂けそうな気分になる。
「安心して。衣織は絶対に私が守る」
彼女の瞳を見ると、それが本気であることが良く分かった。
一秒たりとも揺らがないその視線に恐怖すら覚えてしまう。
「唯花、それはどちらかと言うと、男のセリフだ」
少しだけシリアスが深すぎた。
それを中和するためにおどけた様子を見せると、彼女はふわっと手を離して「確かに。これじゃあ私が王子様みたい」と口元を抑えて笑った。
やはり唯花は笑う姿が一番似合っている。
それは年を重ねても変わらないモノであった。
「なぁ、ここで油を売っていてもいいのか。会社に大遅刻だろ?」
時計を指さすと、彼女は少し考える素振りをして携帯を取り出す。
そして画面をタッチすると、会社の人間と思われる人に電話を掛けた。
「もしもし、本日は申し訳ないんですけどお休みを頂きたくて。七夕リーダーには伝えていますので」
大人のずる休み。
それは学生の行為とは比較にならないくらい重いものであると思っていた。
「そんなんで良いのか社会人」
すると彼女はジャケットを脱ぎ捨てて「良いの。会社なんて適当に努めるくらいで丁度なんだから。それよりもさ、衣織のパンをもう一回食べたい」と俺の頬をふにふにと摘まむ。
こんな行動は十年前の彼女なら考えられない。
それでも、不真面目な今の唯花の方が輝いている気がした。
「分かった。だけど今日は手伝ってもらうぞ」
「任せて! ずる休みした時のエネルギーは普段の二倍なんだから!」
ワイシャツをまくり上げる姿は何とも勇ましいが、汚れを落とすのは俺だから着替えてくれると助かる。
二人で過ごす何気ない時間。
それは遊園地で過ごすような特別な出来事ではなかったが、心の中はミルクチョコレートのように甘い気分へと誘われていった。




