第16話:アルバイトデビュー
「おーい衣織! こっちだこっち!」
朝の陽ざしと同じくらい明るい男は今日も変わらず元気である。
「朝なんだから声のボリュームを下げてくれよ。近所迷惑になる」
そう言うと太助は「そうだった。前も嫁にうるさいって怒られたばかりだった」と恥ずかしそうに下を向く。
「そうだろ、だったら大人しく……」
俺はそこまで言いかけた時、食い気味に「お前、結婚してたのか……」と自分で自分の言葉を遮った。
「前に言わなかったか? それにいつも指輪をしていただろ?」
そうやって左手の薬指をキラッと光らせる。
俺はてっきりお洒落でアクセサリーを付けているのだと思っていた。
「と、とりあえずおめでとう」
そう言うと太助は「結婚したのは三年前だから今さら過ぎて何も感じねぇよ」と背中を強く叩いて笑い出す。
どうやら彼は随分と早く結婚したらしい。
まぁ、十年も経てば色々な出会いがあるから誰かと付き合ったりもするだろう。
そのとき不意に唯花の顔が思い浮かんだ。
彼女は誰かと付き合ったりしたのだろうか。
それこそ例えば、薫とか。
悶々と一人で考え込むと太助が「衣織、どうしたんだ。突然ぼーっとして?」と顔を覗き込んでくる。
「いや、何でもない。それよりも、こんな早くに何を手伝ってほしいんだ?」
そう尋ねると「家の手伝いをして欲しかったんだ」と慌てた様子で俺の手を引っ張った。
「実は俺の嫁さんはパン屋さんでな」
それは勿論初耳であったが、彼の立ち止まったこの場所には覚えがある。
「ここ、知ってるわ。くさやパンの店だろ?」
その単語を口にした瞬間、彼は「知ってたのか! もしかしてあれを食べたのか?」と不安そうに尋ねる。
俺はそれに対して「うん、食べたよ。なぜか美味かった」と伝えると、彼は本当に嬉しそうに笑った。
「うちの嫁さんが作るパンは独創的すぎて中々手に取ってもらえないんだよなぁ。味が確かなだけに勿体ないんだ」
そうやって残念そうに肩を落とすが、「それでも、いつかはあいつの才能が認められると信じている」と直ぐに胸を張る。
「本当に奥さんのことが好きなんだな」
茶化すように彼の腹を肘で突くと、「あぁ。世界で一番愛してる女だ」と太助は真面目な表情を見せた。
そんな嘘偽りのない素直な気持ちを聞いて一瞬固まってしまうが、「良かったな。そう思える人と出会えて」と心の底から祝福を伝える。
俺たちは和気あいあいと話していると、誰かがこちらに駆け寄ってくる気配を感じた。
次の瞬間、頭に激しい鈍痛が降り注ぐ。
「うがっ!」
俺は頭部を摩りながら顔を上げると、そこには大きく膨らんだお腹とめん棒を携えた女性が頬を膨らませて仁王立ちしていた。
「アルバイト初日からサボりってどういうことかしら?」
声を荒げていないのに、彼女の感情が手に取るようにわかる。
いつぞやの女店員は俺たちをしかりつけるが、何を言っているのかさっぱり分からない。
「俺、アルバイトとは聞いてません……」
そう言いながら太助の方を見ると、「いや、前に唯花にお金を貰ってばかりで申し訳ないって言ってだろ。だからここでバイトすれば良いじゃんって思ってさ」と今さら説明をしてきた。
大変ありがたい事ではあるが、そう言う事なら先に言ってくれ。
「お初……ではないですね。竹取衣織って言います。よろしくお願いします」
そう自己紹介をすると、「良く見たら、以前くさやパンを買ってくれた方ですね。私は太助の妻の雪子です。気軽に雪ちゃんって呼んでください」とウインクを見せた。
それに乾いた笑いで答えると、「じゃあ早速だけど、業者さんから小麦粉が届いたから運搬よろしくね」と滑り止めが付いた手袋を渡される。
そして俺は直ぐに、大量の小麦粉が入ったポリラミクラフト袋の運搬に取り掛かった。
「お、重っ!」
見た目よりは遥かに重い粉の塊はこちらの腕を引きちぎろうとしており、少し運んだだけで筋肉が悲鳴を上げる。
「おいおい、たった二五キロで弱音を吐くなよ。それと、そんな持ち方してると腰を悪くするぞ?」
隣の太助に視線をやると、肩に大袋を三つ乗せているのにも関わらず軽々と運んでいる。
この男に誰かがゴリラのDNAでも打ち込んだのだろうか。
そうしなければ、たった十年でこんなパワー系へと変貌を遂げるなど不可能だ。
「お前、何か失礼なこと考えてるだろ?」
太助は眉間にしわを寄せてこちらに疑いを向けてくる。
「いや、純粋に尊敬しているだけさ」
そう告げると、グッと全身に力を入れて再び袋を持ち上げた。
これを何回か繰り返すとようやく運搬作業は終わったが、「じゃあ次は計量をお願い」と言って一斗缶が大量に積まれている場所へ案内された。
「これの蓋を取って、既定のグラムごとに分けてね」
俺を待ち受けていた作業はこれもまた重労働であり、練乳が入った一斗缶を持ち上げて、注ぎ口から専用の容器に直接分けるスタイルであった。
俺は慣れない作業であるため、慎重に作業を進める。
しかし、ヌメヌメした練乳で手元が狂うと、床一面に練乳を零してしまった。
「ご、ごめんなさい!」
すると雪子さんがやって来て、「あららー、怪我はない?」と言ってテキパキとモップで床を綺麗にしていく。
「すみません……」
そう謝罪をすると、「良いのよ。これくらい」と笑みを浮かべた。
その後はより慎重に一斗缶を操りながら一連の作業を終えると、今度はパン生地を捏ねるように指示された。
「コツは円を描いて空気を入れるように捏ねること」
雪子さんは目の前で実演して見せるが、その手捌きは正しく職人そのものであり、到底真似できそうにない。
そして太助もまた彼女ほどではないが、生地をスムーズにそれらしい形へと変えていった。
「円を、描くように……」
俺も見様見真似で生地を捏ねるが、形が整わないしふっくらと仕上がらない。
元から手先が器用でもないため、純粋な力仕事よりもこちらの方が苦痛に感じた。
結局一時間かけてまともにできたのは二つか三つ程度。
正直に言って、使い物にならない自分に嫌気が指した。
同時に働くことへの恐怖も感じてしまう。
こんなにも無能な自分は、どこへ行ってもやっていけない。
途中、休憩時間になると外の階段に座って、灰色のコンクリートを眺めながら溜息を吐いた。
このままバックレてしまおうか。
そんなネガティブな気分に浸っていると、紙コップを持った太助が隣に腰を掛けた。
「どうだ、結構大変だろ?」
彼はとても良い笑顔でコーヒーを手渡してくれる。
「結構どころじゃないよ。正直に言って逃げ出したい」
自分の本音を吐露すると太助は頷いて、「分かる。想像通りに行かないってしんどい」と同情を見せた。
「でもさ、少しだけ続けてくれないか。雪子さ、もう臨月だってのにパン作るって聞かないんだよ」
太助は一生のお願いと言わんばかりに手の平を合わせる。
「いや、でも、俺は戦力にならないし……」
力になれるならばそれに越したことはないが、能力が無いものはどうしようもない。
そうやってやんわり断ろうとするが、「大丈夫! 最初からできる人なんていないって」と後輩の指導で一番使われるであろうワードを放つ。
根負けと言うか、太助は俺の腕をしっかり掴んでいたため、イエス以外の選択肢は残されていない。
「頑張って、みます……」
すると彼は「ありがとう! 流石はヒーローだ!」と言って、持っていたコーヒーを一気に腹の中へ流し込んだ。
「じゃあ次はオーブンを使うから気合入れろよ!」
そして太助はポケットから小さいクロワッサンを取り出すと、俺の膝にちょこんと置いてこの場を後にする。
俺はそれを少し眺めると、そのまま口に入れた。
するとバターの風味が優しく広がっていく。
そんな淡い余韻を感じた直後にブラックコーヒーを飲むと、これまた甘美な味わいが脳内を刺激する。
「美味しいパン、あいつが食べたら喜ぶかな」
自分の中で作られるモチベーションは彼女の喜ぶ顔であった。
膝に手を付くと、太助同様にコーヒーを流し込んで仕事場へと向かう。
「雪子さん、仕事教えてください」
すると彼女は「あら、急にやる気満々ね?」と言って俺の鼻先をツンと触った。
「もう少しでパンが焼きあがるわ。だからオーブンの中から天板を取ってもらおうかしら」
俺は手袋を付けながら巨大な銀の塊の前に立つ。
すると、機械からじわじわと熱が伝わって来て、思わず後ろに足を動かしてしまう。
それでも、お金を貰うことはリスクを背負う事と自分に言い聞かせて覚悟を決めた。
「頑張ります!」
「うん、元気があってよろしい! じゃあいくよ!」
そう言って雪子さんはオーブンのドアを開けると、強烈な黒煙が立ち込めた。
「あら、温度を間違えちゃった」
そうやって彼女は舌を出して、こつんと自分の頭を軽く拳で叩く。
その姿は可愛げがあって太助が惚れるのも納得がいくが、俺が折角決めた覚悟を返して惜しいと思った。
「雪子! お前、またやったのか!」
「ごめんなさいあなた! 若い子がいるから気合入れすぎちゃったわ!」
大人がする失敗。
本人は最悪な気分であると思うが、子どもの自分にとっては安心材料となり、少しだけミスに対する恐怖が和らいだ気がした。




