第13話:大人になるとは諦めること
夏の夕方のじめっとした空気感。
それは日本の夏を象徴するものであり、これが好きだと言う人間はとても少ない。
だが、自分はその少数派に属していた。
なぜなら、纏わりつく不快感は楽しさの前触れであるからだ。
下校の時間帯や夕飯。
また、お祭りが始まるのも大体この時間であった。
「衣織。早く列に並ぼうよ!」
手招きをする唯花の元へ駆け寄ると、そのままライブが行われる巨大なドームの中へ誘われていく。
「こういうの、初めてだからドキドキするなぁ」
人が密集している場所では必然的に、唯花との距離が近くなる。
そのせいで空調は効いているはずなのに、熱中症で倒れそうになるのは何とも情けない。
「それにしても、あいつは相当有名になったんだな」
俺はこの場にいる人の数を見て、莉紗の凄さを肌で感じる。
彼女は十年の時を経て、アイドルになっていた。
元から抜群の歌唱力とルックスを持っていたため、ここだけ聞けば想像に容易くない。
だが、莉紗はこんな目立ち方をする人間ではなかった。
もっと、しんみりとした空気を大事にしている印象があった。
そんな風に頭の中で莉紗について考えていると、突然照明が落とされて、周囲にざわめきが訪れる。
彼女の登場を予感させる暗闇はファンの期待を徐々に高め、周囲に興奮が満ち満ちていく。
数十秒後、それに答えるかのようにステージの上に一筋の光が灯された。
「みんな! 今日は来てくれて、本当にありがとう!」
莉紗の声が会場に響き渡ると、待って言いましたと言わんばかりに、各々が声を上げて自分の存在をアピールする。
「それじゃあ早速だけど、私のデビュー曲から歌わせてもらうね!」
そう言ってマイクを手にした瞬間、彼女の顔つきが変わった。
それは支配者への昇華を意味しており、この場にいる全員が確かに生唾を飲み込んだ。
「私を見て」
そう曲名を口にすると、そのフリフリとした格好からはイメージできないバラードが会場全体に響き渡った。
この歌はアイドルにしては暗すぎる。
それでも、確かな魅力と歌唱力を備えた莉紗は誰よりも輝いていた。
「莉紗、凄いね。凄く楽しそうに歌ってる」
彼女の目と俺の目。
同じ人物を見ているのにも関わらず、その印象は明らかに違っている。
確かに顔は気持ちよさを感じるのであろう。
しかし、瞳の奥を覗くと、確かな悲哀を孕んでいた。
最初の一曲目が終わると、想像通りの賑わいを見せて続けざまに二曲目に移行する。
次からはガラッとテイストが変わって、よりアイドルらしいホップなものとなっていた。
大多数の人にとってはこちらの方が親しみやすく、そして楽しい気分になれるだろう。
しかし、それとは反比例するかのように彼女の声からは熱が奪われていくような気がしてならない。
それでもファンは盛り下がることを知らず、ライブが終了するまで浮ついた熱気が消えることはなかった。
「凄かったね。莉紗のライブ!」
唯花は興奮した様子で詰め寄ってきて、こちらの同意を求める。
「あぁ。本当に遠くの存在だ」
良くも悪くも彼女は変わっていた。
これが大人になると言う事なのだろうが、そこには喜びよりも悲しみの方が際立っているように感じる。
そんな風に子どもが勝手な妄想に耽っていると、唯花のスマホに一件の通知が届いた。
「あれ? 莉紗が今からご飯たべようって」
遠くにいた存在が、こうも直ぐに寄ってこられるのも興が醒めると言える。
それでも、彼女と会うのに一切の迷いはない。
唯花に対して自分の意思を伝えると、それに賛同するように高速で指を動かして、メッセージを送る。
そして待ち合わせの場所が送られると、俺たちは近くのイタリアンレストランで食事をする運びとなった。
「ごめんねー! マネージャーが色々うるさくて遅れちゃった」
莉紗はベージュの帽子とサングラスを身に着け、如何にも芸能人のような装いで自分たちの前に現れた。
「うわー、本物だ!」
唯花は目を輝かせて、所謂ミーハーのようにサインを求めた。
「ちょっとちょっと、昔からの友達の前ではいつもの私で居させてよ」
そんな彼女の引きつった顔を見て心情を察したのか、唯花は「ごめん。つい浮かれちゃって」と謝罪をし、直ぐに椅子へ座り直す。
「いや、そんな暗い顔しないでよ! あぁ、もう!」
莉紗は困ったように頭を掻きむしると、ポケットからマジックペンを取り出して近くのナプキンにそれらしいサインとイラストを書いて唯花に手渡した。
「色紙じゃないって文句言わないでよ!」
それを受け取った唯花は「ありがとう! これ、うちの家宝にするね!」と幼子のように目を輝かせる。
「いや、それは止めて! 流石に恥ずかし過ぎる!」
そんな他愛もないやり取りを続けていると、俺たちの前にはピザとワインが並べられた。
「ここのワイン、とっても美味しいんだよ。だけど、衣織君には……少し早いね」
そう言うと、ウェイターを呼びつけてメニュー表を指さし、目の前のグラスに炭酸水が注がせる。
水のくせに無駄に凝ったボトルに詰められているのは何とも生意気だった。
俺は何気なくちらっと値段を確認すると、まさかの千円を超えている。
この成金主義的な価格設定に思わずワイングラスを持つ手が震えた。
この様子を見ていた莉紗は笑いながら「炭酸水に香りなんてないよ」と手の震えとスワリングを勘違いする。
それを否定するのは隣に座る唯花であり、「衣織は恐ろしく家庭的だからね。水の値段に驚いているんだよ」と今の心境を代弁してくれた。
「あぁ、確かに異常だよね。だけど心配しないで。これは全部、私の事務所につけるから! というか、自分のお金だったらもっと安いとこ行くって!」
その発言に俺は心から安堵した。
芸能人になって金銭感覚が麻痺していると思ったが、実際はそんなこともないらしい。
ここにきてようやく緊張が解け始めると、グラスに口を付けて高級な水で喉を潤す。
しかし、それは自販機に売っている水と変わらない普通の水であった。
俺はどこまでも伸びるチーズに感激しながら食事を取っていると、不意に莉紗は「今日のライブ、どうだった?」と感想を聞いてくる。
唯花は言わずもがな「本当に最高だったよ!」と目を輝かせた。
それに彼女は手の平をふらふらさせて、「はいはい、分かってるよ。ありがとー」と適当にあしらう。
「私はね、どちらかと言うと衣織君の感想を聞きたいの」
莉紗の瞳は真剣そのものであり、一切の冗談を感じさせない。
それに一種の恐怖を抱くが、これくらいの眼力が無ければ彼女の生きる世界では直ぐに屍と化すだろう。
今度は水の代わりに生唾を飲み込むと、「とても良かった。けど……」と言葉を紡いでいく。
「けど、本当の莉紗が居たのは最初だけだった。芸能界で生きる人に本来の姿は必要ないのは知っている。それでも、昔から莉紗を知っている身としては寂しさを感じた」
その率直な意見はどうやら的を射たらしい。
莉紗は満足げに頷くと、「やっぱり、私は染まってたかー」と言いながらワイングラスの淵をそっと撫でた。
「最初の曲ね、唯一私が作ったんだ」
その哀愁を感じる表情に、俺は大人を見出す。
不満足でありながらも、現状維持のために自分を殺し続ける。
傍から見て滑稽であるが、それは紛れもない社会への順応そのものであった。
莉紗はワインを静かに眺めていると、誰かに話すような口ぶりで独り言を発する。
「私はアイドルになりたくなかった」
その言葉を聞き流すこともできた。
しかし、その行為は犯罪的であり、小心者の俺がそんな大それたことをできる訳がない。
「じゃあ、どうしてアイドルに?」
そう尋ねた瞬間、まるで道化師のような笑顔が彼女の面に貼り付けられた。
「どうして、だと思う?」
背筋が凍る感触。
ここで答えを間違えれば、死ぬことはなくとも再び関係が崩壊しそうな危うさが存在する。
俺は必死に頭を回転させて正解を探す。
彼女のこれまでの発言。
態度や仕草。
その他諸々を材料にして導かれたのは一つの可能性だった。
薫と莉紗。
この二人は水と油のように見えるが、今思えばいつも近くにいた。
それに気づくと、芋づる式に過去の記憶が掘り起こされる。
中学生の頃、莉紗はそっぽを向きながら「薫って好きな人いるのかな」と俺に尋ねたことがあった。
当時は何も思わなかったが、今ではその意図がはっきりと分かる。
「薫の、注意を引くため」
俺は隠しきれない不安を抱えながらそう口にすると、彼女は突然頬にキスをした。
「大正解」
この小悪魔的な行為に顔を赤く染めると、そのまま頬を手で包んで固まってしまう。
そんな俺の肩を唯花は守るように抱き寄せると、「ちょっと、未成年相手に不純な行為をするなんて常識が無いの?」と抑揚のない声が吐き出された。
「んー? 未成年にストーカーしている人が言えたことかなー?」
自分を挟んで嫌な空気が交差する。
ここの居心地が悪くなり、早くこの場から去りたかったが、それを察していた唯花はガッチリと俺の左手を握りしめている。
ここは覚悟を決めて、できるだけ平穏に時間が経つのを祈るしかない。
俺は静かにウェイターによってサーブされたドルチェを口にする。
しかし、この華やかな見た目に反して味であり、とてもじゃないが美味しいという感想は湧いてこなかった。




