Case3:
屋敷に帰るとすぐに自室へ向かい、机の上にノートを広げた。リアムに言われたことを思い出しながら、ペン先をインク壺につけ、そして白いページの上を滑らせるように書いていく。
まず書いたのはリアムが言っていた手順。
自分の思っていることをとにかく書き出すこと。それはどんな感情なのか。どうしてそう思うのか。自分がどうしたいのかを考えながら書いていく。
罫線すらない自由なページは書くのに勇気がいったけれど、それでも不思議と気負わずかけた。字がななめになっても、前後に脈絡がなくても、とにかく気持ちを言葉にしてペンを動かしていく。リアムの言う通り、本当に魔法が効いているのかもしれない。
『あの日からずっとモヤモヤしている』
そのモヤモヤした気持ちは不安や焦りといったネガティブなもの。どうしたそんな感情が沸くのかへ目を向けてみると、やはり出てくるのは『どうしていいかわからない』。
この辺りはリアムへ話した通りだ。
しかし、こうして見ると思っていた以上に自分の悩みは浅くてシンプルだ。自分の中で抱えていた時はとても大きく重たくて難攻不落にも思えたのに、ノート上で見るそれはいたって普通で、ありふれたもの。ちょっとだけ気が楽になった。同時にそんなものを大真面目にリアムへぶつけてしまったことに恥ずかしさが込み上げてくるが、めげずにラヴィニアは続きを書いていった。
『――じゃあ、どうしたい?』
どういうことをやってみたい?
どうしたらモヤモヤが晴れそう?
問いかけるのは自分。
答えを出すのもまた自分。
自分の中で芽吹いた感情が散っていかないよう、慎重に観察して、近い言葉へ当てはめてみる。
『怒りたい』
とても短いけれど、ラヴィニアのなかでひとつの結論が出た。
面と向かって断りを入れてきたことは別にいい。他に急用ができることは誰にだってある。けれど。その急用が、別の人と遊びに行くものだったこと。それを悪いとも思っていなさそうなこと。トーマスに対して思うことがあるのはこれについてだけだ。
「それでですね、怒り方を教えてほしくて」
「いやだからなんで見つけるんだよ」
ラヴィニアは再びリアムの元を訪ねていた。先日のお店とちがう場所、ちがう建物で、部屋の規模は小さいものの内装はとても似ていた。もしかしたらリアムはこういう場所をいくつか持っているのかもしれない。
リアムはと言うと、がくりと肩を落として項垂れている。しばらくひとりでぶつぶつと何か言っていたが、気がすんだのか顔をあげた。
「あー、怒り方か? んなもん頭がカッとした時に思ってること言えば――」
そこまで言って言葉を切る。
まじまじとラヴィニアを見て片眉をつり上げた。
「もしかしておまえ、カッとなることがないのか?」
思い返してみると、確かにラヴィニアは誰かに対し怒ったことはなかった。困ったなと思うことはあってもそれが激しい感情になることはないし、厳しく叱責することもない。
言わずとも伝わったのか、リアムが珍獣でも見るような眼差しを向けてきた。
「いいか。怒りっていうのは大体が期待を裏切られた時に起こるものだ」
期待を裏切られる? いったいどういうことだろう。それが怒ることとなんの関係があるのだろう。困惑するラヴィニアなどおかまいなしにリアムは続ける。
「つまりおまえは他人に期待していない? かわいい顔してずいぶん淡白なんだな」
ずいぶんな事を言われているようだが、今かわいいと言われなかったか。
硬直したまま赤面するが、一方で頭の冷静な部分が疑問を抱く。ラヴィニアの中で期待と怒りは別々のものだ。どういうことか聞こうと口を開きかけて。
「あ、あの――」
「少し考えたい。ちょっと待ってろ」
そう言ってリアムは立ち上がり部屋の奥へと引っ込んでしまった。あまりに突然。いきなりのことに面食らっていたが、彼は意外と早く戻ってきた。手には湯気のぼるマグカップがふたつ。嗅ぎなれない、しかしいい香りが部屋の中にただよう。
そのカップのひとつをラヴィニアへ差し出してきた。
飲め、ということだろうか。
「……ありがとう、ございます」
「ん」
リアムは机の上に小さな手帳を出し、ペンを片手に何やら書き物を始めてしまった。ラヴィニアはそれを眺めながら温かいマグカップを両手で包む。カップの中は見たことのない色の飲み物だった。お茶にしては黒く、底が見えないほど色味が濃い。
「コーヒーは初めてか?」
「初めてです」
「ふうん」
これがコーヒー。とてもいい香りがする。確か最近輸入が本格的に始まったのではなかったか。庶民ではほとんど手に入らず、一部の王侯貴族やその関係者だけが飲むことができる高級品だった気がする。
「とっても高価そうですけど、わたしが頂いても大丈夫ですか?」
「いい。どうせもらったやつだし」
手本を見せるようにリアムがコーヒーを飲む。ラヴィニアもおそるおそる口を付けた。香りはとてもいい。味はどんなものだろう。いくつかのお茶を思い出して予想していたものの、それは見事に裏切られた。圧倒的な苦みに眩暈がしそうだ。
「うう……」
「初めてのやつには苦いかもな。どうだ、変なもの飲まされて腹立たしいとか思ったか?」
なみだ目になりながらも首を横に振る。
苦味の濃さに目が白黒しそうだけれど、腹が立つというとこまでいかない。それよりももっと手前。困惑の方が大きい。
リアムはしばらくラヴィニアの様子を見ていたが、おもむろに立ち上がりラヴィニアのカップを手にとると、再び部屋の奥へと行ってしまった。
「ミルクで割った。ついでに砂糖もいれてやったからありがたく飲めよ」
そう言って渡されたカップの中身は確かに
おそるおそる口をつける。まろやかさが加わってちょうどいい。苦味もあるけれど、不思議とおいしい思える。そしてちょっとだけ甘い。
「……おいしいです」
「そりゃよかった」
リアムの視線はとっくにテーブルの上に向けられていて、ラヴィニアの反応などさして興味がなさそうだ。それが嫌なわけでもなく、放っておかれる心地よさを感じる。
「おまえ、ラヴィニアって言ったな。少し付き合え」
「は、はい」
リアムがペンを動かす音。たまに話しかけられてはぽつぽつと言葉を返す。静かな時間だった。
質問された内容から察するに、どうやら怒りにはいくつかパターンがあるらしい。先ほどリアムが言っていた怒りの原因は期待と現実のズレから起こるもの。他にも理不尽な目にあったり、大切なものが踏み躙られた時などの自己防衛からくるものもあるようだ。
そうすると、リアムいわく、ラヴィニアが抱いているのはいわゆる『怒り』とはちょっと違いそうだと言った。
「怒りたいというより抗議をしたいのかもな。不服に思ったことを相手へ伝えたい」
まさにそれだと思った。
「だがそれすらどうしていいかわからないと」
「……そうなんだと思います」
自分のふがいなさに項垂れる。もう大人の仲間入りだというのに、自分のやりたいことすら分からないだなんて。
ふむ、とリアムが自身のあごに手を当てる。
「何事にも訓練が必要だ。まずは小さなことからやってみろ。そうだな……おまえ、身なりからしていいとこのお嬢さんだろ。てことは家に使用人がいる。そいつらに何か頼みごとをしたとして、違うものが来た時にきちんと『これは違う』と言えてるか? もし言えてないんだったらそこからだ。まあこれでもいいかと済ませない」
ぎくりと身を強張らせる。
まさに、ラヴィニアは指摘通りにしてしまうことがあった。言うか否か悩んで、結局言葉をのみ込んでしまう。さして重要なことでもないし、むしろ些細なことだから口を出すほどのことでもないと。
「頼んだものと違うと相手へ言うのは、理不尽でもなんでもない。恐縮する必要もない」
確かにその通りだろう。
しかし、そうすると今度は疑問や悲観がわいてきた。どうして私はそんな当たり前のことが言えないんだろう。人としてダメダメなのでは。
「俺の推測だが、おまえがいろいろ物を言わないのは、争いだとか軋轢のたぐいを避けるためだと思う」
どんよりと負の空気をまとっていたラヴィニアだが、リアムの言葉に顔を上げた。
「……どういうことですか?」
「相手へ過失を突きつけると多少の波風を起こす。場合によってはわだかまりが発生するだろう。最悪、なにか問題が起こるかもしれない。そのリスクを回避するためにおまえは口をつぐんできた。それはおまえが持つ生存本能が働いていいる証で、悪いことではない」
誰だってトラブルは回避したい。乗り越えるための気力や体力、対処能力がなければ特に。
「だが変わりたいと思うのなら、それはおまえにとって時期が来たということだ。小さな波風に耐える強さを手に入れたということだからな」
リアムの口元には笑みが浮かんでいる。「そうだろう?」と問いかけているようにも思えた。
変わりたいと思うのは、強さを手に入れたから。
ラヴィニアは自分が強くなったとは微塵も思わないけれど、そうであったらいいと思った。心が軽く、そして弾んでいくのがわかる。
どきどきと早まる鼓動。
変わりたいと思う。
いつもびくびくと怯えていた自分から、一歩前進するために。




