ep.6
「帝国が、なぜ私を追っているのか。私の名はアシュリーン・イルゼ・エーデルガルト・フォン・アリス=ウント=マリン――私はノルディン王家の、第一王女よ……いや、〝だった〟の」
ノルディン王国。
その歴史は帝国と常に関わりあっていた。
帝国の成立は、ノイデン人にとって大きな転換点だった。
遊牧民に押されて西へ逃れたノイデン人たちは、やがて古州へ辿り着いた。
古州は大きく二つの陸地に分かれている。
寒冷な北海の向こうにある北の大陸。
そして古州の大半を占める南の大陸。
北の大陸へ渡った部族は後のノイヴァルディア大公国を築き、南の大陸へ留まった部族の多くは帝国――ライヒ=ノイデン人と諸民族のための神聖帝国――の祖となった。
だが一部の者たちは帝国への参加を拒み、北との繋がりを重んじながら帝国の北東に独自の王国を築いた。
それがノルディン王国だった。
言わば、ノルディンは帝国の数百年来の生きた片割れであると言える。
「エルノトゥムの砦が皇帝に占拠されたようです」
宰相のマグルンドがそう父に伝えたのは、5年前の春のことだった。
ノルディンは迎春祭を控え、国は催事のことで頭がいっぱいだった。父王エーリク5世国王も、よくある小競り合い程度のものだと、祭りの後に対処を考えることにした。
しかし事態は、祭りが終わったあとも一向に良くはならなかった。
皇帝軍はエルノトゥム砦から撤退しなかった。
当初、皇帝側は「国境の異端討伐のための一時的な駐屯」であると説明した。ノルディン側もまた、事を荒立てるつもりはなかった。数ヶ月の後には返還するようにと使節を送り、ことの成り行きを見守ったが――半年が過ぎても、皇帝軍は砦から去らなかった。
父は皇帝へ使節を送り、説明を求めた。
返答は曖昧だった。
異端の脅威。
国境地帯の治安維持。
交易路の安全確保。
どれももっともらしい理由だった。
それどころか、砦の周囲では新たな防壁の建設が始まり、補給隊が頻繁に出入りするようになる。
王宮の空気も徐々に変わっていった。
貴族たちは会議のたびに帝国の話をした。
強硬な対応を求める者。
交渉を続けるべきだと主張する者。
帝国との開戦は避けるべきだと言う者。
意見はまとまらなかった。
当時私はまだ十五歳だった。政治のことは分からない。
ただ、父が以前より難しい顔をすることが増えたのは覚えている。
そして翌年。
帝国は正式な使者を派遣してきた。
その日、私は王宮の回廊で偶然その一行を見た。
白と黒の帝国旗。
黄金の双頭鷲。
磨き上げられた甲冑。
彼らはまるで、自分たちが既にこの国の主人であるかのような顔で歩いていた。
その夜、父は重臣たちを集めて会議を開いた。
帝国からの要求は明確だった。
――ノルディン王国を帝国の保護下に置くこと。
――帝国軍の国内通行権を認めること。
――皇帝への忠誠を誓うこと。
父は即座に拒絶した。それは同盟ではない。
降伏だったからだ。
次の月には皇帝軍が攻めてきた。
最初の半年の間に、まず、帝国とほど近い西側の都市ホルツブルグが占領され、その次に南のハルフェンとエルヴィクが包囲され、数ヶ月後陥落した。
東からは〝帝国の第一の下僕〟オストランド騎士団国の騎馬部隊が王都に向かって徐々に迫ってきていた。
ノルディンは、当初から明らかに劣勢だった。
誰がどう見ても、綿密に計画された攻撃であることは明らかだった。
やがて南の穀倉地帯を占領されたノルディンは、食糧危機に陥る。開戦の翌年には、不作も重な王領だけで数千の餓死者が出た。貴族や王家の庭園から花は消え、代わりに芋畑が広がるようになった。
それでもノルディンの人々と王家の忠誠は厚く、時として皇帝軍を破ることもあったものの、全体から見れば未だ王国は危機に瀕していた。
開戦から4年目のある日、皇帝の遣いがやってきた。
基本的な要求は変わらず「降伏せよ」の強い文言が目を引いたが、末尾に追加でこう付け足されていた。
現王エーリク5世夫妻の身柄引き渡し、私の弟の第一王子ヴォリク公爵カルマルと皇女マリアの結婚、第一王女アシュリーンと皇帝の嫡子フリードリヒの婚姻、そしてその他王族の永久幽閉だった。
そして使者は帝国訛りのノイデン語で「ノイデン人の統一のために」と付け足す。
その時、皆が悟った。
皇帝は、我々を文字通り地図の上から消すつもりなのだと。ノイデンの人々をひとつに纏めるために我ら王家は邪魔なのだと。
だが、それを受け入れるという選択肢はなかった。
その場で使者を追い返した。
こうして次の日から地獄は始まった。
翌日の朝、王都の城壁正面に何十もの晒し首が置かれた。
彼らは、皇帝との緒戦で捕虜となった貴族家の男たちだった。通例、貴族の捕虜は身代金との交換で生かされるのが普通だ。
皆が震え上がった。
皇帝軍が置いたのだと噂された。
あるいは王都にも帝国の間者が潜んでいるのかもしれないと侍女達は噂した。だが、戦況を知らされていない市民たちを恐怖に陥れるには十分だった。
ある時は貴族が、ある時は都市の領主が、有力者が、日替わりで晒し首が置かれる。
それ以来、ノルディンの兵士たちは食料不足、晒し首、終わりの見えない戦いを認識すると、みるみる戦意を喪失し、続く戦いの数々に敗北していった。
多くのノルディンの民が、北のノイヴァルディア大公国を目指して列を成した。
そして数ヶ月前に遂に皇帝軍と騎士団に王都は包囲される。
冬が近づいていたが、薪の備蓄は僅かであり兵士たちは城壁の上で凍えていた。市民たちはパンひとつのために長蛇の列を作り、鼠ですら王都から姿を消した。
それでも父は降伏しなかった。
ノルディン王家は決して屈しない。
その言葉だけを支えに、人々は耐え続けた。
だが春を迎えることはできなかった。
皇帝軍は巨大な投石機を持ち込み、昼夜を問わず城壁を叩き続けた。
ある朝、王都西門が破られた。
そこから先の記憶は曖昧だ。
鐘の音。
燃え上がる家々。
逃げ惑う市民。
血に染まった石畳。
そして王宮へ押し寄せる皇帝の兵士たち。
父は最後まで剣を手放さなかった。
母もまた王妃として堂々と振る舞った。
けれど結果は変わらなかった。
王宮はその晩に陥落した。
父王エーリク五世。
王妃ヘルガ。
二人は捕らえられた。
弟の第一王子カルマルも。
妹の第二王女マリアも。
私はその日のうちに、宰相マグルンドに連れ出された。
王宮の地下水路を通り、僅かな手勢と共に北門から脱出したのだ。
振り返った時、私は燃える王宮を見た。
その瞬間、自分が二度とあの場所へ帰れないことを理解していた。
逃亡から三日後。
私たちは帝国軍の検問を避けながら北へ向かっていた。
その途中で聞いた。
王都広場にて、父と母が処刑されたと。弟妹たちは、帝国へ連れ去られたのだと言う。
私は何も言えなかった。
泣くことすらできなかった。
ただ胸の奥が空っぽになったような気がした。
さらに数日後。
私たちは追いつかれた。
帝国とノルディンの国境を流れる、アルヴァン川にかかる橋だった。
深い谷の上に架かる石橋。
前にも後ろにも皇帝兵がいた。
護衛たちは次々と斬り伏せられた。
私は帝国兵からの一撃を受け、脇腹に深手を負っていた。
私も剣を握った。
だが震えていた。
二十年生きてきて、この手で人を殺したことなど一度もなかったから。
マグルンドはそんな私を見て静かに笑った。
まるで幼い頃の私を見るように。
幼い頃から第二の父と慕うほど、私はマグルンド――愛すべき爺や――に懐いていた。「あなたは優しい子ですよ」が爺やの口癖だった。
爺やは、もう取り戻せない温かな思い出を噛み締めるように、
「殿下」
彼はそう呼んだ。
「子のいない私にとって、殿下はまさに実の子のようでした」
「殿下が母となり、その御子を抱くのが私の密かな夢だったのです」
「この場から生きて逃れられたとして、あなたはこの王家のしがらみを捨て、普通の人として天寿尽きるまで生きなさい」
「爺やは先にあの世にて待っております」
「アシュリーン、我が子よ」
次の瞬間。
私の胸を強く押した。
世界が反転した。
空。
橋。
川。
すべてが回転する。
「爺や!」
冷たい水が全身を叩いた。
私は流された。
橋の上ではまだ剣戟の音が響いていた。
最後に見えたのは、帝国兵に集って斬られる爺やの後ろ姿だった。
それから先のことはよく覚えていない。
流木にしがみついたのか。
途中で気を失ったのか。
そして――
ヴィルに拾われた。




