ep.5
5
夜のうちに、私は自分の荷物を密かにまとめた。
と言っても、外套と、着替えの入った鞄、元より着ていた乗馬用の服、右の脇腹に斬り痕のある革鎧、剣と靴くらいのものだ。
夜のうちに、私は自分の荷物を密かにまとめた。
と言っても、外套と、着替えの入った鞄、元より着ていた乗馬用の服、右の脇腹に斬り痕のある革鎧、剣と靴くらいのものだ。
館にいた頃は、なんでもあった。
季節ごとの衣装も。化粧品も。侍女も。護衛も。
けれど今の私に残っているのは、持ち運べるだけの荷物と、王家の名だけだった。
ヴィルは既に眠っている。
暖炉の火は小さくなり、小屋の中には薪の燻る匂いだけが残っていた。
私は右脇を手でそっと撫でた。
歩ける。
走れるかもしれない。
ならば、明日しかない。
───浅く眠りについた私は、翌朝、早朝の日の出とともに目覚めた。
寝台の脇に置かれた外套を羽織り、剣を腰へ差す。
その時だった。
視線が、暖炉の傍へ向く。
ヴィルが昨日編んでいた革紐が机の上へ置かれていた。
私は足を止める。
胸の奥が痛んだ。
この男は何も聞かなかった。
私が嘘を吐いても。
兵士が来たことを隠しても。
正体を明かさなくても。
それでも食事を作り、薬を煎じ、包帯を替えてくれた。私を救ったことを、一度も恩に着せなかった。
だからこそ。
これ以上ここに居てはいけない。
私は机の上へ、ポケットから小さく折り畳んだ紙を取り出した。炭を手に取り、紙に向かう。
だが、礼の言葉を書こうとして、結局何も書けなかった。
ありがとうでは足りない。
ごめんなさいでも足りない。
どんな言葉も、私の抱えているものを説明できる気がしなかった。私は紙を握り潰し、暖炉へ投げ入れる。火がそれを呑み込んだ。
――彼は、文字を読めないかもしれないじゃないか。そう自分に言い聞かせて。
そして扉へ手を掛ける。
外はまだ太陽が頭を出し始めた程度だった。
雪は止んでいる。
森はいつもと変わらず静かだった。
私は一度だけ振り返る。
暖炉の橙色の光の中で、ヴィルは変わらず眠っていた。
その姿を見た瞬間。
どうしようもなく胸が苦しくなった。
だが私は唇を噛み、静かに扉を開く。
部屋へ冷気が流れ込み、私はもう振り返らなかった。
――――― ―― ―
――― ――
――
小屋を出てから、一日が過ぎようとしていた。
雪こそ降らないが、空には常時薄い雲が広がっている。
集落があるというヴィルの話を信じ、私は北へ向かって歩いていた。
ヴェルタン街道へは出ない。兵士たちがあの名を口にしていた以上、追手が集まっている可能性が高いからだ。
ならば森を抜け、さらに北へ。
まずはノイヴァルディア大公国を目指し、国境付近まで辿り着こう。
その先のことは、その時考えればいい。
そう思うことで私は気力を保った。
だが、現実は甘くなかった。
傷は癒えたとはいえ、体力までは戻っていない。貴族であることを言い訳にするつもりはないが、もとより歩きで度をすること自体が不慣れなことも、歩く気を散漫にさせた。
足は重く、肺は冷気で焼けるように痛む。
それでも先を考えると立ち止まるわけにはいかなかった。
日が傾き始めた頃、私は小さな岩場を見つけた。
風を多少は防げそうだった。
――ここで夜を明かそう。
私は鞄を下ろし、小屋から拝借した火種を取り出した。倒木の下から乾いた枝をかき集め、慎重に火を移す。
やがて小さな炎が揺れ始めた。私はその前へ腰を下ろす。
久しぶりに一人だった。
だが、不思議なことに安堵はなかった。
むしろ胸の奥には、説明のつかない空白が広がっていた。
暖炉の前。
薬草の匂い。
薪を割る音。
無口な男。
思い出したくもないのに、ヴィルの姿ばかりが頭をよぎる。
私は顔をしかめた。
火へ枝を放り込む。
その時だった。
遠くから声が聞こえた。
「おい!」
私は反射的に立ち上がる。
雪を踏む音が近付いてくる。
男がひとり。
灰色の外套。
帝国兵。
男は私を見ると安堵したように片手を上げた。
「おい、狩人か。スマンが、道に迷って──」
そこまで言って、男の言葉が止まる。
私も固まった。
見覚えがあった。
男も同じだったらしい。
数日前。
猟師小屋。
病人の女。
強烈な薬草の臭い。
互いの目が見開かれる。理解は一瞬だった。
男の顔から血の気が失せる。
そして次の瞬間。
「いたぞォッ!!」
叫び声が森へ響き、私は反射的に駆け出した。背後で怒号が上がる。
「王女だ!」「追え!」「逃がすな!」
雪が舞う。
枝が頬を打つ。
肺が悲鳴を上げる。
だが止まれない。
捕まれば終わりだ。
後ろから矢と礫が飛んでくる中を、私は木々の間を縫うように走る。後方からは絶えず追手の足音が迫ってくる。人数は少なくない。五人か。いや六人か。
剣を抜く音が聞こえる。心臓が激しく脈打った。
やがて辺りは暗くなり始めた。
雪に覆われた森は方向感覚を奪う。
どこかで兵士を上手く撒けたのか、気付けば足音は聞こえなくなっていた。それに気付いて足を緩めた。心臓の鼓動の音が、太鼓のように大きく頭の中で反響する。
ただ闇雲に歩く。どちらへ向かっているのかも分からない。
それでも私は歩き続けた。
雪の上には、自分の足跡が長く続いている。
ヴィルなら、この跡を見失わないだろう。
そう思って苦笑した。私はもう、小屋を出たのに。
そして――。
足を滑らせた。身体が斜面を転がる。雪が舞い上がる。脇腹へ鈍い痛みが走った。
一瞬の静寂。
私は必死に息を殺す。自分でも気づいていなかったが、追手の声が遠くで響いていた。
まだ見つかってはいない。しかし、安全と言える状況ではなかった。
やがて雪が降り始めた。自分の体の心配より、明日朝まで耐えれば、私の足跡を消してくれるのではという希望が勝った。
私は倒木の陰へ身体を押し込んだ。
冷たい雪が肩へ積もる。
息を潜める。動けない。
下手に動けば見つかる。
時間だけが過ぎていく。やがて兵士たちの声は遠ざかっていった。
だが私は出て行けなかった。
寒さではない。
恐怖だった。
王都が燃えた夜。
家族の死。
逃亡。
全てが蘇ってくる。
気付けば視界が滲んでいた。
情けない。王家の娘が。
いつ何時だって感情を抑えていたはずの自分が。
――あぁ、彼といた時はもうすこし素直に笑えていたのに。
その時だった。
雪を踏む音がした。
ひとつ。
ゆっくりと近付いてくる。
私は反射的に剣へ手を掛けた。
だが足音は妙に静かだった。
兵士ではない。
聞き覚えがある。
雪を踏む重い音。森を歩き慣れた者の足取り。
私は息を呑んだ。
やがて倒木の向こうに人影が現れる。
長い槍。
毛皮の外套。
後ろひとつに結んだ髪。
そして。
「……いたか」
ヴィルだった。
「どう、して……」
「昼間、兵士が尋ねてきた。心配になってお前の足跡を追ってきた」
私は言葉を失う。
ヴィルはそれ以上何も言わない。
ただ私を見ている。
剣の柄を握る私の手は絶えず震えている。
その様子を見ていたヴィルは静かに近づいてくると、羽織っていた外套を私にかけた。
「冷え込むな」
そう言って曇った夜空を見上げ、ふうっと白い息を吐いた。
張り詰めていたものが切れた。
気付けば涙が零れていた。
情けないほど、簡単に。
止めようとしても止まらなかった。
ヴィルは困ったように眉を寄せる。
それでも何も聞かなかった。
だから私は、自分から口を開いた。
「……私の国は滅んだの」
震える声だった。
「帝国によって」
森の夜は静かだった。
私は初めて、自分の過去を語り始めた。




