ep.4
ヴィルが罠の様子を見に行ってから数刻が経った。 彼を待つ間、私の頭の中は、一息分たりとも落ち着くことなどなかった。
火へ薪をくべる。薬草茶はとうに冷めていた。
窓の外では、枝から雪が落ちる音だけが時折響く。 静かすぎる森だった。
私は毛布を肩へ掛けたまま、ぼんやりと炉の火を見つめる。考えるべきことは山ほどあった。
あの紋章。あの標語。そしてヴィル。
もし本当に帝国側の人間なら。もし、皇帝と繋がっているのなら。
――私は。
そこまで考えた時だった。
不意に、外で雪を踏み締める音がした。
鳥の声がやけに騒がしくなる。
ヴィルにしては、足音が多い。
ひとつではない。二つ、三つ――いや、それ以上。
身体が強張る。咄嗟に壁へ立てかけられた自分の剣へ目を向けた。だが、今の身体では満足に振れるかも怪しい。
外から男たちの声が聞こえる。
「……煙が見えたのはここだ」「猟師小屋にしちゃ立派だな」「いたとしても流れ者だろ」
帝国訛りのノイデン語だった。
血の気が引く。鍵は閉めていない。
私は立ち上がると、反射的に机の上の薬品を見た。麻布の湿布、薬草、煎じ茶。そして立てかけられた紋章付きの剣。
――駄目。
こんなものを見られれば、“誰かを匿っている”と一目で分かる。
私は奥歯を噛む。痛む脇腹を押さえながら、必死に頭を回した。
逃げる?無理だ。
隠れる?この小屋は狭すぎる。
なら。
私は薬品と剣を暖炉の脇へ押し込んでから、寝台の上へ再び身体を倒し、毛布を深く被った。そして机の木椀を静かに床へ落とす。煎じ茶が床板の上に流れ出る。
同時に、咳き込む。
わざと深く。肺が裂けるような音を作って。
直後、扉が叩かれた。
「誰かいるか!」
返事はしない。代わりに、荒い呼吸だけを返す。
数瞬の沈黙。
やがて扉がゆっくり開いた。冷たい風と共に、鎧の擦れる音が小屋へ入り込む。
私は毛布の隙間から、薄く目を開けた。
三人。
灰色の外套。盾には、双頭鷲を模した銀刺繍。
帝国兵だった。
先頭の男が鼻をしかめる。
「……病人か?」
私は答えず、再び咳き込む。熱は本物だった。演技をする必要すらない。
兵士のひとりが暖炉の傍を見回した。
「小屋の主は」「……狩り、に……」
掠れた声でそう答える。喉が焼けるように痛んだ。
兵士たちは互いに顔を見合わせる。
「女だぞ」「追手の話じゃ、もっと若い娘だった」「髪の色は合ってる」
心臓が跳ねた。
私は毛布の中で拳を握る。
先頭の兵士がこちらへ近づいてくる。床板が軋む音。
そして。
不意に、彼の足が止まった。
兵士の視線が、寝台脇の床へ落ちる。
そこには、先ほど私がわざと零した薬草茶が広がっていた。
強烈な臭い。
ヴィルの煎じた薬草は、熱病用のものだ。匂いも酷い。
兵士は露骨に顔をしかめ、一歩退いた。
「……疫病じゃないだろうな」「こんな森で病なんぞ拾いたくねぇぞ」
別の兵が嫌そうに吐き捨てる。
私はそこで、再び咳き込んだ。今度は、息が詰まるほど激しく。
兵士たちが揃って後ずさる。
――嫌がっている。
私は確信した。
時として、人は剣より病を恐れる。数年前に帝国地域の都市部では壊死病が大流行したと聞いている。彼らも恐らくその時の恐怖を知っているはずだ。
先頭の兵士が舌打ちした。
「行くぞ」「だが……」「こんな女ひとり、違ったら無駄足だ。第一、本命はヴェルタン街道沿いだと伝令が来てる」
私は毛布の下で耳をすましていた。
ヴェルタン街道。ここより西、川の上流の方だ。
帝国もまさか私がこんな下流まで流されているとは思っていなかったのだろう。
兵士たちはなおも周囲を警戒しながら、小屋を後にする。扉が閉まり、再び静寂が戻った。
だが私は、すぐには動けなかった。
冷や汗が背中を濡らしている。動悸が早い。
しばらくして。
遠くから、雪を踏む足音が聞こえた。
ひとつだけ。
静かで、重い足音。
私は思わず息を呑む。
――ヴィルだ。
だが私は安心していいものかと疑心を巡らせる。
彼が帝国側の人間ならば、もし私が「兵士が来た」と伝えれば彼らを追って私の身柄を引き渡そうとするかもしれない。
そうしてゆっくりと扉が開いた。やはりヴィルだった。
彼は複数の濡れた足跡が家の中に残っているのを見ると、私の方へ目をやる。
「誰か来たのか」
ヴィルは槍を壁へ立てかけながら言った。雪で湿ったり森の匂いが小屋へ流れ込む。
私はすぐには答えられなかった。
ヴィルは私を見た。責めるような目ではない。ただ、静かに待っている。
その沈黙が、余計に苦しかった。
「……旅人よ」
私は視線を逸らしたまま言う。
「煙を見て立ち寄ったみたい」
嘘だった。誰が見ても分かるほど、薄い嘘。
ヴィルは何も言わない。ただ床へ残った足跡を見下ろしている。
雪混じりの泥。かんじきを履いた靴の跡。
やがて彼は、暖炉脇へ置かれた木椀を見た。零れた薬草茶。部屋へ残る強い臭い。
そして。
「……兵士か」
低い声だった。
私は反射的に顔を上げる。ヴィルは怒っていない。驚いてもいなかった。
ただ、納得したような顔をしていた。
「どうして分かったの」「足跡が多い」
ヴィルは短く答える。そして
「あと、お前は」
「嘘をつく時ほど、よく喋る」
この人には、私のことがどこまでも見透かされている気がした。
結局、私はその日一日中、ヴィルとほとんど会話することはなかった。ヴィルもまた、私を密告することはなかった。それが次の日も、その次の日もと続いて、4日が経った。
ヴィルはあまり話さなくなった私に対しても何も言わずに、毎日変わらず私の包帯の取り替えを手伝い、茶と食事を用意してくれ、狩りに出かけた。
献身的な世話は、私の傷の治りを早くし、今やほとんど完治したと言ってもいい。
ある朝、私はいつものように、薪の爆ぜる音で目を覚ました。
窓の外は薄曇りだった。雪明かりに照らされた小屋の中で、ヴィルは既に起きている。暖炉の前へ腰を下ろし、黙々と革紐を編んでいた。
私は寝台の上で身体を起こす。脇腹の痛みは、もうほとんど無い。
ヴィルはちらりとこちらを見る。
「熱は」「下がったわ」「そうか」
それだけだった。
会話は続かない。いや、続けられない。
あの日以来、私たちの間には、薄い氷のような沈黙が横たわっていた。
ヴィルは何も聞かない。兵士についても。私の素性についても。なぜ追われているのかについても。
ただ静かに、以前と変わらぬ調子で、私を世話し続けている。
そのことが、逆に私を苦しめていた。
疑うなら疑えばいい。問い詰めるなら問い詰めればいい。
なのに彼は、まるで私が何を隠していようと関係ないと言わんばかりだった。
私は毛布を握り締める。
――どうして。
どうしてこの人は、何も聞かないのだろう。
ヴィルは編み終えた革紐を机へ置くと、立ち上がった。外套を手に取る。
「どこへ?」 「離れだ」 「何をしに?」 「雪解けが近い。春に備えて、仕掛け罠を増やさなければならない」
彼は淡々と答える。 私はその背中を見つめた。
気づけば、口が動いていた。
「ヴィル」
彼の足が止まる。
私は言葉に詰まる。呼び止めたくせに、その先が出てこない。
聞きたいことは山ほどあった。
あの紋章は何なのか。なぜ帝国の標語を持っているのか。
恩あるあなたは、いったい誰で、何者なのか。
けれど。
もし答えが、自分の望まないものだったら?
私は、彼に剣を向けなければならないかもしれない。
ヴィルは振り返らないまま、静かに待っていた。
その沈黙に耐えきれず、私は視線を落とす。
「……いえ。何でもないわ」
数瞬の静寂。
やがてヴィルは、小さく息を吐いた。
「そうか」
扉が開く。冷たい光が差し込む。
だが彼は、出て行く直前、不意にこう言った。
「お前は」
静かな声だった。
「人を疑うのに向いてないな」
そういう彼の顔は少し笑っているように見えた。
私は息を止めた。
ヴィルはそれ以上何も言わず、小屋の外へ出て行く。 扉が閉まり、静寂が戻る。
私はしばらく動けなかった。
なぜそう言ったのだろう。
責めるでもなく。
怒るでもなく。
ただ事実を口にするように。
私の嘘を嘘と知りながら、それでも何も聞かなかった。
今ならわかる。
私は、帝国人であることそのものを恐れていたのではない。
ヴィルが敵かもしれないと証明する理由を探していた。
皇帝の紋章も。あの標語も。
そのための材料にしていただけだった。
──彼に嘘はつけない。
私は、彼の恩に嘘を吐き、あまつさえ一度でも疑心を抱いてしまった。その後悔と罪悪感で、息が詰まりそうだった。
私はこの小屋を出なければならない。
傷が治ったからではない。
これ以上ここに居れば、私はまた彼に嘘を吐く。
恩人に。
私を救った男に。
そんなことはしたくなかった。
恩人に嘘を重ねながら生き延びるくらいなら。
私は、この小屋を去る。
それが王家の娘として残された、せめてもの矜持だった。




