ep.3
3
翌朝、目が覚めると吹雪の音は止んでいた。
採光窓から覗く空は青い。
辺りを見渡すと、椅子に座ったままヴィルが腕を組んで寝ていた。食器は出されたままで、暖炉の薪は灰混じりの赤黒い炭になって燻っている。私が眠った後、ヴィルも眠ってしまったようだ。
私は彼を起こさないように慎重に寝台から扉に向かって歩き始めた。
扉へ手を掛ける。軋む音を立てぬよう慎重に押し開くと、冷たい朝の空気が頬を撫でた。
雪は一面、陽光を受けて白く輝いている。森は静かだった。昨夜あれほど唸っていた風が嘘のように止み、聞こえるのは遠くの沢音と、時折枝から雪が落ちる音だけだった。
1歩前へ踏み出す。私は足裏の冷たさに小さく震えた息を吐く。肺へ入り込む冷気が痛い。
小屋の外には、薪割り台と井戸、それに小さな離れが建っていた。壁際には鹿角が吊られ、干された薬草束が軒下で揺れている。
――森の民の暮らしだった。
野盗や流れ者の住処ではない。誰かが長い時間をかけて整えてきた場所だ。
ふと、昨日ヴィルが言っていた離れの事を思い出し、目をやる。一見何の変哲もない小屋だが、離れの脇には、錆びかけた鉄製の紋章板が立て掛けられていた。
雪に半ば埋もれているが、完全な紋章一式で、荘厳な兜飾り、時代遅れの盾――。離れてはいたが、それが古い貴族紋であることくらい、私には分かる。
裸足のまま雪の上を歩き出す。だが盾の紋様は、意図的に削り落とされていた。
雪を払い、私は標語を読み上げる。
「〝清貧なれ。貧しきは優しさの故に。 清廉であれ。清きは強さである故に。〟」
――これは。
喉が、ひゅ、と鳴った。
私は震えが止まらなかった。それは、この寒さのせいでも、熱を帯び始めた傷の痛みのせいでもなかった。
だってこれは、皇「アシュリーン!」
背後から呼び声が聞こえた。
小屋の戸の方からヴィルが私を呼んでいる。ヴィルは小走りで私に近寄ってきて、抱えていた毛布を肩にかけた。
「何を馬鹿なことしてるんだ、傷に触るぞ」
ヴィルの顔が見れなかった。ただ胸に手を当てて、強く手を握っていた。
「…ごめんなさい。あんまり外が綺麗だったから」
私は心を押し隠してにこりと笑った。
ヴィルはその様子を見ると、昨日と同じように、何も聞かず、ただ目を瞑って口を結んだ。
ヴィルがふいに腰を落とし、背中を見せた。
「とにかく、裸足で外に出るな。破傷風になったらどうする」
おぶるぞ、という意味らしかった。私は何も言わずに、言われるがまま背中に身を委ねた。
ヴィルの背中は、近くで見ると、静かで、大きく、野性的な力強さを感じる。
昨夜と同じ背中のはずだった。
けれど今は、その静けさの奥に、何か別のものが潜んでいるように思えた。
――いや。
――変わったのは私のヴィルを見る目なのだろう。
小屋までたどり着いたヴィルは、私を寝台へと再び降ろした。
麻布を手渡し、「それで足を拭け」とでも言わんばかりの顔をしている。私も言われるままに足を拭いた。
彼は少し怒っているように見えた。多分、怪我の治っていない私がひとり外に出てしまったからだろう。
――あるいは、別の理由があるのかもしれないが。
不意に心の奥が小さく痛む。
顔をあげると、彼の手があった。私は身体をびくっと震わせ、目を閉じた。
だが、彼の手は私の額に触れただけだった。
「少し熱が高い。今日はもう寝ていろ」
彼はそれだけ言って一歩後ずさった。
その後、彼は私に薬草の煎じ茶と干し肉、黒パンを持ってきた。
湯気の立つ木椀が、机へ静かに置かれる。薬草の青臭さと、焦がした獣脂の匂いが鼻を掠めた。
「昨晩のより苦いぞ」
ヴィルはそう言って、干し肉を小刀で削ぎ始めた。 私は椀を両手で包み込む。熱が指先へ滲み、凍えていた感覚がゆっくり戻ってくる。
「……ヴィル殿は」
気づけば、そう口にしていた。
彼の手が止まる。
「何だ」
私はしまった、と思った。昨夜まではただ“ヴィル”と呼んでいたはずなのに。自分でも、なぜそんな呼び方をしたのか分からなかった。
だが、分からないはずがなかった。
あの紋章。あの標語。あの所作。
全部が、帝国の匂いを纏っていたような気がしてくる。
ヴィルは干し肉を切り分けながら、低く言う。
「殿なんてやめろ」
怒った声ではなかった。だが、僅かに眉を寄せている。
「似合わん」
私は椀へ視線を落とした。
「……そうかしら」
「そうだ」
短い返答。けれどその声音には、貴族として呼ばれることへの嫌悪にも似た響きがあった。
私は薬草茶へ口をつける。舌が痺れるほど苦かった。
「っ……苦い」
思わず顔をしかめると、ヴィルが小さく鼻で笑った。
「だから言った」
その顔を見て、胸が少しだけざわつく。
――この人は、本当に帝国側の人間なのだろうか。
もしそうなら。もし、私の国を滅ぼした側の人間なら。
なぜこんな風に、私へ薬を煎じ、食事を運び、雪の中から拾い上げたりするのだろう。
分からない。
分からないからこそ、怖かった。
ヴィルは火掻き棒で炭を崩しながら、不意に口を開いた。
「お前」
私は肩を揺らす。
「今日は、やけに静かだな」
灰色の瞳がこちらを見ていた。私は反射的に笑みを作る。
「元から静かな方よ」
「嘘だな」
即答だった。
私は思わず目を瞬かせる。ヴィルは火を見つめたまま続けた。
「昨夜はもっと喋ってた」
その言葉に、また、胸の奥が小さく痛んだ。
昨夜までの私は、彼を恐れていなかった。
けれど今は違う。
昨夜まで、ただの森の男に見えていた。
けれど今は、その肩越しに、鉄と旗の匂いが感じられる気がした。
火が爆ぜる。小屋の中へ、短い沈黙が落ちた。
やがてヴィルは立ち上がり、壁際へ掛けられた毛皮外套を手に取る。
「……少し罠を見てくる」
「ひとりで?」
「いつもそうしてる」
ヴィルは槍を肩へ担ぐ。陽の差し込む扉の前で、その横顔が一瞬だけ影になった。
「昼までには戻る。熱が上がったら、その薬を飲め」
私は答えられなかった。
扉の向こうで、雪を踏む音が遠ざかっていく。
私は熱を失っていく薬草茶を見つめたまま、しばらく動けなかった。




