ep.2
「それで、ここはどの辺りなの?」
ヴィルは私の前で椅子に腰掛け、私の話を聞いてくれている。彼は口数こそ少ないが、私を不快にさせるようなことはしなかった。『心は舌には宿らない《信用は言葉ではなく行動である》』を体現したような人であると、僅かな会話や行動から、早くも私は彼をそう見なしている。
「北方街道から半日ほど外れた森の奥だ。山を超えればマイトバイン方伯領ヘイデンに入る」
「半日……」
思ったより深い場所まで流されていたらしい。
私は木椀を両手で包み込みながら、立ち上る湯気を見つめた。
「街は近い?」
「一番近い集落なら、日が登りきる前に発ち、歩いて日が半ば沈む頃には着く」
遠くはない。
だが、今の身体で歩ける距離でもなかった。
しばらく黙り込んだ私へ、ヴィルが視線を向ける。
「追われてるのか」
不意の言葉に、思わず肩が強張った。火が爆ぜる。背中が汗ばむ。
ヴィルはそれ以上何も言わない。
ただ灰色の瞳だけが、静かにこちらを見ていた。
私は小さく息を吐く。
「……街へ向かう途中だったの」
どこまで話すべきか、一瞬迷う。
だが、命を救われた相手へ完全な嘘を吐く気にもなれなかった。
「途中で野盗に襲われたわ」
「何人だった」
「五人……いえ、六人だったかしら」
「なら、吹雪が止んだら集落の役場へ報告を――」
彼がそこまで言った所で、私は彼の袖を掴んだ。
突然だったが、ヴィルは眉ひとつ動かさなかった。
私が小さく首を振ると、彼は少しの間私を見つめ、やがて目を閉じ、口を真横に噤んだ。
「生き残ったのはお前だけか」
私は答えなかった。
答えなくても、ヴィルには分かったらしかった。
重い静けさが私たちの間に流れる。
薪が崩れ、火の粉が小さく舞い上がった。
ヴィルはそれ以上問いたださなかった。立ち上がり、炉へ薪を一本くべると、壁際へ置かれた外套と槍を手に取る。
「どこへ行くの?」
「薪を持ってくる」
外はまだ吹雪いている。天井の採光窓から覗く世界は白一色だった。
「今から?」
「じき弱まる」
短く答え、ヴィルは毛皮の外套を羽織る。その動作は慣れたものだった。山で生きる者の動きだ、と私はぼんやり思う。
扉へ向かう背中を見ながら、不意に口が開いた。
「……どうして私を助けたの?」
ヴィルの足が止まる。
だが振り返りはしなかった。
「……川に死体が流れてれば、普通は拾う」
普通。
その言葉に、私は少しだけ目を伏せる。
貴族の館でも。街でも。戦場跡でも。
“普通”に人を拾う者など、そうはいなかった。
ヴィルは扉を開ける。途端、白い風が唸り声のように小屋へ吹き込んだ。
「離れだ。すぐ戻る」
それだけ言い残し、彼は雪の中へ消えた。
扉が閉まる。
再び静寂。
私は木椀を握ったまま、揺れる火を見つめた。
――信用していいのだろうか。静けさの中で私は考える。
分からない。
けれど少なくとも、あの野盗たちよりは――見てきた人々よりは、ずっと、人間らしく見えた。
そして今はただそれだけを信じることにした。
───── ── ─
─── ──
──
どれほど経っただろうか。
風の唸りに混じって、外で雪を踏む音がした。
やがて扉が開き、白い風と共にヴィルが戻ってきた。
背中には薪束。毛皮の外套には雪が厚く積もっている。
彼は無言で薪を炉の脇へ降ろすと、火の前へ片膝をついた。雪が熱で溶け、床へ雫を落とす。鍋を一瞥する。
「食事ができた。シチューにしたから、お前でもまだ食べやすいだろう」
「ありがとう。でも、生憎支払えるお代が無いわ」
「代などいらん」
彼は外套を掛け、服の雪を手で払うと、棚からいくつか取り出して暖炉に腰を折る。そうして私にシチューを注いでくれた。
「カブと芋、鹿肉、香草に出汁を加え牛乳で煮立たせ、黒胡椒を少々入れた。口に合わなければ別のものを用意する」
「何でも有難く頂くわ」
彼は戸棚から布に包まれた黒パンを取り出した。私の寝台の横まで丸太机を持ってきて、そこへ皿を並べ置いた。
ヴィルもまた私の近くの椅子へ座り、食事を始めた。
差し出された食事を前に、私は目を瞑り、神へ祈る。
「今日の恵みが明日まで続きますように」
そう言って椀を持ち上げ口付けした。
ヴィルは私が物珍しいように視線を向けていた。
「どうかした?」
ヴィルは自分の木椀を持ったまま、しばらく黙っていた。
橙の光が、彼の灰色の瞳へ静かに映っていた。
「いや」
やがて彼は、小さく息を吐く。
「珍しいと思っただけだ」
「祈ることが?」
「食う前に、そういう言葉を口にする奴は、この辺りじゃ少ない」
私は木椀へ視線を落とした。
「故郷の癖みたいなものよ」
そう答えながら、少しだけ後悔する。
故郷。
その言葉が、思った以上に簡単に口から零れてしまった。
だがヴィルは、それ以上踏み込まなかった。
彼は黒パンを手に取る。
硬い表面へ静かに刃を入れ、食べやすい大きさへ切り分けていく。
その手つきを見て、私は僅かに眉を寄せた。
妙に所作が綺麗だった。
ただ腹を満たすための動きではない。
無駄がなく、丁寧で、静かだ。
少なくとも、山賊や流れの傭兵がする食べ方ではなかった。
ヴィルは切り分けた黒パンを、何も言わず私の皿へ寄せる。
「……お前」
不意に彼が口を開いた。
「育ちは悪くないな」
私は思わず目を瞬かせる。
「どうしてそう思うの?」
「器の持ち方」
ヴィルはシチューへ視線を落としたまま言った。
「あとは、背筋」
私は少しだけ息を詰まらせる。
長旅の中で、そういう癖は随分捨てたつもりだった。
言葉遣い。食事の作法。姿勢。
だが、幼い頃から身体へ染み込んだものは、案外消えないらしい。
「あなたこそ」
気づけば、そう言い返していた。
ヴィルが視線だけをこちらへ向ける。
「随分、作法に詳しいのね」
数瞬の沈黙。
火の爆ぜる音だけが、小屋へ響く。
やがてヴィルは木椀を口元へ運びながら、
「親父殿がうるさかった」
とだけ答えた。
「肘をつくな。騒ぐのはやめろ。物を振り回すな……色々だ」
その口ぶりは少し呆れたようで、だが嫌っている風でもなかった。
私は小さく笑う。
「厳しい人だったのね」
「今思えばな」
ヴィルはそう言って、黒パンをシチューへ浸した。
外ではまだ吹雪が森を鳴らしている。
けれど火を囲むこの小屋の中だけは、不思議なほど穏やかだった。
食事を終えた私は、上がった体温のせいか眠くなった。ヴィルに断りを入れて横になると、すぐに瞼が重くなった。
一先ず、私は生き延びた。そして奇妙なことに、ヴィルは私のことをもてなしてくれている。
うっすらと開かれた視界の先には、火に照らされて影に見えるヴィルがこちらを見つめている。
「考えるのは、また明日にしよう」
そうして私は瞳を閉じた。
――今日の恵みが、明日も続きますように。
どこからかその言葉が聞こえた気がした。
だが、それを深く考える前に、私の意識は眠りに沈んでいった。




