ep.1
冬の川は、死体を遠くへ運ばない。
浅瀬の石に引っかかり、
枝に絡まり、
やがて氷の下で春を待つ。
だから男は、最初それを死人だと思った。
橙の髪が、氷混じりの水面にゆっくり揺れていた。
冬の森では、死体に近づく獣から先ず死ぬ。狼、熊、あるいは人……その生物を殺した要因がすぐ傍に潜む。
それを教えたのは彼の父だった。
槍を構えたまま様子を伺う。その間も雪は深々と降り積もってゆく。
生きているかどうかを確かめるため肩に触れた瞬間、死人のように青白い唇が咳き込んだ。
男は何も言わなかった。
ただ外套を脱ぎ、女を抱き上げた──。
───── ── ─
─── ──
──
薪の爆ぜる音で私は目覚めた。
火の匂いがする。湿った木材と、獣脂の臭い。視界に飛び込んだ天井は高く、梁は煤けて、小屋の中の寝台に私は居た。
身体を起こそうとすると、脇腹に鈍い痛みが走り、息を呑む。
──生きている。その事実を理解するのに、幾つか呼吸を要した。
「おい」
と低い声がした。
同時に、壁に立てかけられた私の剣が目に入る。鞘ごと置かれている……奪われてはいないようだ。
──殺すつもりなら、とっくに殺せたはず。
そう判断して、声の方へ顔を向けた。
目を向けた先には薪が赤々と燃え、その傍らに背中を黒い人影があった。顔はよく見えない。
男は火の前で鍋に肉を切り入れていた。長い髪は後ろで一つにまとめられている。傍らには、壁に立てかけられた1本の槍。
兵士にも、傭兵のようには見えなかった。しかし手放しに信頼のできるような人間でもなさそうだった。
「あまり動くと傷に障るぞ」
とこちらを見遣りともせず彼は言った。
何か言わねばと、言い出す文言も考えず、音を喉から出そうとして眉をひそめた。
声が出ない。喉がひりと痛む。
男はそこで初めて手を止めると、首を回して私を見た。
「水か」
と男は短く言った。問いかけというよりは、確認のために言ったようだった。私が静かに頷くと、男は立ち上がり、水差しと木杯を手に取って近付いてきた。
私の目の前で器に水が注がれる。そして男は私に腕を突き出した。
「少しずつ飲め」
近付いてきた男の顔を、私はようやくまともに見た。
若い。
思っていたより、ずっと。
灰色の瞳が、不思議なことに妙に私を安心させた。
手から器を受け取り、言われるがまま、舌先から湿らせ、そして思い切ってひとつ飲み……だが上手く飲み込めず、むせた。
「ゆっくりでいい」
と低い落ち着いた声が私を宥める。その声に背中を押されるまま、何口か水を飲み、喉に手を当てた。
「ありがとう」
言い終わるかどうかと言うところで、彼は身を翻し、鍋の元へ去る。そうして、大きな鍋と小さなポットを交互に混ぜていた。
「死なれると後味が悪い」
彼は小さくも大きくもない声でそうとだけ返した。だが不快な感じはしなかった。火に照らされる彼の横顔は静かで、長い冬に慣れきった人間、と言う風に感じられた。
私は痛む脇腹を確認しようと、そこで初めて自らの身体に視線を落とした。
――着替えさせられている。
辺りを見渡すと、濡れていた外套は火の傍の椅子へ掛けられ、革鎧もそのそばで乾かされ熱気に湯気を立てていた。
徐に彼と目が合う。私は目を逸らす。
「脇腹の傷だが」
彼が話し始める。私は顔をあげることなく、ただ床の木目を見つめていた。私は耳だけを彼に傾けた。
「致命傷ではないが、思ったより深い。化膿しかかっている。今薬草を煎じているから、少し待て」
「──あなたが、傷の手当を?」
「他に誰がいる」
私は返す言葉を失った。
無愛想な男だなと、気がつけば笑っていた。笑う度に脇腹が痛むが、あまり気にならなかった。顔をあげると、再び彼と目が合う。
「何が面白い」
「いえ、あなたの無愛想さが、おかしくて」
「変なやつだな」
「よく言われるわ――ねえ、あなたお名前は?」
吹雪か何かが戸を強く吹き付けた。
「ヴィルだ」
「ヴィル…」
口の中でその名前を転がす。
不思議とその瞳に似合う名前だと思った。
「お前はなんと言う」
「私は……」
彼は私を見つめたまま。
私はすぐには答えなかった。
薪が爆ぜる。
外では、変わらず風が雪を叩いていた。
――名前。
それを口にするだけで、過去が追いついてくる気がした。旅の途中、偽名を使ったこともある。名を聞かれる前に街を去ったことも。
名前は、人を縛る。
時には、それだけで剣を向けられる。
だが、目の前の男は刃ではなく、沈黙を私に向ける。急かしもしない。
その静けさが、不思議と私の警戒を鈍らせた。
私は小さく息を吐く。
「―――私の名前は、アシュリーン」
前作を知っている数少ない方はお分かりかと思いますが、とにもかくにも遅筆です。頑張りますので気長にお待ちください。
なろうを開いて更新されていると、ちょっと嬉しい。そういうお話を目指しております。
物語の着地点はありますが、何分長いお話になりますので、結末まで長く愛していただければと思います。




