十話 虎事に縁の雨 "It's not someone else's problem"
ついに虎に遭遇(灯子は咥えられて持ってかれた)した二人。
そこで知る虎の正体とは。
でけぇ。それが己が虎を見た時の第一感想だった。山のなだらかな斜面の下に虎がいるというのにわずかに見上げなければならない。その金色の双眸にある黒く細長い瞳孔が己と見合う。
体格は二十尺、六メーター超えとか狸は抜かしていたが、実際は十メートルに届きかねないほどの巨躯。白い牙が見えるその口には灯子の姿。身長百七十を超える灯子の高身長がまるで人形のようだ。虎としては完全に規格外でギネス記録もびっくりの実に化け物。つまり、これが灯子の言うところの、虎の姿をした何か。
「で、虎ん口におさまって何してやがる」
「なにって別になんも?いや、ダブルピースだっ」
「食われてんじゃねぇよ。ダブルピースもいらねぇ」
「写真撮る?今チャンス!」
「ピンチの間違いだろ」
会話を続けながらも、気を強く張り、いつ虎に斬りかかってもいいように重心を低く構え、己は覚悟を決める。だがそれに反して灯子は虎を見つけたぜー!やったぜー!と今だにダブルピースをしたままだ。緊張感の欠片もない。
「ちぇー、せっかく写真映えしそうなのにさー」
次に出た灯子の声は己の後ろから聞こえた。虎に咥えられた灯子は今だピースピースと連呼している。つまりこれは別の灯子の声。己はそれを聞いて驚くことなく、わずかに視線を左隣へと向けた。そこにはいつのまにか灯子が並び立ち、手には煙管を持ち煙をくゆらせている。この場に灯子が二人。
驚くことはない。己はダブルピースをしている側の灯子の姿を見た瞬間に、それが幻だということはわかっていた。姿を消す直前に持っていた何が何でも手放そうとしない煙管を持っていなかったのが幻と本物との見分け方の一つだ。
「虎に咥えられてんのはやはり幻か。俺が目を切った一瞬でよく作り出せたな」
「数秒も目を離していた己に褒められてもうれしくないわねぇ。1秒でも目を離してくれるなら幻なんていくらでも創り出してあげるわよ」
灯子は煙管をひと吸い。煙を吐き出すと同時に虎が咥えていた幻の灯子もまた立ち消える。灯子と長い付き合いで幻を見慣れている己はともかく、幻と言われても頭が理解できるわけもない虎は奇妙な光景、奇妙な現象に前足を一歩後ろへと下げた。
その瞬間を己は見逃さなかった。臆した者が見せる一瞬の隙。わけもわからない現象をどうにかして理解しようとするために思考が内側へと入るタイミング。弱点のいたるところが無防備になる警戒の解除。覚悟を決めた己が待っていたその空白。短く息を吐き、呼吸を止めると同時に柄に乗せた右手が動く。
「はい待った」
同時に、刀を引き抜く手にわずかな抵抗を感じ己は手を止める。灯子が己の刀の柄にそっと手を置いていたのだ。ビタリ。己は灯子の言葉に虎から目線を切らずに刀を抜きかけた状態のまま静止した。
呼吸、握り、踏み込み。全てが斬撃につながる動作。それよりも刀の柄に手を置くだけの灯子の方が己よりわずかに早かったのだ。
刹那のタイミングで幻を扱えるほど瞬間的な反応速度に長け、同時に己の性格から斬り込むだろうと予測していた灯子にとってこれくらいは造作もなく、そしてそのまま虎に聞こえないようにそっと言葉を続ける。
「斑の警告よ。何が何でも山は血で汚せない」
「その警告には虎の血も入ってやがるのか」
「何が、と言っていない以上それに努めるのが賢明ね。もし責められたら申し開きの機会もないわ。弁明を許すほど斑六郎右衛門狸は甘くない」
「その言い方だと俺もか。あぁなるほど。あの時、俺が違うとかどうとか灯子と斑の親分が言っていたのは、俺も幻かどうかを聞かれていたってぇことか?」
「そゆこと。幻なら何がどうあっても血は出ないしね」
灯子の真に迫る声に己は厄介だなと思いつつもそれに従う。だが目の前には巨躯の虎。守るべき灯子がいつ殺されてもおかしくはない状況に変わりはない。灯子の祖父、萩原幻灯から御守を任されている手前、素直に引くこともまたできない。ならどうするべきかとわずかに考え、己は刀の柄からわずかに右手を離す。それが今この場において己ができる最大の譲歩だった。
だが、それだけで灯子は「流石の己」と笑みと同時に言葉を掛ける。己にこれ以上できることが無いとすれば、ここから先は灯子の出番だ。にぃと笑みを浮かべる灯子に「任せるぞ」と己は声を掛けるが、灯子は呆れた声を出した。
「え、任せるも何もないわよ。喋れるんでしょ?虎ちゃん?」
「は!?こいつもか!?」
その言葉に流石の己も驚いて思わず虎から目線を切る。虎もその言葉に反応してびくりと顔を上げた。灯子だけがにししと笑みを浮かべている。
「見りゃわかるでしょ」
「見ればって、どのあたりだ」
「説明いる?」
「いるだろう。俺もそうだが、そのシマシマの奴も聞きてぇんじゃねぇか?」
「じゃ説明いたしましょうっ。虎ってのは猫の行動を知ればよくわかる。瞳孔は細く、ヒゲは今でも私たちの方向を向いていない。獲物を取る時の集中力がない事を示してるし、私を襲った時も、虎特有の押さえつける行動もなく、甘噛みで咥えて持って行く。しかも後ろから己が来ているのにも気づいているのに速度を上げない。極めつけは獣の臭いが全くしないときた。これだけでも虎としておかしいのに、足元を調べて無防備な己じゃなく、虎にとっては強く嫌な匂いのする煙を平然と吐く私を狙った。これだけの理由を並べれば、この虎に理性があってもおかしくないでしょう?」
どうだ、とばかりに説明を並べる灯子。それは己に向けてではなく、どちらかと言えば虎に向けてと言えるだろう。私にはわかっている。だから遠慮なく喋っていいぞと言わんばかりに。
己も灯子に言われたことだけでなく、灯子が喋れるんでしょ?と声を掛けた時にあからさまに反応したことを見て、人の言語を理解していそうだと感づいていた。
灯子は笑みを向けたまま虎の返答を待つ。虎は灯子と己の姿を交互に見やり、どうするべきかと思案しているようにも見える。わずかの間が流れ、その虎の返答を促したのは、己だった。ふぅと息をつくと、刀を持つ左手の力を抜いて構えを解く。
『……ご、ごめんなさい』
「ほら、喋れるじゃない」
「ふん、そうらしいな」
『灯子ちゃぁん。お、脅かすつもりだったんだよぅ……』
「ん?と、とうこちゃぁん?私?私か?」
「今、灯子の名を呼んだな」
『こ、怖かったから、ひ、ひっく。と、灯子、ちゃんに見つかって』
虎は頭をぐっと下げると嗚咽を漏らしながら人間のように泣き始める。その目からは大粒の涙がボロボロと流れ始め、目をこすることが上手くできないからか何度も瞬きをしている。何とも奇妙な光景。
灯子の言う通り、わずかに獣のゴゥゴゥとした声も混じるが間違いなく人語を喋ったのは確かだった。女の子の声。だがそれよりも、灯子ちゃん?と虎が口にした言葉に灯子と己は互いに顔を見た。
「え?今、私の名前言った?」
「おい待て灯子、知り合いか?」
「虎に知り合いなんているわけないでしょ」
『お、己君も、ひ、ひっく、こ、怖かった』
「あんたの知り合いじゃない?」
「虎の知り合いなんざいねぇ。こいつぁどうなってんだ?」
ひんひんと人のように泣き続ける虎はついにその巨体を地面に座らせ、前足に顔を押し付けるように体を崩した。もう聞こえるのは泣き声と嗚咽で言葉にもならないらしい。巨躯の虎がもつ先ほどまでの威圧はもうそこにはなく、ただ弱弱しく怯える猫がいるようにも思える。
「んーっと、たぶんこういう事か。それなら予想通りになるし。うん私か」
「おい灯子、一人で納得してねぇで説明しろ。流石にお前の予想とやらも話してもらわねぇと状況に頭がついていかねぇ」
「えー」
「面倒そうな顔をするな。見晴岩にいったら予想を言うと言ってただろう?」
「こーなったらしょうがないわね。全部話すけどさ、話したところで信じられるかどうかってところよ?」
「構わねぇ。喋る狸にでけぇ狸と続いたんだ。もう何が来ても問題ねぇだろ。それにそこの虎が泣き止むまで待たねぇと話ができやしねぇ」
「ま、そーねぇ」
灯子は一度、虎の方を見るが、灯子と己が目の前にいるにも関わらず泣き続けている。これからどうするかも含め己に説明すべきだと判断した灯子は、やれやれと言いながら指を一つ立て、己に言う。
「虎の正体は憑き物。元は人間だったものに虎の霊魂が取り憑いたものよ」
「……」
「なにその信じられないって目は。グラサン越しでもバレバレよ」
「まぁいい、続けてくれ」
「これもう確定事項だからね?信じなくても真実だからね?」
「わかってるよ。その予想はいつからだ?最初からか?」
「最初から虎の話が絶対に憑き物だって確信していたわけじゃないって。己から話を喫茶店で聞いた時は低い可能性の一つでしかなかった。己は知らないだろうけど、美月山が立ち入り禁止になったのも霊山としての力場がありすぎて、あそこで泣いてる虎みたいな事故が今なおあるからだったりするのよ。まさかほんとになるとは。これ私の今の感想」
「事故か。俺とお前は……まぁ許可を得て入ってる以上は大丈夫なんだろうな」
「取り憑かれるって言うのは、心の隙間や意識の隙間に霊体が入り込んでしまう事を指すの。強いショックを受けたり悲しんだり、怒ったり、感情が強く振れた時にね」
「九重の家族だけに許可が下りるのも、そう言った不可思議なことにまだ理解があって、そう言ったことに出くわしても感情が大きくブレないからってことでいいのか?」
「理解が早くて助かるわ。ま、それだけじゃなくて私たちが体の中に持つ神通力も私たちを守ってくれている要因ではあるけどね」
「で、この憑き物。偶然じゃぁねぇんだろう?」
「偶然の様な必然よ」
「偶然の様な必然か」
「己は覚えてる?二十八日"に"小雨"が降っていたって話」
「会合で聞いたな」
「これ、紅月の旦那が言っていたことなんだけど、私はこれを聞いた瞬間に虎話の予想は憑き物の可能性へと大きく傾いた。すごい外れてほしかったけどさ」
「で、二十八日と雨はどう関係してくるんだ?」
「虎が雨」
「虎が雨?」
「旧暦の五月二十八日に降る雨の事を指す言葉よ。語源は日本三大仇討ち物語の一つ曽我兄弟の仇討ち。その物語で曾我十郎祐成が死んだときに、祐成に愛された遊女虎御前が死を悲しんで雨を降らすと言われた日を虎が雨って言うのよ」
「そこで虎と結びつくわけか。ちと結びが強引な気もするが」
「勿論それだけじゃなくて、さらに本人にも何かしら虎に関する縁があったはずよ。流石に虎の縁までは本人に聞かなきゃ私もわかんないけど、憑き物の縁なんてそういう今も昔も結構曖昧なもんなのよ」
「大体の流れはわかった。この虎はもともと人で、虎が雨やら美月山やら虎の縁があって虎の憑き物になっちまったと。で、灯子は俺から話を聞いた段階でそうなんじゃないかと思っていたってわけだな。実にオカルトな話だ」
「全容じゃないけどね。どう?信じる?」
「オカルトチックなのは俺よりもお前のほうが詳しい。灯子がそう言うならそうなんだろうな。それからお前が只の虎話じゃなくて面倒だと言ったことも理解した。あぁ確かに面倒だ」
己は灯子の虎憑きの話を聞き、やれやれと煙草に火をつけ煙を強く吐く。具体的な経緯こそわかっていないが、虎話の一端が見えたことで、次にすべきこともまた見えてくる。それは灯子の御守として付き合う己も面倒だとわかることだ。
「灯子、話のつまりは、虎を元に戻さなきゃならねぇってことだろう?」
「そゆことー」
今だ泣き続ける虎が元は人だっていう話だとするならば、問題はここからになる。人がどうやって虎になってしまったかという経緯を探った上で、今度は虎を人に戻さなくてはいけない。警察沙汰ではなく超常現象に向き合わねばならないこの辺りが灯子が言う炎の血族側の話であり、九重の家族の会合の議題として挙がる理由だと己は嘆息に白い煙を混じらせながら理解した。
「で、虎の経緯は置いといたとしても、俺と灯子の名を呼んだのはなんでだ?」
「私を知ってる。己を知ってる。つまりそう言う知り合いってことでしょ」
「アッチの道に行って戻ってくるまで灯子と俺の共通の知り合いと言えば大体男だな」
「そうねぇ。頬に傷のある人たちが大半よね」
「で、虎ん声を聞けばわかるが、女だろう?」
「私もそう聞こえる」
「まだ足入れてねぇとするなら、あー…なぁ虎、お前もしかして中学んときのか?」
虎は泣きながらうんうんとうなずいた。もはや虎の顔面は涙と鼻水とよだれでぐっしゃぐしゃである。ひでぇ顔だなと己が思わず言葉を漏らすと、また虎は顔を突っ伏して泣き始めた。今度は土まで顔につけながら。
「なに泣かせてんのよ」
「つい口がでちまった。いや、それより俺はこいつに覚えがねぇ。中学んときのって言うなら誰なんだ?こいつ。わかるか?」
「虎が雨に虎の憑き物とくれば、虎にちなんだ名前だと思うんでさっきから思い出そうとしてるんだけど……いたかなぁそんな子」
うーんと頭をひねる灯子。虎が灯子や己と同じ二十四歳として、成人した後の姿でも面影と言うのは多少なり残っているはずだが、面影と言うものが微塵もない大変身した虎の姿ではわかるはずもない。唯一人間味のある声でさえ獣の喉で混じってしまう雑音でうまく聞こえず、誰か判別することは今は困難を極める状況だ。
「これで当てろって言うのは無理があるわね。とりあえず本人に聞きますか」
「なぁ、あんた名前は?」
己が名前を聞くと、虎はぶんぶんと首を横に振った。飛び散る涙なのか鼻水なのかよくわからない汁が土と一緒に勢いよく飛ぶ。
「あ?そりゃどういう事だ」
『わかんない』
「名前がわからないってことなの?」
『名前が、思い出せないの。ひ、ひっく。ずっと、ずっと前から!わたじ、本当の名前どっかいっちゃってっ、いつのまにが山のながにぃ、うぇえええ!』
「そっか、名前思い出せないのね。うんうん。それは確かにつらい」
「適当にうなずいてるんじゃねぇだうろな灯子」
「いいから黙ってなさい。こういう泣き虫は共感してあげるのが一番なのよ。泣いてる原因もまだ全部わかってないし」
『いづのまにが、虎になっちゃってるじ、どうじでいいかわがんないじぃいい!人にみつがんないようにじて、だら、灯子ちゃん来ちゃうし!おどかしてどうにかじて逃げてもらおうどじだらっ、ダブルピースで写真映えとか言うしぃいい!うわあああ!』
「泣いてんのお前のせいじゃねぇか?灯子」
「ええっ!?これ私か!ごめん!ほんとごめんて!ちょっとふざけすぎた!」
一層泣き出す虎。もう地面には水たまりができるほどになっていた。下手に泣き虫に成長した大人の方が落ち着かせにくい、と己も灯子も内心で思う。これはどうする?と己が目線で灯子に訴え、灯子が待つしかないでしょと肩を落として答えた。
日が暮れる前には話が聞きたいと灯子は思ったが、虎が泣き止むのはそれよりももっと前。それは、突然として訪れる。何かが駆ける音が僅かに聞こえ、そこに交じる明確な殺意を虎だけが捉える。
『っ!?』
虎はその感覚に全身が凍るような怖気に包まれ、ばっと顔を上げた。そして一気に立ち上がると、目を見開き周囲に全力で気を配り始める虎。己と灯子もその様子に一瞬戸惑ったが、山中の落ち葉をかき鳴らしてこちらに近づいてくる足音を耳にする。それも、一つや二つじゃない。
「なにか来やがる」
「己、抜くなよ」
『な、なに?なにがくるの?』
一気に高まる緊張感。虎は周囲を警戒するが向けられている殺意に体が震えだしてしまう。己は抜くなと言われるも周囲に目線を向けながら、刀へと手を伸ばす。そして、唯一足音の正体を知る灯子は、ゆっくりと目を閉じ、煙管の吸い口にゆっくりと口を当てひと吸い。その瞬間、聞こえていた無数の足音が消え去った。一転して不気味な静寂が場を包む。
「足音が消えた?」
『で、でででも、こ、ここ、怖いのは、消えてない』
「灯子」
灯子は答えない。目を閉じたまま何かを待つように立ったまま、肺に収めた煙をゆっくりと吐く。ふと、己も虎も灯子の方へと視線を向けた。その灯子の後ろでは、はらりと灯たった一枚の葉が舞い落ちた。
いや、どうして葉に目が行く?妙に存在感があるその葉に視線が吸い寄せられた。どうしてだ?と思考を廻す前に己の身体がそれを灯子に近づけるなと警告する。左手に持つ刀に右手が向かわせ構えると同時に足を踏み込んだ。己の抜刀。その速度は目に映らないほど――――だが、それよりも早く事は起こる。
「ほほぅ。私に狙いをつけるとはいい度胸だ。狐!」
『死に晒せェェエエ!!!』
瞬き一つの速度、葉は刹那よりも早く巨躯の狐となって、灯子に襲い掛かった。
お読みいただきありがとうございました。




