【いつか行きたい場所】
翌朝、街はまだ目覚める前だった。
ルシアンはやはり早起きで、手早く街歩き用の軽装に着替え、自室を出る。
隣の部屋で眠る護衛に、扉越しに小さく声をかけて宿屋を後にする。
空気が透き通る早朝、静かな街を散歩するのが、ルシアンは好きだった。
新聞の配達や、朝市の支度をする人々だけが、さわさわと街の音を奏でている。
道路わきの花壇のつぼみは、朝露を静かに湛えている。ちち、と数羽の小鳥が飛んでいく。
パン屋の窯からは朝一番の煙が立ち上り、まだ色づききらない空の下、街に朝の空気が満ち始める。
――ごつ、ごつ、と靴音が聞こえて後ろを振り返れば、少し後方に眠そうにした護衛。
おや、と、ルシアンは思わず笑みを浮かべた。
「ふふ、寝てていいよって、声をかけたじゃない」
ガルドは片手で頭をかきながら、眠たげに眉を寄せている。大剣も外套も背負っておらず、寝癖の残る黒髪が、朝の冷気にやや逆立っていた。
「……聞こえた」
だが俺の勝手だろ、といった顔。ぶっきらぼうに言いながらも、歩幅を合わせて並ぶように立つ。そのまま肩越しに、静かな街並みを一瞥した。
朝の光が、建物の屋根を金色に縁取り始めている。静けさの中に漂う、炊きたての匂いと焼きたてのパンの香り。
ガルドが小さく鼻を鳴らした。
「……お前と旅するようになって、早起きだ俺ァ」
冗談とも本気ともつかない声で呟きながら、ちらと横目にルシアンを見る。その表情に宿っていたのは、怒りでも呆れでもなく……ほんのわずかな、安心だった。
一方のルシアンも、歩幅を緩めながら、ガルドへ向けられる笑みはほんのり嬉しさを伴っている。
「そのうち君の方が早起きになったりしてね」
「……そりゃあ……ありえねぇな」
「ええ?散歩だぞって起こしてよ」
は、とガルドから小さく笑みがこぼれた。ゆったりと進んでいく歩みは、どちらともなく揃っている。
朝靄が静かに晴れていく。一人、また一人と道行く人が増えていく。
あちらこちらで住民たちが、あはは、おはよう、いってきます、と挨拶を交わしている。
その喧騒を、ルシアンは、音楽でも聴くかのように楽しんでいた。
少しして、ガルドが見つけた食堂へ入り、ふたりは朝食を注文していた。街はすっかり目を覚まして、食堂にもちらほらと客が集まってくる。
「朝食を食べたら、私は図書館に行ってくるよ」
穏やかに言うその横顔は、旅路を急ぐつもりはなさそうで――この街の空気を味わいたい、そんな感情を含んでいた。前髪を軽くかきあげて、ガルドも短く返事をする。
「ん、気ィつけろよ」
「うん。……君は街の散策でもしてるかい?」
「ああ、だな。図書館の場所、わかるか」
皿の縁に残ったパンの屑を指で払いつつ、ガルドが冷めかけたスープをひと口で飲み干した。その視線は、窓の外で徐々に増えていく人の波へと向く。
「人が多い街だ。……図書館出たら、……中央の広場でいいか。昼前には戻れ」
「ふふ、うん」
柔らかな笑みを聞いて、ガルドは思わず目の前を見た。朝の光に照らされたその姿は、どこか柔らかく、街の空気に馴染んで見える。
「……なににやにやしてやがる」
「なんだか甘やかされてるね、私」
「……、バカじゃねぇの」
舌打ち混じりに、ごく小さな声でそう呟いて……ガルドは席を立った。
……迂闊だった。甘やかしている自覚など微塵もなかったが、思い返せば確かにそうだ。いやだがしかしこれも護衛の、……護衛の……範疇……か……?
店のカウンターに銀貨を置く。視界の端に、ルシアンが立ち上がる姿が映っている。
「じゃ、あとでねガルド。ごちそうさま」
「……おう」
……ルシアンの分も自然と支払ってしまったことについては、もはや弁明の余地もなかった。
図書館へ赴いたルシアンは、重い扉を引いて中へ入った。
天井は高く、紙と革の匂いがする。見上げれば天窓から差し込んだ陽射しが、通路を細く照らしていた。
「おや、こんにちは……」
カウンターで顔を上げた司書がそう声をかけてきたが、ルシアンを見てぴくりと肩を震わせたのち、静かに頭を下げる。
「恐れ入ります、ようこそお越しくださいました。たいへん恐縮ですが、こちらは市民向けの閲覧区画でして……ご紹介状はお持ちでしょうか」
「は……紹介状、ですか……?」
はた、とルシアンが立ち止まる。ただそれだけを見て、司書はなおさら慌ててしまう。
「ええ、貴族様向けの蔵書は紹介制となっておりまして……差し支えなければ……初めてのご来館とお見受けいたしますが……」
ああ、と、ルシアンの肩から力が抜けた。そういうことかと、軽く片手を挙げてそれを制する。
「ふふ、驚かせてしまい申し訳ありません。貴族様だなんて、私は一介の旅人です」
はぁ、左様で……と今ひとつ納得していない司書に、柔和な笑みを崩さずにルシアンが話を続けた。
「珍しい、美しい、不思議な場所をたくさん見たくて旅をしております。なにか、そういった情報はあるでしょうか」
「ほう、物見遊山ですか」
ぱ、と司書の顔が明るくなった。カウンターから回り込んできて、にこやかに書架への案内を始める。
「でしたらたとえば、海の向こうの空樹の街ですとか……ここからは少々遠いですが空中回廊も……」
「ほう……」
「霧の森はここから近いですな……向こうの街には薬草の森が……」
説明をして回るうちに、ルシアンの、なるほど、いいですね、さすがお詳しい、といった褒め言葉に……司書もやがて、笑みを零しながら話し出す。
「私もいつか、自由に物見遊山の旅に出てみたいものでしてね」
「……ということは、今教えていただいたのは司書さんの"リスト"でしょうか」
「いやぁ、お恥ずかしながら!」
両者の間に笑みが浮かぶ。恐らくたった束の間で、きっとほんの一瞬の、共通の趣味を持つ友人。けれどこれもまた、"物見遊山"の一幕で。
ルシアンは教えてもらった"いつか行きたい場所"を手帳に記し……、怖い護衛に却下されないか、片眉を上げて笑みを浮かべた。
――【いつか行きたい場所】




