【ベルミードの夜】
――よかったら、ベルミードまで、ご一緒に。
そんな御者の言葉に、ガルドと目を合わせたルシアンは、ひとつ柔らかく頷いた。
揺れるルシアンの髪が、薄暗くなってきた空の色と混じる。その淡紫は、彼の優しげな表情をより際立たせた。
応急処置が施された馬車は、ごとごとと音を鳴らして、けれどもゆっくりと街道を進んでいく。
馬のほうも、ルシアンにかけられた回復魔法が心地よかったのか、調子は良さそうだ。
老人と、子ども、女性を馬車の荷台に乗せ、ガルドと商人などの男衆は当然のように馬車の横を歩く。
馬車の荷重を軽くするためにルシアンも歩く、と名乗り出たものの、子どもにねだられてしまい、苦笑の後に荷台へ押し込められていた。
日も落ちてきて、魔獣の危険がないわけではない。けれど大柄な護衛が目を光らせているので、乗客たちは皆、一様に安堵の表情を見せていた。
「お兄さんたち、どんなところ、たびしてきたの?」
緩やかに揺れる座席の上、隣に座った子どもにそう問われ、ルシアンが優しげにそちらを見下ろしている。
「ふふ、色々ですよ」
「たくさん?」
「ええ、たくさん」
きらきらと、子どもの目が瞬く。正面の座席では、母親が気まずそうに笑っていた。
「私は素敵なものを見るのが好きでして。たくさんの美しさや不思議をこの目で見たいのです。……ですが、そういったところには大抵恐ろしい魔獣が住んでいたりします」
「まじゅう……!」
口元を押さえたような子どもの声に、馬車の外の男衆が緩い笑い声をあげていた。
微笑んだルシアンも、内緒話のように……けれど柔らかな声色で続ける。
「そこで頼りになるのが、外にいるあの大きな……怖いおじさんなのです」
「おい」
外からのガルドの声に、子どもはまるでイタズラでもばれたかのように、両手で口を覆って笑いを堪えていた。
まぁまぁ旦那、と男衆が笑う。ふん、とひとつ鼻を鳴らす音もする。
眉をしかめたその顔が怒っている顔ではない、というのは……ルシアンでなくとも見てわかった。
くすくすと、馬車の中から小さな笑い声が届く。舌打ちのひとつでもしたくなるが、あまりに穏やかで優しいその響きに、ガルドの悪態は喉の奥で詰まった。
「……誰がおじさんだっつの」
「はは、旦那ァ貫録あるからなぁ」
「頼れるってことでさァ」
そんなもんか、とガルドが肩をすくめるが、納得がいったわけではない。だが実際、小さい子どもからすればおじさんであることには変わりない。
変わりないが、……ルシアンに言われるのはちょっとわけが違う……。
あとあいつ、面白がってわかって言ってやがる……。
「……チッ」
結局、舌打ちは出た。馬車の中で雇用主は、きっと今も腹立たしいほどに楽しそうな顔をしているのだろう。
――だが、誰よりも、人の心を和らげる笑みだ。
後方の馬車をゆっくりと振り返ると、ちょうどルシアンが子どもの話に頷いていた。
何やら思い出すように旅の話を聞かせながら、時折ガルドの方に目を向けてくる。――にこり。
「……。……やれやれだな」
ガルドは前を向き、夜風を含んだ空気に目を細めた。
ベルミードはもうすぐだ。
馬車が揺れ、子どもの笑い声がまたひとつ、夕方の道に溶けていった。
御者や乗客らと別れ、ふたりは賑わう夜の街を歩いていた。
肌にはつい先ほどまで温かさが残っていたのに、日が落ちた途端にするりと涼しい風が吹く。
「じゃあ、私は宿屋を探してくるね。君は、夕食処でも探してきてくれないかい」
ガルドを見上げて、ルシアンが微笑みながら首を傾げる。小さく頷きを返して、ガルドも料理屋が立ち並ぶ通りへ足を向ける。
いつもの分担、いつもの流れ。当然断れないのも、いつものことだった。
街中央の広場には石造りの噴水があり、そこにある獅子の口からは、水が細く流れ落ちていた。夜のささやかな賑わいの中に、その水音が響く。
街灯に照らされた水面がわずかに揺らぎ、まるでこの旅の一場面を静かに見守るように、時を刻んでいた。
そのすぐ傍らにある濃い木のベンチに腰掛け、ルシアンはその水音に耳を傾けている。
通りの先で見つけた宿で、部屋を二つ取ってきた。宿の従業員も穏やかで人懐こい笑顔で、恐らくこれがガルドに言わせれば"のんき"なのだろうなと、……ルシアンの頬がわずかに緩んだ。
そのうちに、ごつごつと重い足音がゆっくりと近づていくる。革のブーツが石畳を踏む音は、歩幅も足運びのリズムも、いつの間にかすっかりと聞き慣れてしまった。
ルシアンが視線を上げるよりも前に、その足音が目の前で止まる。
「待ったか」
「ううん」
答えながら顔を上げれば、ガルドが周囲に視線を巡らせつつ腰の剣帯に親指を引っ掛けて立っていた。……そのまま、目線だけでルシアンを見下ろしてくる。
「……飯屋、見つけた」
ぼそりと告げながらも、その目はすぐにルシアンの隣へと滑る。わずかに空けられたベンチのスペースは――今から飯屋に行くのだから、そこに座る意味もない、が。
……にこり、とルシアンが微笑んだのを見て、ガルドもほんの少し目を細めた。けれど眉の片方を上げただけで、ため息混じりにまた広場に視線を投げる。
さらさらと落ちる噴水の水音が、通りがかっていく住民たちの話し声が、広場に満ちていた。
酔いどれが鼻歌混じりに家路を行く声もする。
どちらともなく視線を上げれば、街灯の光の向こうに夜の帳が降りていく。
「宿……取れたか」
水音に紛れるような声は、問いかけではなく、ただそこに置いただけのようで。
天を見上げれば、星が増えていく最中で。
「うん、……ふふ、"のんき"な宿だよ」
「……そりゃ街がのんきなんだ」
互いに小さく笑うような気配が、ぽつり。それきりいつものように、言葉少なな時間が訪れる。
だが、それは気まずさでも沈黙でもない。ただ互いに歩んできた一日の余韻を、穏やかに共有しているだけだった。
石像の口から流れる水が、小さく、静かにその時間を縁取っていた。
屋台の立ち並ぶ通りにある小さな店構えの料理屋。中に入れば程よく賑わっており、旅人も冒険者も、地元の客もいる。
ふたりも、店内奥のテーブル席に向かい合わせに腰かけた。
注文は、店のおすすめのものを。今夜は猪肉の串と豆のポタージュ、香草を練り込んだパンだった。
それぞれ頼み、他にも何点かを追加で注文をする。
「……てめぇ、俺に押し付ける前提で頼んでんだろ」
「ふふ、バレたね」
いたずらな表情で笑うルシアンに、ガルドが慣れたように肩をすくめる。メニュー越しに笑う顔は、もうとてもじゃないが怒れない。
ざわざわ、ちらちらと、ルシアンへの興味の視線は……相変わらず集まる。以前よりも、それは顕著に思える。――これに関しては、ガルドにも心当たりがないこともない。
その銀の瞳が、ひどく楽しそうにしているからだ。
(……ただ残念ながらな、)
くい、と手元の水のグラスを、ガルドが呷る。ただ残念ながら、この眼差しは俺に向いているぞ――なんて。
密かな優越感を抱えるくらいは、まだ許されるはずだ。
運ばれてきた食事は温かな湯気を立てている。切り分けられて多かった分は自然にガルドに押し付けられる。
おい、なんて言いながらもガルドの手は皿を引き寄せるし、ルシアンは当然のように微笑んでいる。
――そんな夜だ。
「ねぇ、ガルド」
「……ンだよ」
肉の一切れを口へ運びながらも、ルシアンの声色はとても優しい。
伏せられた目元が、穏やかな笑みを湛えていた。
「ガルドがこうして、私を色々なところへ連れてきてくれるから、……私はとても満たされているよ」
ついと、赤い瞳がその男を見た。
"色々なところ"――それは食事処の話ではない。
地底の花も廃村の壁画も、丘の上の花も見果てぬ海も、今まで旅をしてきたそのどれもが、ルシアンひとりではたどり着けなかった。
「君が私の護衛になってくれて、本当に良かった」
決して世辞や誇張ではなく、心からそう思うからこそ、滑るように言葉が出てくる。
きっと目を逸らされるだろうから、正面は見ない。……けれどそれでも、目の前の男には十分伝わるはずだ。
……ガルドも、串の端を噛んだまま、かすかに息を止めたようだった。
それは咀嚼のためでも、味を確かめるためでもない。その言葉が思いのほかまっすぐに、心の奥へ届いてしまったから。
「…………」
少しだけ顔を横に向ける。眉間に寄った皺は、言葉の重みを呑み込もうとしている証。
けれど、そのまま黙って食事をすすめることもできなかった。
酒の杯を取るわけでもなく、水で流し込むわけでもなく。ただ、しばし手を止めたまま、ガルドは黙っていた。
ルシアンからは、それきり何も落ちてこない。目を伏せたように、けれども楽しそうに食事をすすめていくだけ。
――やがて、ガルドの喉がひくりと動いた。皿へ流した視線の奥で、赤い瞳がわずかに揺れている。
口の端が、ほんの少しだけ上がったかもしれない。だがそれは、笑みとは呼べぬほどわずかなもので。
「……てめぇ、ほんと……」
ぼそりと低く、息の混じるような声が漏れる。
呑み込むのに時間がかかりすぎて、何を言いかけたのか、自分でも分からなかった。
ただ、視線を伏せたまま、串を取り直す。もう一度、肉をかじるようにして口に運ぶ。
咀嚼の合間、かすかに目尻が緩んだ。
それだけが、この夜の返事だった。
――【ベルミードの夜】




