【ツガの梢亭】
寝起きのルシアンは、野営中に幾度と見ている。ほろ酔いのルシアンも、街で酒を飲むときに、何度か。
――けれど、ほろ酔いで眠たげな彼を見たのは、ガルド自身初めてだった。
部屋へと歩いてはいるが、歩みは遅い。
電池切れ間近、といったところで、覗き込めば目はほとんど閉じかけていた。
「おい」
「……うん?」
歩く背中に呼びかければ、一時的に覚醒はする。
声の主を探して頭を巡らせ、自分の背中を支えるガルドを見つけて、またふわりと笑う。
グリモに乗っていた時の距離感が未だ残っているのか、……どうにも背を支える手に体重が寄りかかってくる。廊下で人の目こそないが、だからこそガルドは困り果てていた。
「……歩け」
「うん……ふふ、歩いてるよ」
頷きの動作か、傾いた首元ががらりとあく。
ほろ酔いでやや高い体温もあり、――加えて風呂上がりの石鹸の匂い。
(……まずい)
ガルドの喉が、小さく鳴った。
それは意識せず漏れた音で、そして本人もすぐにそれに気づいた。
赤い瞳が一瞬きつく閉じられ、次の瞬間には舌打ちが飲み込まれる。
「……くそ」
低く唸るように吐き捨てながら、腕に力を入れた。さっさと前へ進ませようと腰に回しかけた手を、寸前でぐっと止める。――そこは魔術師の"急所"。危なかった。
代わりに、背中の上部、肩甲骨のあたりへ手を置く。
「……、まっすぐ歩け」
「うん……歩いてる」
「歩いてねぇんだよ」
恐らく抱き上げれば早いのだろうが、今はそれはちょっと憚られた。手のひらで押し出せば、寄りかかる身体は緩慢と進んでいく。
大体にして、こんなものあまりにも無防備で。
「……チッ、油断しやがって……」
誰にともなく呟くと、ガルドは背に添えた手をわずかに強めた。細い肩越しに、淡く揺れる薄紫の髪。
酒のせいで、距離のせいで、眠たげなせいで、上気した体温が手のひらへと伝わってくる。……何かのせいにしないとやってられない拷問だった。
「……ベルミードって……ご飯おいしい?」
「ああ?」
へろり、と眠たげな瞳がガルドを振り返る。どうやらその頭の中では、まだ先ほどの会話が続いているらしかった。
まともに歩けてすらねぇくせに、というような護衛の視線に、ゆるりと笑った唇がなにか言いかける気配を見せ……、つい目を逸らす。
「……っああ、うまいうまい、明日教える」
返されるのは、いつもより少しだけ低い声、早い口調。だがそれは怒っているのではなく――何か矛先を逸らすような声だ。
まっすぐ進むだけの廊下が、やけに長い。
それでも、あと数歩で――この距離と誘惑の夜は、いったん終わる……いや終わってくれ――。……そんな切実な願いを抱えながら、ガルドはその背を静かに押していった。
……美味い食事をとり、酒を飲み、珍しく気が緩んでいたルシアンは――もはや歩いているのか、歩かされているのか、明確な境などなかった。
ぼやける頭で部屋の鍵を取り出せば、手の中からそれが抜き取られ、ガチャリと鍵が回る音がする。
ほとんど意識の外で扉が開く軋みを聞き、ルシアンの瞳がわずかに開かれる。視界の端にベッドが映っていた。
いつの間にかずっと背に添えられていたらしき手のひらが、抜群の安定感を保つ。
と同時に、少々のくすぐったさもある。
「っん、ふふ」
半ば息を漏らすようにルシアンが笑えば、背中の気配がぎし、と固まる。
なんだろう、と振り返る前に、再度強めに背を押される。誘導、先導、ご案内、である。眠っていてもベッドにたどり着きそうだな、とすら思った。
つま先にベッドの木枠が触れ――ぼすん、と……ルシアンはベッドの中に沈んでいった。
一拍、二拍で、寝息が聞こえ始める。
(……っぶねぇ……)
や、……やれやれ、と……ガルドがどこか苦いような、何かを耐えるような顔をした。
何ださっきの笑い声は。くすぐったがるような、いや実際くすぐったかったのだろうが、ちょっと肩をすくませて、息が抜けるような小さな声で。危ねぇ。危険。非常に。
細くため息が出る。大丈夫だ、もう慣れた。この男はこういう、油断させて、いけるかもと思わせて、でもきちんと線を引く男。
その度に混乱したりがっかりしたりしていては、身が持たない。つまりはスルーすべきだ。今のはただの酔っぱらいの笑い。それだけだ、と。
気を取り直したガルドが足元の掛け布団を引き上げようとして、軽装の裾から見えた腹に――、
――腹……?
(……ッこいつ……!!)
グギリッと首が鳴る勢いで、瞬時に、咄嗟に、なんとか目線を逸らす。
「バッ……つけっ……!」
(くっそ、見てねぇぞ……!)
まるで念仏のように呟いて、ほぼヤケクソのような勢いで、布団をルシアンの肩まで引き上げる。
それで目覚める雇用主でもなく、薄暗い室内には安定した寝息が響くだけ。思わず後ずさったのは、自分を護るためか、眠るそれを護るためか。
さっきまで腕に感じていた重みも、今は静かに寝台へと収まっていた。
「……ッ、は……やってらんね……」
吐き捨てるように言いながらも、ガルドのその声に怒りの色はなかった。むしろどこか拗ねたような、情けないような――観念したような声音。
立ち去る寸前、ちらりと寝台へ視線を戻す。
眠るルシアンの髪が、枕にやわく広がっていた。その頬には、さっきまでの酔いの名残が薄く残っている。
「……、……チッ」
最後に小さく舌打ちを捨て、ガルドは一度だけ頭を掻いた。そうしてそのまま、部屋を出る。
ぱたん、と静かに閉じられた扉の向こうで……再び深く、安らかな寝息が続いていた。
――【ツガの梢亭】




