【それはよろしく】
――翌日、野営明け。
振り返っても、もう軍都クレストンは見えない。
次の街まではまだまだだが、あと数日歩くと街道脇に"ツガの梢亭"という宿があるらしく、ふたりはひとまずそこを目指していた。
「……その宿、何かあるのか」
目の前をゆく淡紫の後ろ姿に、ガルドがそんな声をかける。
揺れる外套は夏の終わりの風を孕んでいて、日差しはいつの間にか次の季節に差しかかろうとしていた。
「うん、ご飯が美味しいよって、馬匹宿の厩務員さんが」
「……ああ、そりゃ当たりだな」
短く応じたガルドの声には、どこか安堵めいた響きが混じっていた。
クレストンを経た。旅の形が変わらない。ふたりの在りようが変わらない。
ただそれだけで、自分の輪郭が鮮明になっている気がした。
空を仰げば青は高く、……今日も晴れそうだ。
「……ンなら、さっさと行くか」
呟きに返事はなかったが、肩越しに笑みが返ってきた気配があった。
しばし歩き続けてきて、ふたりは林の中を通る街道を歩いていた。
景色を眺めながら、遠目に見える集落の話をしたり、近辺に棲息する魔獣の話をしたり。
植生については、ガルドよりもルシアンに分があった。ギルド書庫の薬草図鑑などから得た知識だったが、林の奥に薬草が茂るのを見てふと足を止め――、
「錬金術師に需要のある薬草だ。採取していくかい?」
「……そんでギルドに採取依頼出てなかったら、無駄足だぞ」
「んん、確かに。いらないね」
――そんな調子である。
ふふ、とどこか楽しげにしながら、ルシアンが肩から下げた革鞄の紐を正す。
思いついたことを適当に投げて、ガルドから渋面の返事が来るのが妙に楽しかった。
その歩みの中でふと街道脇の林を見て、ぴくりと止まりかけ、――流れるようにガルドの隣へ。というよりも陰へ。
突然の距離に意表をつかれたガルドが咄嗟に林のほうを見ると、木に大型の蟲型魔獣、スラヴァイドが張り付いている。
赤と黒の甲殻をもつ、ひどく巨大なムカデだった。
……ほほう?と――ガルドが、自分を盾に涼しげな顔をするルシアンを見下ろす。
「……なんだお前もしかして……」
「いや、ね……?気持ち悪いのはちょっとね……足も多い……」
きちきちと、スラヴァイドが威嚇のような軋んだ音を鳴らす。節のひとつひとつがぶよりと膨らみ、鋭い顎がわずかに蠢いていた。
ルシアンはそれきり何を言うでもなく、スラヴァイドへと向けてガルドの背中をぐ、と押す。
非力ながらも、"はやく"の意思を含んだその柔らかな手は――ガルドの足を進ませるには十分すぎる威力である。
「……っおい押すな、わかった、よせ」
焦った声は蟲に対するものではなく、"我"が出たルシアンに対してだ。ガルドは剣に手をかけることなく、そのまま足で地を踏み締める。スラヴァイドが、ぞろりと体勢を変えた。
まだ背に当たる手のひらにちらと横目を向ければ、ルシアンはガルドの影にすっぽり収まりながらも、"頼んだよ"とでも言うかのように微笑んでいる。その肩先から、淡い香油の匂いがふっと漂ってくる。
「……くそ、やるけどよ……」
呟くや、ガルドは地面を蹴ってスラヴァイドとの間合いを詰めた。剣を抜くことすらなく、拳が硬質な甲殻を貫く。――ぐしゃ、と粘質の破裂音が響いた。
びくりと痙攣する魔獣から拳を引き抜きながら、素材は――とガルドがルシアンを振り返れば、どうにも神妙な顔をしていた。
「……素手かい……」
「……。……ああ」
……素手で倒したことに驚いたのではない。"それに素手で触れるなんて"の顔だった。
周囲を見渡して他がいないことを確認すると、ガルドは拳を振り払って戻ってくる。
ルシアンの顔は、決して引きつってなどいない。けれどクレストンの時よりも、よっぽど感情が見えていた。
「……握手でもすっか?」
「……遠慮するよ……」
じり、と半歩下がった様に、ガルドの口角がわずかに緩くなる。面白いものを見つけた、という顔だった。
「……行こうか」
「おう」
……ごく自然に、しかし気持ち足早に、ルシアンがまた歩き出す。
一匹いたら百匹を疑えというのは、蟲型魔獣の鉄則であるが――さすがにあのサイズ百匹は、ルシアンには無理だった。
「――なぁ、おい。てめぇダメなのかよ、蟲」
後ろから、半ばからかうようなガルドの声がする。う、と肩が揺れたルシアンが振り返れば……ガルドはだいぶ後方をのんびりと歩いていた。
――わざと、ゆっくりと歩かれているような気もする。
「別にダメとかじゃ……早く来てくれないかい」
「ほれ、ダメなんじゃねぇか」
「……君ねぇ……」
くつくつとかすかに笑いをかみ殺しながら、ガルドが隣を並び歩く。ルシアンからは、じとりと笑い混じりの睨みが向けられた。
「……なんだ、その顔は初めて見るな」
「…………」
にやりと口元を歪めながらも、ガルドはルシアンの歩調に合わせて一歩前へ出る。それはまるで、次に何かが出ても先に立つという意思表示のようだった。
街道の脇には、まだ林縁が続いている。魔獣の気配は、もうない。
「……この道さっさと抜けるでいいだろ」
「……うん」
ぴたりと睨みが止んだ気配に、ガルドの口の端がほんのわずかに緩んだ。それは先ほどのからかいとは違う、静かな気遣いの滲んだ笑みだった。
――【それはよろしく】




