【軍都の炎、南門より】
ざば――
宿屋の外、設えてある井戸の水を、ガルドが頭から被る。
バシャ――
宿の主人が何度も止める。血で汚れようが構わない、風呂に入ってくれと。
――その一切を無視して、またざばりと水を被る。
困り果てる主人の隣に並び、ルシアンが小さく微笑んだ。
主人が眉を下げたままにそちらを向けば、大丈夫、あとはこちらでする――そんな柔らかな笑顔。
「ガルド、おいで、部屋に行こう」
「…………」
からん、と井戸の桶が鳴った。
やっとこちらを振り返った男は、腕、肩、腹、腿、そのいたるところに傷を負っていた。
ルシアンは歩み寄らない。
その代わり、静かに手を差し伸べた。
「全部治すよ。だからおいで、ガルド」
夕闇の中、銀の眼差しだけが優しく微笑んでいる。
水滴が――ぽたりと土の地面を打つ。
滴り落ちる血の混じった水が、その体温を奪っていく。
赤い瞳が、差し伸べられた手を見つめていた。
柔らかなその手が、指先まできれいで、穏やかで……震えそうになる。
けれどその手は、何も強要しない。触れても、触れなくても。
……選ぶのは、いつもガルド自身だった。
ぎ……と、革の音が鳴り、大きな身体が動いた。水を滴らせながら、ガルドが歩み寄る。
その手を握ることはしない。けれどまっすぐにルシアンの横を通り、宿の玄関へと足をかける。
ルシアンがそっとその背に並ぶ。それを見た主人が、安堵の息をついて深く頭を下げた。
無言のまま、ふたりは自室への階段を上がっていく。
扉が閉じられる音が一つ、宿に静かに響いた。
部屋の窓際で、椅子に座るガルドの前に、ルシアンが背を屈めて立っていた。
「ずっと見ていたよ。頑張ったね」
傷のひとつひとつに、ルシアンは優しく手を触れる。手のひらに滲んだ魔力が、肌を包む。
いつもの防御魔法とは違う。あれは肌の外殻を包むもので――これは、ガルドの内側に静かに沈みこんでいくものだ。
「封鎖が解除されたら、街を出よう」
……治癒の魔法を、施していく。――効きは、悪い。
けれど淡い光は、静かに舞う。傷口を包む。じわり、じわりと沁みこんで。
「もうこの街はいいや。留まる価値もない」
ふ、と……ガルドの眼差しが、ルシアンを見た。
――傷を癒すその表情は、微笑んでいる。
声色も優しいが、ガルドだけにわかる、かすかな怒りを孕んでいた。
「……お腹空いたね。宿のご主人、夕食を作ってくれていたみたいだよ」
また一つ、淡い光が舞う。癒しの名残が、蛍のように浮かんでは、沈む。
どこか唖然としていたガルドが指でそれに触れると――光は溶けるように消えていった。
それを見て、ルシアンが笑う。
緩やかに、時間をかけてひとつずつ治された傷は……ひとつずつ、ガルドの心を凪いでいった。
伏せられていた銀の瞳が、すっとガルドの眼差しを受ける。
ふわりと微笑む顔は、いつもの笑顔。そしてその手が一度だけ、ガルドの髪に触れた。
「ご飯にいこうか」
軽やかな笑みを湛えた魔術師は、何も変わらず、ただ優雅にそこにあった。
ガルドはしばし、動けずにいた。
回復魔法など――初めて、受けた。
ガルドに魔法はわからない。恐らくこの身に魔力がないから、か……今まで効いたことがなかった。
怪我をしたら、寝ていれば治った。ギルドの治療師に、適当に縫わせたこともあった。
そうして乱暴に扱ってきた己の身体を、こうして丁寧に、静かに、整えてくれる人がいる。
――血を流したことも、苛立ちに任せて斬り伏せたことも、誰に褒められずとも……責めず、ただ見ていてくれるひとが。
今にも消えかけている、部屋に漂う、淡い光の残滓。それはどこか温かく、そしてどこまでも優しい。
「……、ああ」
低く、掠れた声が返る。飯への返事だ。……待っていてくれたことへの返事でも、あったかもしれない。
背を起こしたルシアンの後ろ姿を少しだけ見つめてから、……ガルドもまた、立ち上がる。
歩き出す彼の背に、ほんのわずかに力が戻っていた。
傷跡も、疲れも、怒りさえも――すべて、目の前の存在がそばにいてくれる限り、静かに癒えていくのだと。
……そう、理解した。
翌朝、街門の封鎖線が解除されてすぐ、ふたりは黙して街を出た。
防衛軍、冒険者、そしてギルド職員からの視線が集まったが、誰も口を出せなかった。
それは、今なお優雅で柔和な微笑みを浮かべる魔術師……一見、すべてを優しく赦すような彼の、確たる"拒絶"の笑みを見たからで。
国防軍によればスタンピードの原因は、地脈の乱れとそれ由来の磁気嵐によるもの。
どこぞにある大元の地脈の異常を解決しなければ、また同様のことが起こりかねなかったが。
ルシアンには、やはり知ったことではなかった。
あの規模のスタンピードを以てして、重軽傷を負った者はいたが、死者はゼロ。
街門内に魔獣が入り込むこともなく、防壁外の補給所や物資倉庫がいくつか破壊されただけ。
街周辺の地形は荒れ、凄惨たる光景が広がってはいたものの、その脇を通り過ぎていくふたりは一瞥もくれない。
街道の風に、旅装が翻る。
香油の香りがふわりと漂う。土と鉄のすえたような異臭はもうしない。
「君はかっこよかったよ、ガルド」
ふと肩越しに見えたその微笑には、もう怒りは映っていなかった。
ただガルドもまた、その言葉に答えなかった。無言のまま、ただ前を見て歩く。
疲労も、苛立ちも、痛みも、既に身体には残っていない。
だが、まだ心のどこかに、重く沈殿するものがあった。
そしてそれを、隣にいる彼だけが知っている。
しばらく歩いて、新しい風が頬を撫でた頃。
ガルドの足がふと止まる。ルシアンも、同じように立ち止まった。
ゆっくりとルシアンに向けられたその眼差しは、もう血に染まってはいない。
「……。……あの街、」
「…………」
「次にまた何かあっても、……俺はもう行かねぇ」
ぽつりとそれだけを告げると、ガルドはまた歩き出した。
それは怒りではなかった。憎しみでも、諦めでもない。
ただあの街を守った者としての、静かな決別だ。
ルシアンもふわりと目を細め、何も言わずにその背を追って歩き出す。
ただ、通り過ぎただけだ。
土と血の匂いを、風と陽光が塗り替える道を。
そしてそれもまた、ルシアンの物見遊山だった。
――【軍都の炎、南門より】
【軍都クレストン】
滞在:四日間/宿代:銀貨八枚(無償あり)
景観: . 夏。
人間:規律に守られていた。
食べ物:種類は多い .
次の目的地:西へ
次の街は、穏やかな街だといい。
あの背中を、これ以上 .
——ルシアンの手帳より




