【侵食する日常】
冒険者たちの張りつめた緊張の中で、無哭だけが沈黙を貫いていた。
叫ぶ者、震える者、冗談を飛ばす者、武器を構える者。その全てを無視して、ただ歩を進める。
門を出てしばらく進んだ、なだらかな丘陵地帯。
その先は徐々に森へと移り変わる。――そこが戦場だった。
さく、と下草を踏みしめ、立ち止まる。一度だけ、振り返る。防壁の上、静かに佇む淡紫の髪が、陽光を受けて遠くきらめいた。
互いに、表情は見えない。けれど、間違いなく視線が合っていた。
ルシアンの周囲でも、魔術師や弓士たちがわずかに震えている。眼下の冒険者たちも、防衛軍の兵士も、硬く丘陵地帯を見据えている。
――その最前線、"無哭"の背中がそこにある。
「……ふふ、防御魔法でも飛ばしておこうかな」
ルシアンの指先が、すい、とその大きな影を、確かに捉えた。
防壁の上、白い指先が空をなぞるように動いた瞬間……音も姿もないそれは、まるで一直線に。
誰も気づかない。だが、赤い瞳の男だけは、確かに感じていた。
背に、ひたりと薄膜が張りつく感触。――身体を包むような、慣れ親しんだ"護り"。
「……器用だな」
魔術師とは、はたしてみんな、"そう"なのか。
ぼそりと、誰に向けるでもなく呟いたガルドが、剣の柄に手をかける。
地響きのような低い何かが、かすかに地の底から這い上がってくる。……音ではない――振動だ。
そして、それを受けるように、前線の兵士たちがざわついた。
「見えたぞ!森の中だ!」
「前進してくる!複数体確認――!」
「――きた……!」
叫びと共に、誰かが指差す。
森の影が、ざくりと裂けた。
木々を押しのけて現れたのは、雑多に入り乱れた魔獣たち。角を持つもの、牙を持つもの、二足の獣、四足の影――。
統率などない。ただ、押し寄せる。
「――確定!!スタンビート!!」
副官の叫びが、防壁の上から響いた。
矢がつがえられ、魔法の詠唱が始まる。
それでもなお、ガルドは動かない。
背中に、まだ先ほどの気配がある。
あの指先が描いた"盾"が、まだそこにあるのを知っているから。
一歩、前へ。
ざわ、ざわ、ぞ、ぞぞぞ――と、魔獣群の放つ、音とも咆哮ともとれぬ気配が、丘陵地帯を駆け上がる。
森の木々が、風もないのに大きく揺れる。
「――来い」
ガルドは、背にある大剣の柄をゆるりと捉えた。
ゆっくりと引き抜かれるその動作は、それを見る者を戦慄させる。
衝動ではない。激昂でもない。ただゆらゆらと立ち昇る殺意。
冒険者も、防衛軍も、その一瞬だけは、その背中から視線が外せなかった。
防御魔法が肌にぴたりと馴染んでいる。わずかに口角が上がる。
"アレに何かあったらただじゃおかない"。それは、自分自身に放たれた言葉でもあった。
「……さっさと終わらせてやる」
呟かれた言葉は、震える空気に溶けていった。
ルシアンは、防壁の上でその様を見ていた。
その大きな背は、一歩も引かず、踏み出しもせず、ただ砦のようにそこにある。
彼の戦場があそこなら。――自分の戦場は、こちらであった。
誰にも気づかれない薄さで、感知魔法を張る。
まだ距離があった昨日とは違い、今日は魔獣群の気配が濃い。
故によくわかる。手に取るように。
「何か……肌ピリピリしない……?」
「ああ……魔獣群のせいか?」
近くの魔術師たちが、二の腕を軽くさする。
ふふ、と口角だけで微笑む。――それでいい。誰にも知られずでいい。
(――先に到達するのはやはり南門)
感知にかかった魔獣の規模と、遠く眼下に見えた土煙が合致する。
西門、少し遅れて東門でも接敵を感知。
まだ余波が見られる。ガルドの大剣がぎらりとひらめく。
(あれが私の護衛とは、つくづく――)
思わず笑みがこぼれそうになるが、口元を緩く結ぶ。
手のひらから魔術の小鳥を生み出す。各街門、魔獣群の規模、それを魔力で文字にする。署名などいらない。匿名で充分。
――サイレント・ダヴ。その小鳥は、軍政指揮官のもとへと飛び去って行った。
戦が始まる直前の静けさは、もはや"静寂"とは呼べなかった。
丘陵の先、森の中から次々と現れる魔獣たち。
その数、その気迫、その咆哮未満の圧力は、獣の群れではなく、もはや災厄そのものだった。
ガルドの背に、風が流れる。
違う。これは風ではない。獣たちがかき乱す大気の"波"だ。空気が、振動している。
それでも、無哭は一歩も引かない。
赤い瞳は微動だにせず、ただ一体一体を見定めている。
「――はぁ……」
ため息と、ぎり、と地を踏む音。
次の瞬間――魔獣たちが丘を駆けてきた。
角を振りかざす獣、地を這う影、牙を剥いた四足の暴走。それら全てが"敵意"ではなく、"狂気"で迫ってくる。
兵士が叫ぶ。弓士が矢を放つ。魔術師が詠唱を叫び、防壁の上から術式が降り注ぐ。
その中央、魔獣たちの進路上、最前列のただ一点に、ガルドの影が立つ。
斜めに構えた大剣の刃が、陽光を弾いた。直後、飛びかかった一体の巨獣が、砕けるように吹き飛ぶ。
音が遅れて響いた。――斬撃か、打撃か、見た者の脳が理解をする前に、地に魔獣が伏せる。
振りぬかれた力をそのまま流し、赤い眼差しは次の影へ。
咆えない。何も語らない。ただ、次の一歩を踏み出す。
そこに現れたもう一体の魔獣が、咆哮を上げるよりも早く、地に叩き伏せられる。
(――さて、何体までなら、君は数えるだろう)
防壁の上、ルシアンがそれを見つめていた。その背中が、どこまで踏みとどまるのか。どこまで背を預けてくれるのか。
銀の瞳が、魔力の中で再び、魔獣の波を見据えた。
戦の幕が、静かに上がった。
――【侵食する日常】




