【グリモと星見の宿】
帰りの道程の話をしながら、酒を進める。
あそこに泉があった。野営は往路と同じ場所で。
野犬らしきが出たところはどうするか。
宿からグリモの乾草を買おう。おやつにりんごもいくつか買おうか。
意外と話は尽きないもので、静かな笑い声や舌打ちが時たま混じりながら、夜がゆっくりと更けていく。
そんな中、ふと部屋の中に目線を流したガルドが――見つけてしまう。
ベッドの脇に置かれた荷物、その旅装の横に、綺麗にたたまれた魔術師の防具。
なぜ今の今まで頭から抜けていたのか。目の前の男は緩い部屋着。
――そろり、と目線を窓の外へ逸らす。
直前まで何を話していたのかすら覚えていない。
月が、山の端に引っかかっていた。星が綺麗だなぁと逃避する。
「……どうしたんだい、ガルド?」
不自然に途切れた話に不思議そうにしたルシアンが、杯を手に首を傾げた。
「……いや、なんでもねぇ……」
答えたガルドも、唇を舐めて酒を呷る。果実の香りが舌に触れたかどうかもわからなかった。
咽せるほどではない。だが、脳裏に焼きついた"あれ"が、喉奥で熱く滞る。
――そこにある。魔術師の装備が。
畳まれて、置かれている。まるで当たり前のように。
旅装と一緒に。さも防具然として。……いや防具であることは間違いない、の、だが。
無防備な部屋着の下に、何もないことを、静かに示している。
「…………」
……また視線を窓に逃がす。逃がすたびに、自分の目がどこを見ようとしていたかがわかる。
目の前で足を組みかえる様は、すっかりとソファに身体を預けて、ただただ安心しているようだった。
「グリモはもう眠っているかな」
ルシアンの声が、柔らかく耳を打つ。何のことない話のタネなのに、今のガルドにはその声すらどこか無防備に思えてくるのがなお悪い。ちなみに悪いのが自分の思考回路だという自覚は、ガルドにもある。
「……、……かもな」
言いながら、なんて返事をしたかなんてよく考えていなかった。
行きの道程で、獣に追われてグリモを疾走させる際、腰を抱き上げたあの密着もなかなかだったが……、テーブル一枚隔てた今のこの距離も、同じくらいに堪える。
この魔術師、存在だけで人を殺せるんじゃないかとすら思った。
(…………)
ガルドが、重いため息を喉の奥で潰す。
高熱状態で「嗅がせろ」とほざいてしまったのは……なぜか通った。
アレは恐らく……"許された"。
馬上での四日間の密着も拒絶されなかった。
アレは恐らく、必要な接触だったから。
グリモを走らせる際には、向こうからしがみついてすらきた。あまつさえ「掴んでて」とまで。
もちろん緊急事態ゆえの合理的判断だったのであろうことは、重々過ぎるほどに理解しているが……。
その接触が許されてなお――部屋は別だ。
しかし……こうしてだんだん"許される"ことが多くなってきてやしないかと、ひたすらに頭を抱えているのも確か。
――ならば酒酔いは?
視線を正面に向ける。
ルシアンは、相変わらず楽しそうに首を傾げていた。
「明日に響く前に、お開きにしようか、ガルド」
その一言で、首の後ろにかいていた熱が急激に冷めた気がした。
ルシアンはまるで、何一つ責めるでもなく微笑んでいる。こちらの視線の意図を汲んだか、それとも無邪気に言ってのけているだけか。
ならばせめて、――せめてその笑顔に、"裏"があってほしいと思う。……意図せずにやられるには、もうだいぶ、しんどい。
ガルドは口の中で、無言の舌打ちを呑んだ。
結局のところ、線を引くのがうまいのだろう。触れていい場所と、踏み越えてはいけない場所。
ぴたりと、けして曖昧にはしない。柔和に笑っていても、そこに曖昧はない。
そしてきっとその線は、今夜も変わらなかった。
「……ああ、寝る」
短く返し、ガルドは立ち上がった。
ソファが軋む音に、ルシアンがにこりと目を細めて笑う。
酒の余韻が、喉の奥にじんと残る。――結局、今日は……。
ふたりで湯上がりの廊下を歩いて、濡れた頭の世話をされ。
部屋で一緒に飯を食って、酒を飲み。馬に餌をやって、また一緒に湯に入り、酒を飲み。
……これ以上、何を望むというのか。
扉に手をかける。
振り返れば、ルシアンはまだそこに座っていた。
変わらぬ笑顔。だが、どこか満足げな顔。
「……寝坊、すんなよ」
短く、それだけを言って、ガルドは部屋をあとにした。
翌日、早い時間に食堂で朝食を済ませ――ふたりはすっかり、旅装に着替えていた。
目的地は、例の馬匹宿。
元いた宿にグリモを返して、そこからまた徒歩で次の街へ向かう。
行きと同じ、四日の帰り道。きっとこれもあっという間だ。
この宿での一晩はつかの間の休息だったが、ルシアンは大満足していた。
宿の玄関前では、ガルドがグリモの背に旅の装備や餌用ブロックを括り付けている。また少し重くなるが、それでもやはりグリモは何一つ文句を言わなかった。
ガルドが先に馬上に乗り上げ、慣れたようにルシアンへ手を伸ばす。こちらもまた慣れたようにその手を取れば、ふわりと引き上げられた。
膝の間で横乗りに。回されたガルドの腕に軽く手をかけ、ルシアンが宿の女将へ会釈をした。
「大変良い宿でした。機会があれば、また」
にこ、と柔和に笑う笑みに、女将と従業員も丁寧な一礼をする。ガルドも小さく顎を引き、手綱を緩く引き締めた。
グリモの蹄が、ゆっくりと小道を踏み出す。山道へとつながる坂を下っていけば、星見の宿は少しずつ小さくなっていく。
馬体は相変わらず揺れず、ぶれず、よく耳を動かし、悪路を避けて進んでいく。ガルドがわずかに見下ろせば、柔らかな朝陽が懐の淡紫を照らしていた。
涼やかな空気の中、香油の代わりに香るのは、朝の澄んだ空気と腕の中にいる男の匂い。
「…………」
ガルドの腕の内側。
そこにぴたりと収まる身体は、今日も無言のまま、そっと寄りかかっていた。
ルシアンの視線は前方へ。景色を眺める横顔は、やはり楽しげに微笑んでいる。肩の力が抜けており、ガルドにも、そしてグリモにも、すっかりと安心しきっている気配がある。
(……参った……)
この旅において、もはや何度目かもわからない降参宣言が、ガルドの脳内に浮かぶ。その安心と信頼をすべて預けられることがどれほどのことか、この魔術師、考えたこともないのだろう。
小さな旅の、終わりと始まり。背を揺らしながら、グリモが鼻を鳴らす音だけが山道に響いた。
――帰りの道程は、獣も出ず、天気も崩れず、とても静かなものだった。
野営は三度。それ以外の休憩も複数回。そのたびにグリモの疲れを、ルシアンの回復魔法が癒す。
グリモも相変わらずで、ルシアンにもガルドにも、耳を傾け、顔を寄せ、頬を預ける。まるで、もうすぐ来る別れを惜しむかのようだった。
日も暮れる頃に馬匹宿に着けば、厩務員が「ああ!」と笑いながら駆け寄ってきた。
「どうもお帰りさない!グリモはいい子でしたか!」
「……ああ。労ってやってくれ」
意外にも、返事をしたのはガルドのほうだった。グリモも見知った顔に頭を振る。やはり、ここが家だとわかっている様子だ。
厩舎の目の前でグリモを止め、ガルドが身軽に飛び降りる。
馬上のルシアンを見上げると、微笑みながらも当然のようにガルドに両手を伸ばしてきた。
ガルドも小さく頷いてその手を掴むと、片腕でぐいと引き寄せてからいつものようにルシアンを抱き降ろす。
足元が安定するまで支え、離すまでのわずかな間。ほんの数秒にも満たない、"許された"時間。けれどそれは道中と同じように、自然で穏やかだった。
「ありがとう、グリモ。お疲れさま」
ルシアンが頬を撫で、その耳元で囁くように告げる。グリモが目を細めるように瞬きをし、鼻面を彼の胸元にすり寄せた。
「こりゃあ……、ちゃんと大事にしていただいたようで」
どこか嬉しそうな厩務員の声に、ルシアンが静かに笑った。それに満足したように、厩務員が頷きながらグリモの手綱を引く。
「ご出立は明日の朝で?」
「ええ、もう一晩、お世話になりますね」
「もちろんです、ごゆっくりお休みください!」
厩務員に見送られ、ルシアンとガルドも馬匹宿へと歩を進める。
今夜はここで一泊。そして明日からまた、旅の続きだ。
一度だけ馬のいななきが聞こえた気がして、ふたりでわずかに振り返った。
それが彼の声だったかはわからない。けれど確かに、その音が別れの挨拶となった。
再び静けさが戻る。軽く息をついたルシアンが、隣のガルドを見上げる。
「次はなんて街なんだい?」
「……、クレストンだ」
返ってきた答えに、ルシアンが満ちた様子で頷いていた。
――【グリモと星見の宿】
《旅の記録》
・場所名(通称):星見の宿
・最寄り街:アウルグレイ
・景観種別:美/静/謎
・特徴メモ:山間にある星見の湯。馬客も多いようで、厩などの設備もあった。
・時期・時間帯:夏
・再訪:時期問わず可
・個人的メモ:
「湯の中に星空があった。地脈の支流が関係しているようだが無害。いつかまた来たい。」
――ルシアンの手帳より




