【晩酌を君と】
星見の湯はほぼ露天に近い造りで、建物から伸びる庇が湯の半分ほどを覆う構造になっている。
夜風が抜けていく。黒い影となった山の稜線と、涼しい夜気、湯の香り。その湯気に混じって、草木の匂いも漂う。
ガルドがとぷりと、また湯に浸かる。魔力泉はやはり熱いが、夜気で冷えた肌には心地よかった。
視線を上げれば、真っ黒い夜空には豊かな星が瞬いている。湯の底からもまた――ほんのりと、淡く光が浮かんでくる。
「……ほぉ」
それがどういう仕組みかは、ガルドにはよくはわからなかったが。
湯の中に、星のような粒が揺れる。手で触れてもそこにはない。けれど、空の星が湯面に映っているわけでもない。確かに湯の中にあった。
なるほど、上を向いても下を向いても"星見"の湯か、と……ガルドもまた空を見上げた。
木でできた仕切りの向こう側、……静かな気配を感じる。
湯に浸かり、のんびりと息をつくルシアンが、同じように空を見上げているのだろうと、なんとなくわかった。
月も遠く、他に明かりもない空は、満天の星空だった。
しばしルシアンは、天を覆う星屑に目を奪われる。
肩まで浸かった湯と、外気にさらされる首元の温度差が心地いい。
視線を湯に落とせば、まるで湯の中からも星が輝いているように、魔力泉が反応している。
魔力の濃度は、夕方に湯に入った時よりもほんの少しだけ高い。回復の効果も、わずかに上がっているか。
空に星が出ていることと、湯の中に星のような魔力のきらめきがあることに関連があるのかは不明だが、手のひらを湯の中で滑らせれば地脈から流れる魔力の支流が――。
(……と、それは無粋だね……)
――ふ、と微笑んで、ルシアンが手のひらの動きを止める。
そしてそんなことよりも、ガルド、またのぼせそうだね、と小さく笑った。
じんわりと、肌に湯を馴染ませる。天の星屑を眺めて、湯の星空を臨む。
美しい景色。美味しい料理。そして温泉。これ以上、何を求める必要があるだろう。
これは、本当に、来た甲斐があった。
――ざば、と仕切りの向こうから、重く湯を切る音がする。とうとう限界らしい。
「ふふっ」
……やっぱりね、と小さく唇を緩め、ルシアンも風呂を出た。
着替えを済ませて廊下に出ると、まるで夕方の再現か、ガルドが長椅子にうなだれるように座っていた。
今度は上裸で、シャツはかろうじて肩にかかっている。斜からルシアンを見上げて、肩を軽くすくめる仕草。
「……おい、湯が熱かったぞ、さっきより……」
「うん、魔力の濃度、ちょっとだけ上がってたみたい」
微笑みながらそう言われ、ガルドはそんなん知るか、といった顔で額を押さえた。
だが確かに景色は綺麗だった。それは間違いのない収穫。
ゆらりとその面前に立ち、ルシアンが手のひらをガルドの額に向ける。
――ひや、とその手のひらから冷気が漂う。まるで氷を当てられたような感覚に、……ガルドが目をつぶった。
「……なん、……何でもありだなお前」
「うん、人には内緒だよ」
「…………」
その言外に"君だけだよ"が聞こえた気がして、ガルドも口を閉ざした。
しばしののちに、わずかにガルドを覗き込むような気配。
「私の部屋で飲むけど、君ももう一杯飲むかい?」
――それとももう休む?と続きそうな気配に、思わずガルドは顔を上げた。
ルシアンの顔が、眼前で遠慮なく微笑んでいる。湯上がりで火照った頬に、夜の涼しさが心地よく馴染んでいた。
「……断る理由がねぇな」
短くそう答え、ようやく肩にかかっていたシャツに袖を通す。その動作ひとつに、どこか律儀さと、妙な照れくささが滲んでいた。
(……あいつの部屋だとよ)
廊下を歩きながら、晩酌の誘いを脳内で反芻する。
互いの部屋で飯を食うことはある。ちょっとのっぴきならない事故で、一晩を共にしたこともある。
だが晩酌は……しかもルシアンの部屋で……ううん……。前を歩くルシアンの背を追いながら、どこへやったらいいかわからない感情をどうにか処理したい。
魔力泉も、酔いも、ひやりとした冷気も、もうすべてかき混ぜられてしまったような心地。
(……、……)
(もう一杯って……もう"一杯"だけか……?)
思考の大半がそんなことへ割かれ始めてしまうほどには、ガルドはもう感情の支点をどこへおけばいいのかわからなくなっていた。
星見の宿、ルシアンの部屋。
「どうぞ」
扉を引き、ルシアンが一歩部屋へ入っていく。
ん、だか、む、だか小さく返し、ガルドもそれに続く。部屋の作りはまったく同じ。家具が多少違うか。
ガルドのほうはテーブルと椅子だったが、こちらはローテーブルと大きめの一人掛けのソファが二つ。
なるほどそれで夕食はあっちの部屋で、とガルドも合点がいった。
部屋の中、かすかに……馬上で感じたルシアンの香りがすることは、あえて意識の外に置きたい。……なんとか置きたい。
あらかじめ頼んでいたのか、ほどなくして宿の従業員が部屋まで地酒を持ってきた。ごゆっくり、とそれだけを言って、すぐに部屋をあとにする。
背の低いテーブルに、ルシアンがそれと杯を並べた。
「明日もあるし、さっきより軽いお酒でいいよね」
ソファへ座りながら、ルシアンが手のひらで向かいの空席を示す。優雅に足などを組んで、まるで何一つ警戒していない。
「ん……いい」
ぶっきらぼうに返事をし、ガルドも促されるままにそちらへ座る。巨躯に、ソファがぎしりと鳴った。
こちらの地酒は食事中のものとは違い、少し果実のような香りがした。
ゆっくりと、ルシアンがそれをひと口飲み――……ふ、と眼差しが和らぐ。気に入ったようだった。
ガルドもそれをひと口含んだ。普段であれば飲まないような軽さの酒だったが、目の前の男が好むなら飲んでもいい、そんな気分だった。
「また明日から、君たちに頑張ってもらわなきゃね」
グリモの姿も思い出しているのか……わずかに目を伏せたルシアンが微笑む。
杯を置いたガルドが、テーブル越しにその姿を見ていた。
湯上がりのままの気楽な部屋着を纏った男は、月光と部屋の灯りの中でどこか儚げに見えた。香りのせいか、空気のせいか、息を吸うたびにガルドの胸の奥がざわつく。
(……頑張ってもらわなきゃ、か――)
……何でもない言葉だ。何でもない言葉なのに、そこに含まれる柔らかさと他人行儀な距離に、舌の裏で声を呑み込む。
反論などない。ただそう簡単に、"仕事として任されている"と受け止めきりたくもなかった。
「……ああ」
けれど低く、短く返す。……ガルドなりの返事でもあった。
ふわりと笑い、杯に再び口をつけるルシアンから、なぜか目を離せない。なんとか視線を逸らすが、柔らかな香りが鼻腔を掠め、また視線が戻る。
静かな夜の部屋に、酒の香と、湯の余韻と、ふたりの気配だけが漂っていた。
――【晩酌を君と】




