【隔たりの宿】
星見の宿は、山間の、少し拓けた場所にあった。
到着する頃には日も傾きかけており、ルシアンの顔色もすっかり元に戻っている。
外で薪を運んでいた宿の従業員が、ルシアンらを見て笑顔でぺこりと頭を下げた。
「おやこれは、こんな山奥までようこそいらっしゃいました!」
「泊まれるか」
「ええ、ええ、もちろんでございます!」
低く問いかけたガルドに二度ほど頷き、けれど従業員の視線はすぐさまグリモの巨体へと向く。
「はぁ、こりゃまた随分立派な馬匹ですなぁ……!」
唖然と見上げる従業員に視線だけで反応を返し、ガルドがひらりと飛び降りた。褒められたことが従業員の表情からわかったのか、グリモもまんざらでもさなそうに、小さく頭を振っている。
当然のようにガルドがルシアンに手を伸ばし、ルシアンもその腕の中に収まった。
「具合どうだ」
「うん、もう大丈夫だよ」
「……本当かよ」
ルシアンを地面へ降ろしながら、ガルドが苦々しげに眉を寄せた。
その脇でグリモの鼻先をくすぐっていた従業員は、巨馬の穏やかさと美しさに惚れ惚れとしている。
「部屋を取ってくるね」
頷くガルドを背に、ルシアンが軽い足取りで帳場へと向かって歩き出す。
積み荷をほどきながら、ガルドも小さく口元を歪めた。
「……どの口が"大丈夫"だっつってんだ……」
手際よく荷を地面に降ろし、鞍を外していく。背中の装具がなくなったグリモは、やっとひと心地つけたように鼻を鳴らしていた。
「賢い子ですなぁ……目もこんなに穏やかで……」
その鼻っ面を撫でていた従業員が、ぽつりと感心したように呟く。かすかに尾を振るグリモは、まるで得意げにしているようだった。
荷をひとまとめに持ち上げ、ガルドもそれを見やる。余計な言葉はなく、宿の建物のほうへと目を向けた。
「……厩はあるか」
「あ、ええ、この子にはちょっと小さいですが、一晩でしたら不便はないかと」
馬で来る方も多くて、と言葉を続けながら、従業員がグリモの手綱に緩く手をかけた。引かれるでもなく、歩いていく従業員に合わせてグリモがゆっくりと歩を進めていく。
ガルドもその栗毛を見送りながら、帳場のほうへ踵を返していった。
淡い外套を揺らしながら現れた男に、帳場にいた女将は目をまんまるくしていた。
穏やかな眼差しとその柔和な物腰に、過不足のない礼をひとつ。
「いらっしゃいまし。湯治でらっしゃいますか?」
「こんにちは、一泊でお願いします。部屋は二つ」
「承知いたしました」
ルシアンの言葉に頷きつつ、女将の視線が一度だけ窓の外へ向く。
巨躯の馬。巨躯の戦士。それを連れた、中性的な男。
一瞬だけ好奇心が湧いてしまうが――己を律し、ルシアンに向き直る。
「こちらにサインを。湯場は大浴場と、仕切りのついた浴場がございます。ご予約制になりますが、どちらにいたしましょう」
「では、仕切りのついたほうでお願いします。それと、星が映ると湯が光ると聞いたのですが」
「ええ、左様でございます。今日は天気も良いので、お望みのものがご覧いただけるかと」
にこりと笑んだ女将の返事に、ルシアンが満足げに頷いた。四日間の馬旅をしてきた甲斐があった。
「馬匹は宿の方で大切にお預かりいたします」
「賢い子です。よろしくお願いしますね」
一通りのやり取りを終え、ルシアンが女将から部屋の鍵を受け取る頃には、荷物を背負ったガルドが中へ入ってきた。
鍵の一つをガルドに渡せば、それを受け取ったガルドが女将に小さく視線をやる。睨みや威嚇ではなく、世話になる、というような眼差し。
「夕食のお時間になったら、お声がけいたしますので」
ぺこ、とルシアンが女将に会釈をして、ガルドと連れ立って宿の奥へ。
――部屋が二つ、仕切り付きの浴場、ということは、そういう関係ではないのかしら、と女将が密かに見送る。
あの大きい旦那のほうは、すっかり護る目をしているのにね、と。
廊下を進む足音が、板張りの床に静かに響いていく。
外の喧騒から切り離されたような、山の宿独特の落ち着いた空気が漂っていた。
指にぶら下げたままの鍵、その木札に彫られている番号と同じ数字の部屋の前で、ガルドが足を止める。扉を開ければ、年季の入った――けれど手入れのされた板張りの床に簡素なベッド。
大きな窓からは、木立の影と正面にそびえる夏の山並みが見えた。
「……へぇ」
なるほど、案外悪くない。遠くの山並みに視線をやってから、改めて部屋の中をざっと見回す。
しん――とした静けさ。荷を下ろし、外套も外し、全部まとめて部屋の隅に置いた。
ルシアンの部屋は、この隣。小さな足音や、こつり、と何かを置くような気配が、壁の向こうから流れてくる。
(……ほんとに、そういう気はねぇんだな、お前は)
声のひとつも出ぬまま、ガルドが苦笑を漏らした。
窓を開ければ、夏の虫の声がする。水のせせらぎも聞こえる。近くを川が流れているらしかった。
またどこからか、かぽ、と蹄鉄の音が聞こえた。グリモだろうか、水を飲むような湿った音もする。
様々な音がするのに、静かだった。
そんな夜の、はじまりだった。
――【隔たりの宿】




