【疾駆】
――朝。
ルシアンが焚き火の始末をする横で、ガルドはグリモに装具や荷物をくくりつけていた。
昨夜の回復魔法のおかげもあってか、馬体の調子もよさそうだ。
荷帯の確認を済ませ、装具の締め付けも確認し、ガルドがルシアンを振り返る。
「……来い」
にこ、と頷いたルシアンが、呼ばれるがままにグリモの横に立つ。
……ガルドの手が、迷う。
両わきか、膝裏か、腰はダメだ、胴……は、ぎりぎり――?
そうしてどんどんと顔をしかめていく護衛を見て、ルシアンが珍しく笑い声をあげた。
「っふふ、あはは、いいよガルド、普通に掴んで持ち上げて?」
「いや、だってお前、……くそっ」
諦めて手を引っ込め、ガルドが頭をがしがしと掻く。小さく舌打ちをしてグリモに向き直り、先に鐙に足をかけた。ぐいと馬上に跨ったガルドが、そのままルシアンへ向かって手を伸ばす。
ルシアンが笑顔でその手を取れば、身体が一気に持ち上げられた。
「……これが一番だ」
「ふふ、そうだね、ありがとう」
昨日と同様にガルドの両膝の間に収まり、なおもルシアンは小さく肩を揺らしている。
「……笑いすぎだ、てめぇ」
「んん」
うんざりしたように低く唸って、ガルドが軽く腰をずらす。それでもしっかりとルシアンの身体が安定するよう、脚と腕で支えを作る動きに迷いはない。
グリモが一歩、また一歩と動き出せば、背のふたりも静かに揺れる。夏とはいえ山の朝の風は涼しく、遠くの山肌には薄い霧がかかっていた。
「……今日は峠道だ。少し登る」
「うん」
「途中で休憩挟む……水場の近くがいい」
ぼそりと告げた声に返されたのは、頷く気配と、懐に預けられる柔らかな重み。朝日が差し込む山道を、三つの影がゆっくりと進んでいく中で。
――すん。
ふと感じた香りに、ガルドが小さく鼻を鳴らした。……視線をわずかに下げる。ルシアンからだ。
ガルドの腕の中、横乗りで、ゆっくりと流れる景色を楽しげに眺めている。
「…………」
確か昨夜、グリモに気を遣って、『香油はつけない』と言っていた。よく清拭に使う薬草水の香りでもない。
だが、ふわりと風に吹かれるたびに、香る。――いい匂いが。
「……お前香油つけたのか」
「うん?何もつけてないよ。グリモに悪いかなと思って」
匂う?と銀の瞳が見上げてくる。
ガルドは前方に視線を流す――ふりをして、目を逸らした。
「いや、なんもねぇ」
「そう?」
――……真っ赤な嘘である。いい匂いがする。
何もつけてないということは、ルシアン自身の香りだということだ。
「匂うかな。ちゃんと清拭したんだけど……」
「……、匂わねぇ。だいじょぶだ、なんもねぇ」
早口で捨てるように言いながら、ガルドは手綱を握り直した。
無意識に力が入り、グリモの歩調がわずかに速まる。すぐに気づいて、手元を緩める。
(――つけてねぇって、なん……くそ、……)
ガルドは舌打ちを堪え、顔をしかめた。……これが、直の、"素の匂い"か、と……小さく咳払い。
腹の奥が熱い。胸の奥も、落ち着かない。それでも胸元に預けられているのは、変わらぬ体温と、無防備な距離。
グリモの背の上、静かに続く山道を、風が吹き抜けていった。
四日目の道程に差しかかる頃には、グリモはだいぶ身軽になっていた。
馬匹宿から持たされた餌が減り、腰にかかる負担が少ない。加えて昼と夜の休憩時に、ルシアンから手厚い回復魔法が施される。
大型の元軍用馬といえど、ガルドほどの巨躯を乗せ、荷物を積載しての連日の旅は負荷が高い。しかしそれでもグリモは穏やかで、どちらにも懐いていた。
またルシアンも、大変満足していた。
星見の湯まではあと少し。グリモは賢く、揺れも少ない。ガルドの手綱の扱いもすっかりと信頼しているし、これは素直に身を委ねるのが一番――そういったところだ。
「……なんかいるな」
それは、順調に歩みを進めていた昼下がりのこと。
ガルドが小さく呟いたのと、グリモの耳がぴくりと震えたのは、ほぼ同時だった。
低く落ちた護衛の声を受けて、ルシアンも周囲に意識を向ける。道は視界もひらけた山道。左右の林縁までは距離があったが、……こちらを見つめるような気配を感じた。
野犬か、それに似た魔獣か。
「チッ……振り切った方が早いが……」
言い淀み、ガルドがルシアンを見下ろす。
この場でグリモを守りながら戦闘に移るよりも、駆け抜けてもらった方が危険も少ない。だが今もルシアンが安定して馬に乗れているのは、そもそもグリモが穏やかに歩いているからこそ。
駆けたら、その衝撃がどれほどかわからない。
……ガルドを見て、グリモを見て、周囲を見たルシアンが、――笑いながらもう一度ガルドを見た。
「じゃあ私、ガルドに掴まってるから、私を掴んでてくれるかい」
ルシアンの声と時を同じくして、林縁をがさがさと何かが走るような音がする。細い腕が、ためらうこともなくガルドの首に回る。
構わん、振り切れ。……そういう構えだった。
「ッ……言ったな」
低く押し殺した声と同時に、ガルドが手綱をきつく引き締めた。グリモがすぐさま脚を踏み締め、ついで地を蹴る。
――風が巻いた。
蹄が土を叩き、景色が後ろへと流れていく。
ルシアンの腕が首に絡み、腕に預けられる重さがさらに増す。
「舌だけ噛むなよッ……」
ガルドが鋭く声を張った。手綱を操る腕に力を込め、両膝で馬体を挟み、もう一方の腕はルシアンの身体がぶれぬよう支えている。
胸に柔らかな重さを感じる。かろうじて耳元に呼吸も感じた。
抱きすくめるすべてがただの旅人のものではないと、今さらながらに思い知らされる。
グリモは走る。――速い。だが、荒れない。
よく調教された馬体が、揺れを最小限に留めて突き進む。
振り返る必要もない。
気配はもう遥か後方。しかし遥か後方にはまだ、いる。
だからガルドは手を緩めなかった。
安全な山道まで、もう少し、あと少しだけ。
首に回った腕のぬくもりを、ほんの一瞬強く感じた。
しばしそのまま山道を疾駆し――やがてグリモが速度を落とし始めた。ガルドが後方に目をやり、周辺の確認をする。獣の群れの気配はない。
道の脇でグリモを止め、すぐさま抱き留めていたルシアンに目をやった。
俯いて、少しうなだれている顔。額に汗も滲んでいる。
が、表情は暗くない。
「……撒、けた……?」
少々、か細めの声。グリモには悪いが、乗降をするよりもこのまま休むのが最善そうだった。
「……撒いた」
「うん……」
するり、とルシアンがガルドの首から腕を降ろし、その肩口に頭を預けた。
思ったよりも揺れなかった。しっかり保定されていて。
――けれど、衝撃が全くないわけでもなかった。
まったく、貧弱な身体だなぁ、とルシアンは頭の隅で思う。……空いた手で、馬上からグリモの背中に触れた。
蛍のような淡い光が舞った。蹄を鳴らして荒い息を整えていたグリモも、ふるりと首を振る。
「――おい、回復よりもお前が先だ」
頭上からの声に、ルシアンも少し笑った。――ありがとう、と護衛の胸のあたりを小さく叩く。
柔らかな髪が肩に触れたままなのを感じながら、……ガルドは息を潜めていた。
ぬるい汗の気配、首筋にかかる吐息、それでも変わらぬ体温。大丈夫だ、腕の中にある――そんな実感が、否応なく全身に沁みていく。
「……どんくらい揺れた」
「……ん、君が思ってるよりも、平気……」
ぽそりと返ってきた声と、ゆっくりと穏やかになっていく気配。息を整えるように振られていたグリモの尾も、同様に落ち着きを取り戻してきた。
「……少ししたら、行くぞ」
もう一度だけ背後に視線をやり、ガルドが低くぼやいた。だがその声に怒気はなく、ただ守りきれた安堵と、自分の腕に預けられた信頼の重みに満ちていた。
頷いたルシアンの指先が、もう一度馬体に触れる。淡く白い光が浮かぶ。たくましい首がふるりと揺れ、グリモが長く深い息を吐いた。
「……お前も、よくやった」
ガルドがそう言って、手綱を握り直す。
ルシアンの頭は、まだ肩口に残っている。小さな重みが、やけに静かに感じられた。
風が落ち着き、山道には再び静けさが戻ってきていた。
その背に乗せたふたりの気配を確かめるように、グリモがゆっくりと歩き出した。
――【疾駆】




