【星見の旅は、馬匹宿から】
夕食の支度が済んだ馬匹宿は、夕餉の良い香りに包まれている。通された食堂は街道宿にしては広めで、天井に立派な木の梁が見える素朴な造り。
食堂の半分ほどが宿泊客で埋まっており、湯気の立つ皿を前に顔を綻ばせていた。
「お待たせしました、ごゆっくりどうぞ」
コトリ、と運ばれてきたのは、焼いた川魚に根菜のスープ、芋と豆を練り込んだ団子のような主菜。
滋味ながら、塩加減も香りも良い。食堂の端では、女将が他の客にも手際よく配膳を進めていた。
「……風呂、最後のほうだった」
水を手にしたガルドがぽそりと言い、食事に手をつけ始める。ルシアンも軽く頷いたのちに、香りを確かめるように目を細めながらそっとスプーンを取った。
窓の隙間から吹き込む風が、優しく食堂のカーテンを揺らす。木の壁の向こうでは、馬たちの気配と、先ほどの厩務員の低い声がかすかに混じっている。
「……けっこう年の馬もいたな」
「うん?」
不意の呟きに、ルシアンが正面の男を見た。赤い視線の先には、厩舎の隅に繋がれていた白毛の老馬。脚の関節を庇うような立ち姿だった。
「ここの馬たちは、必要に応じて旅人に貸し出されるものなのかい」
同じくその老馬を見とめたルシアンが、スプーンを手にしたままガルドに問う。食堂の賑やかさと、外から流れてくる夏の夕暮れの風。ガルドはじっと老馬を見たのちに、ひとつ頷いた。
「ああ。……だがああいうのは、もう世話してんだろうな」
からかうでも、笑うでもない声音だった。ただ温かいものを口にしながら、静かにぽつりと零しただけの呟き。
それを聞いたルシアンも、緩く首を傾げて笑みを返すのみ。
木の壁に囲まれた一夜は、ささやかで温かい。一日を歩き通した疲れも、夕焼けの日差しも、すべてが徐々にほどけていくようだった。
食事が済んだ食堂の穏やかな空気の中で、女将が手ずから淹れた紅茶を飲みながら風呂までの時間を潰す。
――次の街は。この辺りの地理は――。
そういった話をしながら、他の宿泊客の気配や馬たちの声、そして外を流れていく風の音を聞いていた。
先を急がない旅だからこその、ゆるりと流れるひと時。
「――ああ、いらっしゃった」
ふと声がしてふたりが食堂の入り口を見ると、先ほどの厩務員がにこやかに立っていた。
ぺこ、とルシアンが会釈をする。
「いや失礼、おくつろぎ中でしたか。綺麗な場所、と聞いて思い当たった場所がありましてね」
「おや、それはぜひお伺いしたいですね」
ルシアンの笑みが深まり、――ガルドの眉間に皺が寄る。面倒な場所でなければいい、と。
「ちょっと道は険しいですが、ここから十日ほど南へ向かえば、山間に温泉宿がございましてね」
「ほう……」
「"星見の湯"と申しまして、魔力泉とやらでね、夜は星の光に反応して湯が光るんですよ。そりゃあもう綺麗でね」
「それはそれは……」
にこり、とルシアンが向いたのは、厩務員ではなくガルドのほうだった。これは――とガルドが額を押さえる。この笑顔は……もう決定事項だった。
「……十日……片道か」
「ええ、お客さん方は歩きだと伺いましたんで、であればそのくらいかかるかと」
「まぁ……、……馬なら四日、往復でも八日でいけるか。……お前、馬は」
ガルドがやや眉を寄せながら、そうルシアンに尋ねた。
――馬に乗れるのか。技術的にではなく、魔力核的に、である。
ほんの少し首を傾げて、ルシアンが笑う。
「一人乗りは短時間ならね……馬を走らせるのは無理かな」
「相乗り用に、元軍用馬もおりますよ。現役を引退した馬でして」
厩務員の言葉に、ガルドが先ほどの厩舎を反芻した。……確かに、奥の方に巨体の馬が一頭いた。あれのことか。
「……気性は」
低く問うガルドに、厩務員が目を細めて笑い、腰のあたりで丁寧に手を組む。
「はい。のんびり歩く分には申し分ない子です。頑丈なだけが取り柄ですが、山の坂道でも踏ん張りが利きます。脚を痛めることも少ない」
ガルドはそれに無言で頷き、ほんのりと温かさの残るカップに視線を落とした。ついで、目の前の淡紫の男に目を向ける。
「……お前は。相乗り」
問われたルシアンも、紅茶のカップを口に運びながら目元に柔らかな笑みを浮かべていた。その瞳には、既に新たな目的地を描いているような、確信に満ちた光が宿っている。
――ガルドが、重く短く息を吐く。
「……わかった、じゃあそれで行く」
きゅ、と唇の端を引きながら、腕を組んだガルドが椅子の背にもたれる。食堂の灯りが木の壁に柔らかい影を落とす中、嬉しそうに頷いていた厩務員が最後にもう一度、ぺこりと頭を下げた。
「では、馬のことは明日、改めて。本日はごゆっくりお休みください」
そう言って食堂を後にする厩務員の背を見送り、……ガルドはため息混じりに眉間を揉んだ。
「楽しみだね、ガルド」
「そっかよ……」
星見の湯……はともかくとして、"相乗り"だぞ、というガルドの視線は――ルシアンには届かない。
その表情に否を挟む余地はまるでなく、もはや完全に、満足げだった。
――【星見の旅は、馬匹宿から】




