【黒い獣のルド】
「着替えてくるよ」
去り際にそう声をかければ、枕の底から低く声が聞こえた気がした。
――あれを覚えていたとは可哀そうに……と、ルシアンがやや肩をすくめる。
ガルドの部屋から出れば、廊下で朝の清掃をしていた宿の従業員と鉢合わせた。
時刻は早朝。まだ眠る宿泊客も多い中、ふと現れたルシアンに、従業員がぺこりと頭を下げて……、……はた、と出てきた扉を見て、……そろ、と目を逸らす。
「おはようございます」
「へっ、あ、おは、ようございます……」
口ごもる従業員と、そんな短い挨拶をして、ルシアンが隣の自室へと帰っていく。
――ぱたん。
閉じられた扉と、……今出てきた扉を……交互に見やる、従業員。
あれ、この二部屋って冒険者の二人組が泊まってなかったっけ……と思考を手繰るが、確かではな――
――ガチャ。
見つめていた方の扉が開いて、ぬっと強面の冒険者が顔を出した。やや、気だるげで、やや、汗ばんでいらっしゃる。……ちょっと男の色気。そしてさっきの朝帰りのお仲間さん。
赤い瞳が、箒を持っている従業員を見てぴくりと眉を動かし、ちら、と隣の部屋の扉を見る。
「……おい」
「あっはい」
「わりぃが、清拭持ってきてくれ……汗かいてよ」
「ッ……はっ、はいっ……」
あ、汗かくことを……!?などとは声に出さず、何度も頷く。ダメだ。お客さまのプライベートな部分は、さっ、サービス業従事者として立ち入ってはいけないところ……。
箒を壁に立てかけ、慌てて立ち去ろうとした背中に、ガルドがもうひとつ声をかけた。
「あ、おい」
「はいぃっ」
「シーツも頼む」
「ンぐっ……」
どこから出たのかわからないうめき声をあげながら、その従業員は首がもげるほどに頷いて階下へ去っていった。
その日の午後には、ガルドの熱は穏やかに引いていった。
体調自体は回復の兆しを見せてはいたが、……これ以上伏せっていては、また何をやらかしてしまうかわかったものではない。ほぼ、ガルドの意地と根性で風邪を治したようなものだった。
ガルドが受けた精神的ダメージ――そして人知れず被弾した宿従業員の精神的ダメージは計り知れない。
厨房で作ってもらった夕食をガルドの部屋で食べながら、ルシアンがちらりとガルドを見る。
「昨夜はあんなに熱があったのに、治るのも早いんだね。やはり戦士は身体も強いんだろうか」
「……さぁな」
まだ少し掠れの残る声で、ガルドが答えた。
――"昨夜"……。どこか他人事なルシアンの発言にも、もう慣れたものである。
このアウルグレイに来て、今日でもう三日目。今までであれば、三日も街にいれば、何件か食事処を回り、街の中を軽く観光し、近郊の"美しい景色"についての聞き込みを終えている頃合い。
……それが、今回ばかりは、宿にこもりっきりで……加えて例の暴挙……。肩で、ため息をひとつ。
「……。……街の探索、できてねぇな」
「そうだね。でも、面白いものは見れたよ」
す、とルシアンが首を傾げながら笑う。ぐ、とガルドの眉間に皺が寄る。
てめぇ、と口の端がぴくりとする。ゆらり、と窓の外でルドの尾が揺れた気がした。
「……お前、ほんとに……楽しんでやがったな……」
低く唸るようにぼやいたガルドが、スプーンを持つ手を止める。皿の上では、温かいスープがほのかに湯気を立てていた。ルシアンはそれには答えず、水を一口。罪の意識などまるでなさげだ。
その柔らかな仕草に、さらに眉間が寄る。けれどそれを見て、ルシアンの笑みがまたひとつ、深まった。
「……チッ……」
目を逸らして舌打ちを落としたその瞬間、風がふっと吹き抜ける。
ルシアンが窓辺に置いていた水のグラスが、ほんの少し減って、ぴちゃ、と小さく音を立てていた。
結局、このアウルグレイは、四日ほどしか滞在しなかった。
街で得られる、不思議な場所、美しい場所に関する噂話が乏しかったこと。
体調不良により珍しくダウンしたガルドと、いつもどこかに姿を見せた、ルド、という美しい獣を見て、ルシアンが満足したことが大きかった。
荒事もない穏やかな数日間は貴重で、最後に軽く食事や露店巡りを楽しんで、ふたりは街を出ることにした。
朝靄の中、街門へ向かうガルドに、背後からルシアンの柔らかな声がかかる。
「体調は本当に大丈夫かい?もう少し、休んでいってもいいんだよ」
平気だ、と答えようとしてガルドが振り返れば、微笑みながらこちらを見るルシアンの後ろに――ルドが佇んでいた。
黒い、大きな体。豹のようで狼のようで、毛並みは夜のように艶めいて。
――燃えるような、赤い瞳をしていた。
そうしてひとつ、ゆっくりと瞬きをして……ルドはそれきり、立ち消えた。
「……やっぱり、まだ体調悪いのかい?」
心配そうにガルドを見上げてくるルシアンは、後ろのルドには気づかなかったようだった。
銀の瞳に視線を落とし、ルドが消えた街並みを、もう一度だけ一瞥して。
「……いや、……大丈夫だ」
……小さくそれだけを答え、ガルドがまた歩き出す。
アウルグレイへの道中に立ち寄った、廃祠のそばにあった……願いが叶う泉。
あの水を飲んで、ガルドは願った。"――こいつを、そばで見守りたい"と。
仮に、……ルシアンの「美しいものが見たい」という願いと、自分の……その願いが、……あの獣を生み出したのだとしたら。
「不思議な子だったね、ルド」
「……、ああ……」
街を振り返るルシアンの目に、もうルドの姿は見えない。朝陽がうっすらと石畳を照らす。二つの影が、街門を抜けていく。淡く差し込む光に包まれ、淡色の外套が風に揺れた。
歩きながらもガルドの横顔を見上げ、打って変わっての顔色の良さに、ルシアンがほっとしたように小さく息をつく。その瞳には、相変わらずの穏やかさと、どこか名残惜しさのようなものが滲んでいる。
気づいたガルドもそちらを見下ろし、片眉だけで返事とする。――にこり、の笑みが返ってきた。
それきりふたりは、街を振り返る気配もなく、ただ、街道を進んでいった。どの視界を切り取っても、もうあの黒い影は見えないし、何より……。
(……死んでも言えねぇ……)
……たまには不思議は不思議のままで。それでもいいかと、ガルドは思った。
次の美しい景色を見れば、彼はきっとそちらに夢中になるだろうから。
――【黒い獣のルド】
【旅人の街アウルグレイ】
滞在:四日間/宿代:銀貨二十四枚(銀貨四枚×二部屋×三泊)
景観:露店の賑わい、石畳の路地、夜の気配に寄り添ってくる黒い獣
人間:過干渉もあったが、親切な人も多かった
食べ物:ポルンの実。赤くて、甘くて、瑞々しい
次の目的地:未定。ひとまず西へ
……ガルドが熱を出した。無理をさせず、休ませられる街でよかった。
——ルシアンの手帳より




