【嗅がせろ】
夜半――。
ルシアンは、再びガルドの部屋を訪れていた。
熱は夜にかけて上がり、夕食はスープとパンを少し。やはり、少々つらそうだった。
新しい水桶とタオルを手に、ベッドの脇へ寄る。
相変わらず寝台に深く沈み込んでいる護衛は、呼吸こそ荒いが、それでも薄目を開けてこちらを見た。
「…………」
「すまないね、起こしたかい」
囁くようにそう笑い、濡らしたタオルを絞ってからその額に当ててやる。
その冷たさに一度すっと閉じられた瞳が、またじわりと開いた。
相変わらずいまいち焦点は定まっていないが、そのままガルドがゆるゆると上体を起こした。
ベッドの上に座る姿勢になり、一度うなだれるようにがくりと垂れた頭が、のろ、と持ち上がれば。
――据わった目が、ルシアンを見ていた。
「……、……嗅がせろ……」
「えっ」
低く掠れた声がそう言うや否や、ガルドに腕を掴まれ、手荒にベッドに引き込まれてしまう。
半ば押し倒される形になり、ルシアンも少々ぎょっとした。
上に覆いかぶさる護衛は、明らかに高熱で意識が朦朧としている。
(こ、れは……熱でまともじゃないね……?)
どこかじっくりと見下ろすような視線に、ルシアンがそっと寝間着の胸元を緩めた。
一言も喋らず、そこを見下ろしていた眼差しごと、ゆっくりとガルドの顔が近づいてきて――肌に触れる寸前で止まる。
黒い髪が口元に触れそうで、……なんとなく、ルシアンも顔を横に逸らした。
ふ……と胸元に、熱い息がかかる。
――うん、やはり熱が高いね、と思った。
というか、お風呂上がりで香油つけてないんだけど、とも思った。……が、はたしてそれどころなのだろうか。
しばらくの間、そのまま匂いを嗅がれて――ぎしり、とガルドがルシアンの横に倒れこむ。
……すうすうと……寝息を立てている。
本当に、朦朧としていただけのようだ、が……問題は、右腕が巨躯の下敷きになり、抜け出せないことか。
「ええ……」
――微動だにしない。
月明かりが、綿のカーテン越しに差し込んでいた。
薄く、白く照らされた部屋の中、ベッドの上で、ふたりの影が静かに重なっている。……ううん、一体どういう状況なんだろうか……と、ルシアンが月を見上げる。
その細い肩の上、すっかり被さった大きな身体は重く、そして熱い。
首元に額を預ける形で、頬は鎖骨のあたりにあり――まるで、そこで静かに呼吸を整えているかのようだった。
寝息は安定している。熱はまだ高いが、先ほどのような強い荒れはない。意識を朦朧とさせたまま、ただ"好きな匂いの場所"に身を預けたようだった。
犠牲となった右腕は、ちょうどガルドの脇腹から背中のほうへ回されている。
筋肉の圧に腕を抜き取ることも叶わず、……なんとかかろうじてタオルを握っていたが、やがてそれも力なく落ちた。
(…………)
不可抗力……って……使い方あってたかな……と。銀の瞳がぼんやりと天井を眺める。多分あってない。
あれは確か……予期せぬ災害や天変地異で……予見も回避も不能な……外的要因による事態……ああそうだ、まさに泉で腰が抜けたのが"不可抗力"だ……うん。
――冷静を装う。いや、冷静は冷静である。
ならばこれは事故……と言い切ってしまってよいのかどうか、それもちょっと判断に迷う。万が一"力ずく"などということになったら何だか色々とまずいと思って、胸元を開いたのは自分。
まがりなりにも……誘ったわけではない。何故なら相手は病人で、どう見てもまともではなかったし、何より"ガルドなら絶対にしないこと"をしていた。
よってこれは、事案回避における非常に合理的な判断。
(……だよね……?)
開けた首元に、寝息がかかる。外では風の音がふと止み、向かいの屋根に黒い影が静かに降り立っていた。
窓の隙間から、夏の夜の涼しい風がふたりに届く。それを合図にしたように、長い尾がそっと揺れた。
まるで、安心したように。……まるで、そこに在ることを許されたように。
静かな夜の、静かな影。
ぴたりと視界の端に伏せ、"もう一頭の護衛"が息を潜めて夜明けを待っていた。
……さて、そんな翌朝。
身に覚えのない温もりにガルドが目を覚ますと、目の前に鎖骨があった。
一度、目を閉じる。
――しばし熟考――。
――ついで黙考――。
…………もう一度目を開ける。
「……おはよう……?」
「……ッ……な、なん……」
身体の下から声がして、……何でここに、というよりも前に、細い身体にのしかかっていた自分に気づいた。熱の汗とは違う汗が噴き出る。
ぎしりと、身体を浮かせる。
そろりと、細い腕が引き抜かれる。
――ガルド、沈黙――。
「……さすがに痺れたね……感覚がないや」
「お、おま……っいや、わりッ……わりぃ……」
ガルドからはもう、それしか言葉が出てこない。そしてすぐさま、ぎくりとする。
ルシアンが寝間着だ。胸元が少し開いている。っおはようって言われた?
いやそうじゃない、待てよ、記憶が、――記憶がある……。
(……嗅いだ、俺ッ……!!)
めくるめくやらかしの記憶に、ガルドがズン、と枕に突っ伏した。
だいぶ荒めに引きずり込んだ。押し倒した。ルシアン自身に胸元を開かせた。
その……素肌に触れこそしなかったが、今朝までの暴挙を含めれば、これは多分、きっと恐らく、とてもアウトだ。死ぬ。
枕に顔を埋めたまま、ガルドの肩がじわりと熱を帯びていく。額に浮いた汗は、もはや風邪のせいではない。思い出せば出すほど、自分が何をやらかしたのかが脳内で鮮明になっていく。
(嗅いだ……嗅がせろっつって嗅いだ……ボタン開けんの見た……俺それ待ってた……!)
「……くそ……蹴りゃよかったんだ……」
枕の中から聞こえる声からは、どこか悲壮感すら漂う。
痺れた手を揺らし、寝間着の襟元を直しつつ、ルシアンが小さく笑った。
「ええ?蹴らないよ……」
返ってきた穏やかな反応で、わずかにガルドが顔を上げる。雇用主はベッドに腰かけており、決して怒っている顔ではない。……それが余計に、くるものがあった。
そうして、邪な考えも湧く。
(――寝間着っつーことは、腰装備は……)
……ガルドの思考がそれ一色に染まりそうで、もう一段深く、枕に埋まった。
「……わりぃ……」
そしてやはり、それしか言葉が出てこなかった。
――【嗅がせろ】




