【護衛の背中】
ルシアンが冒険者ギルドの大扉を開くと、ギルドホールの空気がざわりとした。好奇の目と不審の目。
――おや、と思う。ここ最近は感じなかった、久々の感覚。まるで、旅の護衛を探しに、初めて冒険者ギルドを訪れた時のようだった。
(――そうか、ガルドがいないから)
そう、ぽつりと、納得する。いつでもあれば、傍らに巨躯の赤眼がいる。
冒険者たちはそれをみて「無哭」だ、と畏怖し、横にいるルシアンも自然と"その仲間"として見られていた。
今日はそれがない。……ただの、ひとつ浮いたような存在。
しかし不躾に投げられる視線に柔和な笑みを返せば、咳払いや誤魔化すような仕草を以てして、目が逸らされていく。
ふん、と小さく鼻を鳴らす――などはしない。やはり、ガルドは彼らとは"違う"のだな、と思った。
「こ、こんにちは、こちらは冒険者ギルドですが……」
ルシアンが受付カウンターの前へ行くと、受付に座っていた女性職員がそう言い、首を傾げた。行き先を間違えていませんか、と言い出しそうな苦笑。
にこり、と柔和な笑みを返しながら、《峠道の安全確認》についての依頼報告書を差し出す。ストーンテイル四匹を討伐するだけの簡単な依頼で、ガルドがものの三十秒で片付けてしまったもの。
報告書が出てきたのを見て、受付女性もようやく安心した顔を見せた。
「依頼の報告をお願いします」
「はい、お預かりします。ギルドカードをお願いします」
言われるがままにルシアンがカードを差し出せば、それを見た女性職員がピッと肩をいからせた。
「し、失礼しました、ルシアンさん!セレフィーネ支部より、依頼報告を承るよう、通達が届いております!」
慌てて女性職員が書類の処理をする中、周囲がまたもさざめき立った。
――"ルシアン"だ。
無哭の連れ。
無哭の"魔術師"。
そんなひそひそとした声が聞こえる。しかしそれと同時に、好奇の気配が、じとりと。
――いないぞ、無哭が――。
ギルドロビーの空気が、静かに変質していくのがわかった。
ざわめき、視線、低く交わされる囁き。……それは、興味と探るような視線が混じり合った"間合い"だった。
淡紫の髪に、銀の瞳。上品な装いと、どこか"高値"な立ち姿。微笑みを絶やさぬその横顔。
彼が無哭と共にいるときは、誰もが容易に口を開かなかった。けれど今――赤い眼の獣は、傍らにいない。
「報告書、ありがとうございました。こちら、報酬金となります」
受付の女性が、ほんの少し緊張を滲ませながら、指先を揃えて銀貨を差し出す。
その指先のわずかな震えも、銀の目の前ではすぐに消えていった。柔らかな眼差しと共にルシアンが受け取り、そっと会釈をする。
淡い外套が踵を返すその瞬間、近くの椅子に腰掛けていた若い冒険者が、立ち上がった。
迷いがちに一歩……普段なら、決して選ばない距離感。
「……あの、魔術師さん。次の依頼、決めてないなら……一緒にどうですか」
やや緊張した声音。それでも、淡紫の横顔を見据える目は逸らされない。
その様子に、周囲の空気がわずかにざわついた。
注目が集まる。視線が増える。ルシアンが、静かに微笑んだ。
――無言。
それだけで、若い冒険者の肩が、すっとすくむ。
「……っ、い、いや、なんでも……っ」
同様に、周囲の視線もわずかに引いていく。逃げるようにホールの隅に戻っていったその背を、誰も笑わなかった。
なぜなら皆、同じ気配を感じ取っていた。
――あの魔術師の"隣"には、いつも赤い眼の男がいる。
そして今、いないはずのその気配が、背筋をぞわりと撫でた気がしたからだ。
ルシアンが踵を返し、ギルドをあとにする。
通りに出るその姿を、誰もが目の端で見送った。
冒険者ギルドを出て、ルシアンは周囲に視線を投げた。
雑踏の中。屋台の影。路地の奥。すぐ後ろ。
やはりきちんと視界に捉えることは叶わないが、それでも視界の端に、あの黒い獣が確かにいた。
「ふふ、ありがとう」
小さくひとりごち、宿への通りを歩きだす。露店通りをいくその道は、軒先に様々な品が並べられていた。
珍しい交易品。見たことのない薬草。十数種類に及ぶ果物。ふと、ポルンという果物が目に入り、手に取る。店主がにこりと笑いかけてきた。
「いらっしゃい」
「珍しいですね。南の方の果物では?」
「ええ、今朝入荷したばかりですよ」
ルシアンがそれを鼻先にもっていけば、爽やかな香り。果汁に溢れ、瑞々しくて、そのままかじれる真っ赤な実。
――伏せっている護衛に、買っていこうか。
そう思っていると、傍らに軽装の冒険者が並んだ。
「なんだぁ、魔術師の兄ちゃん、今日は無哭はいねぇのか」
馴れ馴れしい距離と、言葉。そしてこちらを品定めするような視線。無遠慮に、上から下までじろりと見てくる態度。
先ほど、冒険者ギルドで、遠巻きにルシアンを見ていたうちの一人だった。
――ルシアンの表情に、仮面の笑顔が張り付く。
「ええ、今は別行動で。これから合流です」
「そうかぁ、じゃあよ、無哭が来るまで少し遊んでいかねぇか?退屈させねぇからよ」
それは腰元への視線も合わさって、あまりに品のない発言だった。
店の店主ですら、顔をしかめる。……が、ルシアンの笑顔は、そのままだった。
「ふふ、結構です。よそへどうぞ」
「つねれぇこというなよ。ずっと無哭ばっかじゃつまんねぇだろ?」
「…………」
――軽く、閉口。
小さく息をついたルシアンが口を開こうとしたその時……ずり、とルシアンと冒険者との間に――巨大な黒い影が入り込んできた。
冒険者からは何も見えないようで、急な空気の圧に思わず一歩後ずさる。ルシアンでさえも、やや目を見開く。
「っな、なんだ!?」
(ッ……)
ルシアン自身、初めて間近で見たそれは、黒く艶めく毛並みをもってして、ルシアンを背で庇うように立っていた。
体高はやはり、ルシアンの肩口まで……いや、それよりも少し大きい。陽の光を浴びて、艶めく毛並みが美しかった。
顔は見えない。――が、間違いなく、これまで常に視界の端にいた、あの獣だった。
この場では、ルシアンにしか見えていない。グルルル――と唸る声も、恐らくルシアンにしか、聞こえていない。
「な、なんだ……魔法かなんかかァ?……」
冒険者の男が訝しげにあたりを見回し、ついでルシアンを見る。けれどどうしても、彼の目には何も"映っていない"。
しかし空気は変わらず重たい。肌が粟立つような威圧感。
「っ……チッ、くそ、気味わりぃ……!」
舌打ちを残し、男は踵を返す。すっかり消沈したようで、足早に市場の人混みに紛れていった。
残されたその場に、静けさが戻る。
「……お客さん、なんかしたのかい……」
呆気にとられたように声をかけてきたのは、屋台の店主だった。隣の屋台の女店主が、逃げていった冒険者に鋭い視線を向けている。
「あの男、ここらであんまり評判良くないんだ!なんか知らんが、あたしゃスカッとしたね!」
「はは、ちげぇねぇ」
屋台の店主が同調して、ルシアンも小さく笑った。――黒い獣は、まだルシアンのすぐ隣に。相変わらず冒険者が逃げていった方を睨みつけていて、その顔はルシアンからは見えない。
路上の喧騒の中にあって、まるでそこだけ時が止まっているかのような静謐。
「ポルン、お買い上げかい」
「あ、ええ、そうですね、三つお願いします」
「まいど!」
店主とそんなやり取りをしつつ、遠慮なく、獣の背に目を向けた。
がっしりとした体躯、黒毛は夜を思わせる艶を持ち、……その巨躯は、ぴったりとルシアンを背にして立っている。
低く唸るような呼吸音が、かすかに空気を震わせる。
市場のざわめき、行き交う人々、すべてを背景に――ただひとつ、そこに在る。
果物が入った紙袋をルシアンが受け取ると、それを見届けたように、獣の尾が一度、ゆらりと揺れ……次の瞬間には視界の端から、また音もなく消えていった。
――【護衛の背中】




