【ここは任せた】
(本当は、回復魔法ですぐ治せるんだけど――)
椅子に腰かけ、手帳をぺらりとめくりながら、ルシアンは静かに微笑んだ。
目の前では鉄壁の護衛が弱り、ただ静かに沈んでいる。熱に倒れ、口数も威圧も少ない。
湯が入っていた器には、今は氷を浮かべてある。わずかに霜の残る手のひらを、指先でこすった。
もっと体調がひどそうであれば、すぐに回復魔法を使った。
けれど、なんというか、こう言ってはあれだが、……観察するのにちょうどいい風邪の引き具合であった。
(本人に言ったら怒られそうだね)
ふふ、とルシアンの口元が綻ぶ。
散歩なんて、街に滞在していればいつでも行ける。だが、"風邪を引いたガルド"なんて、狙って見れるものではない。この場に留まるのにこれ以上の理由があるだろうか。
――コンコンコン、と扉がノックされ、ルシアンが腰を上げる。
扉を開けば宿の従業員が食事の盆を持っており、その上には軟らかく煮た野菜スープが乗っていた。
「ありがとうございます」
柔和な笑みで受け取ると、従業員はぺこりと会釈をした。……部屋に戻り、木の盆を手にしたままガルドのベッドに腰かける。
スープの香りに、閉じられていたまぶたがぴく、と揺れた。
「ガルド」
「……、……ん」
「起きて、食べられるかい?」
本心はいたずら心だろうとも、その声はどこまでも優しい。じわりと目を開けたガルドの腕が、緩慢と動く。
眉が寄せられ、重たそうに起き上がる身体。背筋に力を入れるたびに、節々がぎしぎしと訴えていた。
「……ん。……っ……お前なぁ……」
起き上がってすぐのガルドからの抗議の声は、よりにもよってベッドに腰かけている魔術師に対してであった。
自分の部屋の、自分のベッドの上。なんの警戒もなくそうして、……手には湯気の立つスープ椀なぞを持って。
不思議そうに平然と微笑んでいる顔に、そりゃ苦い顔もでる。
「うん?」
「……いや、……はぁ、いや、もらう」
「うん。熱いから気を付けて」
スプーンを差し出され、ガルドはもう黙って受け取った。こんなところで体力と精神力を消耗するわけにもいかない。
苦い顔でスープをひと口。……野菜と塩、それから淡い香草の風味が舌に広がる。
「……ん……うめぇ」
ぼそりとそれだけを漏らし、二口、三口と運んでいく。熱が下がるにはまだかかりそうだったが、腹が満たされれば気も紛れた。
「……こぼしゃしねぇから、そっちの椅子に座ってろ……」
「ああ、そうだね。すまない」
おっと、といった顔で腰を上げたルシアンに、ガルドも胡坐に肘をついてスプーンを器の端に置く。顔をしかめつつも、どこかちょっと安心したような吐息。
その横顔に、淡く笑む気配が寄り添っていた。
濡れたタオルと宿の寝間着を用意し、ルシアンがそれをガルドの近くに置く。
食事は完食。食欲自体はなんとかありそうで、よしとする。
「じゃあ、ちょっとだけギルドに行ってくるよ。汗をかいただろうから、身体を拭いてね。着替えはここに置いた」
タオルと寝間着を指さしながら、その声はどこか楽しそうだ。世話をする方と、される方。いつもと立場が逆である。
ベッドに座り込んだまま、ボーっとする頭でそれを見ていたガルドだったが……やっぱり一人では行くなと言おうとして、ルシアンの背後にある窓が目に入った。
――窓の向こう、民家の屋根の上に、例の黒い獣がいる。……相変わらず、敵意はない。
(……街中は……、……任せるか……)
それは、常時のガルドであれば、ありえない考えだった。
今さらルシアンの護衛を誰にも譲る気はなかったし、あまつさえそれが人間ではないなんて。
だが、高熱で判断力が落ちているのも確か。
どちらにしろ、街中であれば脅威は少ない。ギルドに行って戻ってくるだけなら、すぐだ。
「……すぐ戻れ」
地を這うようなその声に小さく笑いを返し、ルシアンは軽く片手を挙げて応えた。足音も軽やかに、外套がひらりと揺れて部屋を出ていく。扉の閉まる音は、どこまでも静かで柔らかかった。
残されたガルドは、天井を見上げてしばしぼんやりとしたあと、わずかに顔をしかめながら窓のほうへ目を向けた。
屋根の上、黒い影はまだそこにいる。その大きな身体を伏せ、まるで昼寝でもしているかのように、ただ静かに街を見下ろしている。
「……おい、変な奴がいたら……」
掠れた声が呟く。当然、窓の向こうの獣に届く距離でも、声量でもない。届けるつもりも、気力もない。
けれど、あそこにあの獣がいるという事実に、妙な安心を覚えている自分がいた。
ばさりとシャツを脱ぐ。身体はだるいが……タオルを手に取り、汗を拭く。外は夏なのに、熱のせいでやや肌寒い。
(……こりゃ熱上がるか……)
そう思った瞬間、背にしていた窓から、風がすっと吹き込んだ。宿の寝間着の上衣を被ってから――振り返る。
黒い獣の姿は、もう見えない。
けれどその気配は、確かに――街のどこかで、ルシアンを見守っていた。
――【ここは任せた】




